◆5-3

 まるで真っ黒い夜の中に、沈んでしまったような錯覚は一瞬。

「もう良いですわよ」

 優しく囁かれた声に従い、そっと瞼を開けると、そこは随分と狭い部屋の一室だった。壁や天井一杯に良く解らない配管が走り、床も用途不明の何かで殆ど埋まっている。火では無い何かが光るランプの光だけが煌々と輝いていた。

 それだけならまだしも、黒い皹はこの部屋の内部にも走っていて、床には完全に裂け目が出来ていた。そして心臓の音のような鳴動が上がるたび、皹が広がっていく。ここも洞窟街のどこかには間違いないだろう。

 一体どこであるのか、リュクレールには全く解らなかったけれど――部屋の中に据えられた一脚だけのソファの下に、黒い狼がもう一頭、ソファの下に寝転んだまま首を緩慢に持ち上げる。

 そしてそのソファに、小柄な体を埋めている女性がいることに気付き、姿勢を正した。

「貴女は――!」

 緩く伸ばされた足を覆う黒いヒールのブーツ、足首まで覆う前時代的なデザインの黒いドレス、その顔を覆うのも黒い喪服の如しヴェール。正しく、嘗て港町でリュクレールが出会った女性に相違ない――黒き貴婦人と呼ばれる存在が、其処に鎮座していた。

 しかしその体はくたりと脱力したようにソファに投げ出されており、その理由もすぐに気づくことが出来た。本来、丸く膨れていた筈の腹部がべしゃりと萎み、まるで内側から弾けたような大穴が開いていたからだ。人間ならばとうの昔に、命を失っている程の怪我だろう。

 だがその傷跡は、まるで黒い水晶が割れてしまったかのように尖った歪さで、その奥は只の空洞だった。ぽっかりと空いた洞の中は血の一滴も流れておらず、呼吸をしているようにも見えなかった。

「お母様、只今戻りました。お加減は如何でしょうか?」

 ラヴィラがそっと寄り添い声をかけると、その肩が僅かに身動ぎ、ゆるゆると身を起こした。結晶が擦れるきしきしとした音と共に、僅かな欠片が狭い床に散っても、構うこと無く。

「……大丈夫、だ。連れて来てくれたか、ありがとう」

「はい、勿論ですわ。ラヴィラは良い子ですもの」

 礼を言われたのが嬉しいと言いたげに、美しき蝋人形は如何なる奇跡なのか、頬を柔く緩ませて微笑んでいる。自分よりも小さな母の体を支えて座り直させると、そっと顔を覆っていたヴェールを取り去り――その顔を露わにした。

「――」

 息を飲むのを、リュクレールは全力で堪えた。腹部の状態も恐ろしかったが、露わになった顔に目が釘づけになってしまう。

 其処には、数多の傷があった。

 獣の爪に引き裂かれたような痕は額から目に向けて走っていたし、火傷のような痕は頬から鼻にまで広がっていた。矢が刺さったような深い穴も幾つか残っていたし、細かかなものを数えたらきりがない。曲がりなりにも貴婦人と呼ばれた者としては、有り得ない有様だった。まるで古代の奴隷剣闘士が負ったかのような様々な傷に、どれだけの痛みに彼女が耐えていたのか、想像するだけで目の奥が熱くなり、必死になって堪える。

 唇を噛むリュクレールをどう思ったのか、金色の瞳の中に黒い靄がかかったような瞳を持つ黒き貴婦人は、――酷く困った顔をした。

「……急に、連れてきて悪かった。お前と、お前の連れに、悪いことをしたと、思って」

「えっ、あの……いいえ」

 彼女自身も戸惑っていることに気付けて、リュクレールは慌てて礼を返した。

「あれが――崩壊神が、お前達の近くから出ようとしていることには、匂いで気づけた。だが、まさか、あんな物騒なものを人間に刻む奴がいるとは思わなくて、後手に回った。結局迷惑をかけて、悪かった」

 軋む体を捻り、頭を下げる貴婦人に、ラヴィラは困ったように首を傾げ、黒狼は不満げに鼻面に皺を寄せていたが、リュクレールは慌てて、座る彼女の前に跪いた。

「いいえ、こちらこそ折角お教え頂いたのに、ただ手をこまねいてしまい大変申し訳ございません。重ねて、不躾な問いをお許しください。――崩壊神の扉となってしまった夫を、救う手立てをご存知ではありませんか」

