8話-誘い-
尾行させている。
されている、のではない。敢えてさせているのだ。
露店が並ぶ繁華街を歩行中、カーブミラーや路上駐車のサイドミラーで後方を確認する。
確認した先にはいつも、無機質なスーツに身を包んだ若年男性の姿があった。
こちらが振り返るたびに視線をそらしていることが、却ってスパイの私から見ると怪しかった。
ソラン島の中心街、ファルキエ。
浜辺に面した地形を利用して、特区自治政府が近年リゾート地としての開発を進めている商業地区だ。
男女がサーフボード片手に、水着やダイビングスーツを着て行きかう、なかなかに開放的なエリアだ。
観光業や外資の誘致にも力を入れており、世界各国から様々な人種、様々な言語の人々が通りを行きかっている。
当然、チェルージュ国からも。
さほど練度の高いスパイとは思えないし、いざとなれば撒くことは可能。
だが今回の場合は、彼らに私の存在を注目させなければ意味がない。
他ならぬ彼らの所属する国家こそ、今回の標的だからだ。
櫻宗とチェルージュ両国の北部には、宋慶国という名の大陸の半分以上の面積を覆う大国がある。
ソラン島に到着し、レッスンスタジオ付近のホテルでチェックインを済ませた私が真っ先に向かったのは、宋慶国からこの島に移り住んだ移民―――宋僑が経営する地下ライブステージだった。
我々以前に櫻宗国のアイドルも何組かこのライブステージでライブをしているし、契約手数料が安価なので別に自分がやることはさほど珍しいことではない。
ただ、表向きには明らかにされていない【秘密】があった。
このライブステージの管理人が、チェルージュ国の対外経済政策委員会のメンバーとかかわりを持っている。
大っぴらに気さくな態度をとって接してきたこの男・ルーは、笑顔と言いダボダボの服装と言いセカンドバッグといい見るからに胡散臭かった。
何も私は、このステージであの二人にライブをさせようと思っているわけではない。
舞台には清潔感がないし、音響もひどい、見るからにライブステージとして低品質な場所だった。
恐らくは駆け出しのアイドルや気が弱く騙されやすいプロデューサーを甘い言葉で釣って、劣悪な労働条件で働かせているのだろう。
国家の存亡を任せるアイドルを、こんなステージで歌わせるほど安売りはできない。
まずは自分の情報を、彼と、彼がよく知る人物に知らせることが、このオンボロなステージに来た理由だった。
「うーん……正直言わせてもらうと、このステージはうちのアイドルとは相性が悪いかな、と……」
三回にわたる訪問で決断を焦らすだけ焦らして、私は商談を白紙に戻した。
去りしなにルーからの聞くに堪えない罵声を浴びたが、やがてその罵声も消えた。
その後代わりに私に浴びせかけられたのは、複数の視線だった。
ちなみにアイドルの二人は今、ホテルで借りたレクリエーションルームにてダンスのレッスン中である。
「さて……どんな奴が釣れるかな」
■ ■ ■
「【釣り】はできました。あとはそちらが裏工作してくれれば」
「ご苦労様。ベタですが、ハニートラップを使いましょう」
専用回線を介した携帯電話で、【彼】に報告を行う。
なお、彼に電話で指示すべき時間帯は秒単位で決められている。
ファルキエは通りを大勢の人が行きかう大都市だが、私は数か所の裏路地に存在する決して人が通らない死角を選んで通話している。
細工は簡単だ。
まず、チェルージュ側で何か良からぬ商売を行っている人間を、一人スキャンダルで潰す。
国際的に孤立している状況故、ただでさえチェルージュ側のアイドル事業は綱渡り状態のはず。
そこにスキャンダルが舞い込めば、単独での事業は立ち行かなくなることは明白。
そこで頼るのが、我々櫻宗側のアイドル業者、というわけだ。
相手方は、あくまで自分の選択の結果として、我々にコンタクトを取ったつもりでいるはず。
しかしそれは、我々が裏で彼らをその選択へと誘導した結果なのだ。
電話を切った。
瞬時に私の人格は、【霧】の名もなきスパイから、アイドルプロデューサー・カナエ・シモツキのそれに変わる。衣服店で待たせている、カナタとセツナを迎えに行かなければならない。
異世界から帰ったような不思議な感覚だった。
完全な死角の中で秘密の会話をしていた時、私は裏路地の闇の中と同化した気分になる。
そして、すぐ目の前にあるはずの群衆たちの世界から、完全に隔絶されている、とも。
そこまで考えた後、近くにいながら決して交わらない群衆と私のこの距離感は、私とカナタ、セツナという二人のアイドルの関係にも似ているな、と思った。
【霧】の【姫君】という自分の立場ゆえ、私と二人は住む世界が完全に異なっている。
自嘲をかみしめて、私は衣服店への一歩を踏み出した。
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