二本の分かれ道

最悪な真夏の教室だ。

俺の通う普通科の校舎は、県内ワーストランキングで上位を争うレベルに年季が入っている。

古びた校舎は木造の部分を少なからず残していて、当然クーラーというハイテク機械は存在しない。

猛烈な暑さの苛立ちもあるのだろうか。

今日はいつもの踊り場には行かなかった。

元より俺は一人で静かな昼食が取れるなら校舎裏の生温い空気の日陰で立ち食いしても良かったくらいなのだ。

なぜ今の今まで踊り場に足を運んでいたのか、自分の行動に首を傾げた。

好奇の目を気にせずに過ごすことが出来る空間は貴重である。

故に、それが叶うなら何処でも良かったのだ。


昇降口前まで来たところで、視点が重なった。

俺を視界に捉えた兎田谷は、もつれ気味の足で駆けてくる。

階段から焦ったように降りてくる兎田谷の足下を見つめ、その角度を見て、ふと昔のことを思い出す。

思わず、手を伸ばしながら口を開いた。

「あ、転ぶ」

ずしゃり、と漫画ならそんな擬音が太字で書かれていることだろう。

予想通り、兎田谷は転んでしまった。

最後の一段で自らの左足のくるぶしに右足を引っかけるという間抜けな転び方だ。

埃っぽい床に頬を打ち付けたあげく膝まで擦りむいている。


幼少期、俺が転んだ時も誰も手を差し伸べてはくれなかった。

世界は痛みと悪意に満ちているのだと知って、泣いたものだ。

今も通りかかる生徒は、誰一人として手を差し伸べようとしない。

敢えて手を貸さないことで、相手の成長を促すことは確かにある。

でも、俺はその痛みを知っていたはずだ。

廊下とランデブーする兎田谷に近寄って、助け起こした。

「派手に転んでんな。大丈夫?……転んだら痛いんだよ。よく覚えとけ」

ふらつく兎田谷の腕を引き、立ち上がらせて制服から埃を払う。


「ぅ、う、……そんなの、知って……馬鹿兄貴……」

その言葉に、良からぬものを見てしまったような薄ら寒さを感じたのだ。

背中にざぁっと鳥肌が立っていくのが分かった。

兎田谷は眼鏡を掛け直し、現実を知覚する。

彼女の大きく見開かれた瞳の中には、変に歪んだ俺自身が映っていた。

「は?」

つい不機嫌な声を出してしまう。

内心で舌打ちを禁じえない。

不意のことで、失望の感情を隠すことができなかったのだ。

兎田谷の目は狂っていたし、俺の頭も狂っていた。


途端に、今吸い込んだ空気ですらも生温く、胸糞の悪いものに感じられる。

俺はにこり、と一見害の無さそうな笑顔を貼りつけて彼女から数歩下がって距離を取った。

兎田谷は冷や汗すら浮かべて、引き攣った声を上げる。

「昨日も言ったけどさァ、俺はアンタのオニイチャンじゃない。知らなかったのか?」

「……ぇ、ッぁ……」

「放っておけば辞めるかと思ったけど、アンタはハッキリ言わないと辞めないだろーな。俺はアンタのことも、死んだオチイチャンのことも知ってる。そして、俺はアンタのオニイチャンの代わりになる気は更々無い」

「……な、んで……ちが、そんな、いま、」


兎田谷の顔は今まで見たこともないくらい哀れだった。

顔を歪め、普段のヒステリックな形相など全く影を潜め、泣きそうな顔をしている。

誰かに似ている、と思った。

そう、咲璃さんだ。

俺は圧倒的優位に立っている者が持つ特有の棘のある言葉を悪意たっぷりに笑いながら言う。

「俺はアンタのオニイチャンほど成績優秀じゃない。運動神経も人並みだ。人の上に立つ才能はないし、突っ立ってるだけで人から好かれるわけでもない。俺はアンタのオニイチャンじゃないし、アンタも……アンタはいくら頑張っても兎田谷祐樹にはなれない」

「ッ……どうして……えんじくん……ごめんなさ、で、でも……どし、どうして……そんなこと、私に言うの……?」

どうして、だって?そんなの決まってる。

「大嫌いだからだよ」


芝居の書割のような乾いた蒼穹。

二人きりの雲の上で、サナがひらひらと白い手を伸ばしてくる。

反射的にビクッと肩を揺らしたが、前髪を撫でるだけだった。

「あなたって、冷めてますねー。えぇと、なんですかね。永久凍土……ツンドラ気候だっけ?」

「……、はァ……ドーモ……」

「でも、兎田谷希良さんは今も尚あなたと友達になりたいみたいですよ?あなたは本心を告げて突き放したつもりなのかも知れませんけど、彼女からしたら、思いがけない理解者に欲しかった言葉。きっと、すごくすごーく、嬉しかったんでしょうね。……そうそう、それと。兎田谷希良さんはもうあなたに加害する気は無いみたいです」


足を伸ばして座り込むサナはあどけなさを意識したように微笑む。

俺は何か言わなければならない気がして、のど仏の辺りを震わせたが、眉間に指をくっつけて堪えた。

不快感が上手く言葉にならなかったのだ。

「あら、そんなこわーい顔しないでくださいよ。信じられない?でも、兎田谷希良はそれだけ愛情に飢えていたんですよ。……彼女は明日辺りにあなたを海に誘いたいみたいですけど……さて、あなたはどうしますか?」

パチリと瞬きをした。

目覚めると全く眠気を引きずっておらず、そのせいか疲れも取れた気がしない。

スッキリとした視界は、爽快というより中身が足りていない感じがした。


朝の明るさが加速度を増して広がる。

下駄箱で靴を履き変えようとしたら、別校舎であるはずの兎田谷がまとわりついてきた。

ミントグリーンの三つ編みは汗に濡れて少し乱れている。

「ア!あのね!私!遠志くんと一緒に……」

周囲の注意を引こうとして大声で呼びかける姿はひどく幼稚で、走ってきたのかやや息が弾んでいた。

なんの応答もしないでいると、彼女は焦ったように俺の手首を掴む。

痕が残りそうなほど力が強く、小さく感じた痛みに顔を顰めた。

「俺は、アンタと一緒に海へは行きません」

俺は鋭く兎田谷の眉間を睨みつける。


兎田谷は怯えたように身体を震わせた。

俺は彼女の手を力づくで振り払い、背負っていたリュックを下ろして、チャックを全開にしてから、中身をひっくり返す。

バサバサと音を立て、ボロボロのノートやプリントが学校玄関の床に雪崩落ちる。

「……もしかしたらアンタは、自分のオニイチャンに悪戯を仕掛けたくらいの、ほんの軽い気持ちだったのかもしれない。でもな、何度も言うけど俺は兎田谷祐樹じゃないし、アンタのオニイチャンになる気もない。これは俺の私物だし、攻撃されたのは俺自身だ。加害のリスク。人間を一人追い詰めるリスクを……アンタはこれっぽっちも分かってない」

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