 目を合わせ、はっきりと告げると、金の中の黒がもう一度ゆらりと揺れ――瞳が少しだけ細く眇められた。もしかしたら、笑ったのかもしれない。傷で唇が引き攣れているだけかもしれないけれど。

「強いな、お前。――絶対とは言えないし、大丈夫だとも言えないが」

 そう言いながら、黒き貴婦人は自分の腕を緩慢に持ち上げ、自分の肘まで覆う手袋を一枚外す。

「お母様、それは――」

 ラヴィラが驚いたように声を上げ、黒狼が吠える。貴婦人は構わず、するすると抜き取り、やはり傷だらけの腕を晒しながらも――その布を、無造作にリュクレールの前に落とした。反射的に、それを受け止めようと手を指し出し、

「あ、」

 途端、その布は水のように溶けた。零れ落ちていく僅かな粘性のある黒い液体が、リュクレールの掌に落ちた瞬間、それはまた布に戻り、しゅるりと伸びて――刃渡りが小剣程度の、美しい反りのある剣に変わった。手の中に納まった武器に驚いている内、黒き貴婦人は淡々と語った。

「その剣で、お前の夫に刻まれた神紋を削れ。崩壊神が出て来れなくなり、俺の腹に戻ってくる。そうしたら俺が、何とかするから」

 再び剣が溶け、リュクレールの右手だけを覆う綺麗な皮手袋となる。その動きに呆然としつつ顔を上げると、思ったよりも黒き貴婦人は苦しそうに顔を歪めていた。傷が痛むというよりは、心底済まないと言いたげに。

「……ただ、お前の夫の無事は確約できない。もしそいつの魂が既に壊れていたら如何しようも無いし、霊体や肉体が壊れたら、命はもたない」

 容赦のない言葉に、リュクレールは震えた。自分の刀傷が、夫の命を完全に断ってしまう可能性があるという事実に、膝が頽れそうになる。血の気が引いて、無様に歯の根は合わず震えている。それでも――

「……有難うございます。御慈悲を、お借りいたしますわ」

 黒手袋に包まれた手を握り締め、どうにか言葉を絞り出した。

「恐ろしい、ですが。男爵様は、わたくしにお約束してくださいました。わたくしをひとりにしないと、誓って頂きました。ならば、その約束を叶えて頂くためにも、わたくしは剣を取りましょう。……有難うございます、黒き貴婦人様」

「……大仰な呼び方だな。俺なんて、只の奴隷なだけなのに」

 自嘲では無く、本気で思っているのだろう声で言われて、リュクレールの方が戸惑っている内、凄まじい音を立てて奥の扉が開いた。

「おらァ出来たぞ! とっとと持って出て行きやがれェ!」

 同時に凄まじい大声が響き、リュクレールは飛び上がってしまった。入ってきたのは、長く白髪を伸ばした美しく華奢な女性であったが、その眦は限界まで吊り上がり、目の下には隈が広がっている。何より、全身が怒りと苛立ちに満ち溢れたその姿が、リュクレールの瞳にはいつ爆発してもおかしくない火山のように見えてしまい、恐ろしさに固まってしまう。

「てめェらに軒先貸すだけでも腸煮えくりかえってンだ、あと十数える内に出て行きやがれ!!」

 凄まじい悪罵に対し、部屋の中にいる面々はどこ吹く風で、寧ろメイドも黒狼も馬鹿にするように目を逸らした。黒き貴婦人だけが、心底申し訳なさそうに緩く頭を下げる。

「悪かった。感謝する」

「チッ!! ……あ? 誰だテメェ」

 力いっぱい舌打ちをしてから、漸くリュクレールの存在に気付いたらしい女性が訝しげに眉を顰める。その腕の中に彼女が抱えていたのは、

「っそれは、ヤズローの……!?」

 驚きに目を見開く。正しく、ヤズローが手足につけている銀の具足だ。左腕と両足、右腕は、無い。

「なんでテメェがあいつの――いや待て。お前まさか、悪食男爵の女か?」

 訝しげな顔に理解の光が灯り、娘に手を借りて立ち上がった黒き貴婦人もその荷物を覗き込む。

「ちゃんと直ってるみたいだな」

「こ、これを何処で……? ヤズローに一体何があったのですか!?」

 大切な従者の行方に顔を青くするリュクレールに、黒き貴婦人はまたすまなそうに眉を顰める。

「ここより下で出会って、追われたんだが、撒いた後行方が解らなくなった。アラム達に探しに行かせたんだが、これしか見つからなかったらしい。それとその近辺で、酷い蜘蛛の臭いがしたと」

