水死体は一人
「むーん……」
サナに正面から責め立てるように見つめられて、言葉が尻尾を巻いて逃げ出しそうになった。
首の動きに合わせてバラけた青色の髪が肩から流れ落る。
柔らかそうな頬をぷくりと膨らませて、紅玉の如き瞳を眇めたまま質問してきた。
「あなた、好きな人とかいないんですか?」
「……い、……そんなのどうでもいいだろ」「ええ、でも。すごくすごーく後悔していたようですけどね。彼女は」
「なんだよ、俺は被害者だ」
「……なーんか、可哀想ですね。あなたって」
独りごちて、サナは折った膝を抱える。
丸い双眸を縁取る長い影は、彼女が目を伏せる度に白い頬へと落ちた。
担任が扉を開けて入ってくると、騒がしかった教室が静まり返る。
教壇に立つ担任は、石のような固い表情をしていた。
「兎田谷希良さんが亡くなりました。ご遺体は海岸付近の海で見つかったそうです。えー……おそらく死因は、」
俺は兎田谷にとって、侵してはいけないところまで踏みいったのだ。
人間は誰でも、周りに見せずに大事に大事に隠している領域があって、俺はそこに踏み込むべきでは無い。
そして兎田谷希良の領域の中心にいるのが、彼女の兄という存在であるということを俺は知っていた。
知った上で、あえて真実を突きつけて傷つけたのだ。
理解した途端にワイシャツへと滲み出す汗、つま先から冷えていく肉体。
脳味噌が絶えず掻き混ぜられているようで、ノイズの走る視界を手のひらで抑え込む。
瞼を閉じて、目の裏に焼き付いた残像を必死で追い払う。
下校前に見に行った特進クラスの教室には、一つの空席があって、机上の花瓶には菊の花が突き刺さっていた。
生命力の程遠さが俺の両手を恭しく合わせる。
それでも、引っかかりのようなものは決して治らない。
「ええ、でも。すごくすごーく後悔していたようですけどね。彼女は」
実像と虚像の狭間で天使は笑っていた。
喉仏に細い指をかけられて、圧迫される。
筋力が弱いのか、中途半端に余裕を残した気管が反射で咳き込んだ。
瞳を開けると、夕陽に照らされる見慣れたリビングの天井がある。
発生してる事柄を正確に把握してしまい、加害者の正体に落胆せざるを得なかった。
しかし、正体が分かったところで俺が彼女を足蹴にできるかと問われれば、生存本能が理性に勝ったとしても不可能だろう。
彼女の顔は流れる涙の為に光っている。
生理食塩水は梅雨時の雨粒のように透明で、俺の口の端に次々と垂れてきた。
この人はたまに恐ろしく距離が近い。
相手に寄りかかるだけで、彼女にとって都合の良いことが起こる。
他人に何かを錯覚させることが上手いのだ。
どうするのだろうと数秒見つめた。
「はーちゃん、はーちゃん、どこー?」
俺の首から手を離して、子犬が飼い主を探すように絶えず左右を確認する。
仕方なく、腕を伸ばして彼女の頭を撫でた。
すると彼女はぺしゃりと体勢を崩して、のしかかってくる。
上から二番目までのボタンが外れた薄手の白いワンピース。
豊満な胸を押しつけられて、心臓がドキリとする。
彼女の反応を窺うと、無垢な目つきでほけーっと俺を見つめ返す。
俺の上半身に散らばる香色の長髪を一束握って軽く引っ張ってみた。
彼女は頭を傾けたままじっとしていたが、やがて助けを求めるように俺を見る。
彼女の顔……もとい年齢より非常に幼く見える咲璃(さくり)さんの顔は、瞳の割合が大きいせいもあるのだろう。
咲璃さんの灰色の大きな瞳で見つめられると、俺は話すことを忘れて見惚れてしまいそうになった。
美しい、女性なのだ。
きめ細やかな肌も、筆舌に尽くし難い魅力を持っている。
女子大生のような外見に加えて、我儘で気まぐれで、まるで童女じみた無邪気な言動は年齢不詳に拍車をかけていた。
「はーちゃん。はーちゃん、はーちゃん、はーちゃん」
咲璃さんは焦点の定まらない眼差しで、自分を捨てた男の名前を連呼する。
俺は艶やかな髪から手を離して、ぎゅっと背中を抱きしめた。
「……はーちゃんですよ。俺がアンタだけのはーちゃんです。咲璃さん。大丈夫ですか?」
「はー、ちゃん……」
「そうですよ。俺はアンタを愛してます。俺はアンタの為なら何でもしますよ」
「はーちゃん、はーちゃん……」
「愛してます。世界で誰よりも俺はアンタが一番大事だ。何か悲しいことがありましたか?もう心配はいりません。大丈夫ですからね」
声を低め、優しく宥めるように語りかける。
やがて、彼女はすくりと立ち上がった。
雰囲気が一変した彼女は、感情が削ぎ落とされた顔をしている。
絶対零度の視線を向けて、平坦な声で呟く。
「どうして、親は子供を選べないの?」
脈絡のない支離滅裂な発言だ。
質問なのか独り言なのか区別がつかず、俺はしばらく黙り込んでしまう。
レスポンスか遅れたことが気に食わなかったのか、彼女は舌打ちをして、鎖骨辺りを思い切り踏みつけた。
強い衝撃に呻いてしまうが、彼女は気にも留めない。
何やらブツブツと俺への呪詛を漏らしながら、咲璃さんは部屋から出て行った。
幼児退行して熱烈に甘え出したと思えば、少しでも癇に障ることがあればすぐに暴力で訴える。
これが俺の、天草遠志の実の母親だ。
家事なんてろくにやろうとしない。
かろうじて社会で働けてるけど、なんの仕事をしてるのかは不明。
彼女の中には、人間が何人もいるみたいだった。
俺との意思疎通は常に困難。
咲璃さんの言う「はーちゃん」がどんな男なのかは知らないけど、自分が孕ませた女をお腹の子ごと捨てる時点で相当なクソ野郎だ。
咲璃さんは、実の息子である俺さえも妄想に耽る為の道具にしている。
それでも、俺は自分の母親を愛していた。
彼女から必要とされると嬉しいし、どんな事でもしてあげたいのは本心だ。
家族という枠から外れた愛情を抱いていた。
俺はきっと、頭がおかしいのだろう。
あんな状態の母親を見ても、憎しみどころか愛らしさを感じてしまう。
つまり、兎田谷以上に俺は狂っていたし、もうずっと正気ではないのだった。
救われたいなんて甘えるな。
どうして俺が、アンタを救わなきゃいけなかったんだ。
遅いんだよ、全部全部。
友達になんてなれるわけないだろ。
もう遅い、遅すぎるんだ。
兎田谷も同じように考えていたのだろうか。
花はいつだって姦しく、傲慢に自らの色彩を誇り、土に散って還る瞬間だけが唯一愛しく思える。
窓からの光に照らされる机上に置かれた白菊を思い出した。
「それでも、たすけてほしかったのは……」
▼ E N D
どこにもいけない君を待ってる、海の底 ハビィ(ハンネ変えた。) @okitasan
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