 いつの間にか、彼女の足元には二頭の狼が侍っており、不機嫌そうに鼻を鳴らしていた。どうやら彼らがアラム――嘗て三つ首を持っていた魔狼、戦神を食い殺したとされる暴虐の神の成れの果てなのだろうか。思考が纏まらない内、細身の女性が再び声を荒げた。

「あの蜘蛛女ァ、この僕の最高傑作を! 放り棄てやがった! ふざけんじゃねェ、この腕はそこの犬野郎の牙に耐えたんだぞ!」

「まあまあ、信じられませんが事実なのですね。お兄様達の牙で噛み砕けないものを、人間が作り出すなんて」

「アラム、唸るな」

 ラヴィラが面白そうに微笑み、黒狼たちが牙を剥いて唸るのを、黒い貴婦人が一頭ずつ頭を撫でてやっている。不機嫌極まりない魔操師は彼らを心底不快そうに睨み付けてから、手の中の荷物に軽くペンを走らせ、細い紐を書き加えてぐるりと結わえてから、リュクレールに向けて無造作に差し出した。

「……只管下に進めば、蜘蛛女の巣がある筈だ。縄張りを離れてシアン・ドゥ・シャッスとの約定を破った以上、あいつはもう祓うべき魔に成り下がった。とっととこいつを持ってきやがれ」

「ヤズローも、そこにいる可能性が高いということですね? ……解りました、感謝致します、ミロワール様」

 ヤズローの手足を創り上げた魔操師の名を、リュクレールも知っていたのでそっと告げた。フン、と鼻を鳴らされたが不快さは別口の方にしか無いらしく、改めて貴婦人達を睨み付ける。

「出てけって言ってるだろうがァ! 神共に居座られるなんざ、鳥肌モンなんだよォオ!!」

 絶叫に軽く肩を竦めるだけで答え、黒き貴婦人は己の息子に当たるのだろう二頭の黒狼の首を撫でながら促す。

「その荷物、運ぶのも一苦労そうだな。アラム、手伝ってやれ。その腕と足を持ち主に届けるまで。持ち主の匂いは覚えているだろう?」

「本当ですか!?」

 顔を輝かせるリュクレールに頷き、黒狼の鼻先を二頭同時に撫ぜる。

「魔の者が執着した獲物を手に入れたら、暫くは戦わず逃げる筈。――だがお前達の足なら追いつける」

 黒狼達は、鼻の付け根に数を寄せて、心底嫌そうに唸っていたが――やがて互いの鼻先を擦り合わせ、仕方ないとばかりに一声吠える、と同時。

 ぬるりと、黒い毛を擦り合わせ、まるで二つの影がひとつになるかのように重なった。その肉体はそのまま溶け合うように重なり、あっという間にその姿は、六本足の巨大な双頭の獣になり果てた。リュクレールが唖然としている内、黒髪のメイドが笑顔で促し、獣の背に横座りさせる。

「わたくしが祝福を差し上げます。これで兄様達がどんなに乱暴に走っても、一度降りるまでは振り落とされませんわ。……あなたの命はあなただけのもの。決して無駄遣いなさいませんよう」

「……ありがとうございます、わたくし達の慰め――死女神ラヴィラ様」

 誠意を込めて名を呼ぶと、金色の目がぱちりと瞬き、嬉しそうに微笑んだ。そして一度礼をし下がる彼女に代わり、黒い貴婦人が進み出る。

「頼む。一瞬でもあれの隙をついてくれれば、後は俺が無理やりにでも腹に戻す。無茶を言ってるのは百も承知だが、頼む」

「ええ、全力を尽くします。皆さまもどうかご無事で!」

 挨拶を仕舞いと判断したか、双頭の黒狼が地を蹴って駆け出す。床に開いた皹の隙間にひらりと体を滑り込ませ、崖の壁を蹴って降りていく。悲鳴を上げるのを堪え、落としそうになる大きな荷物を慌てて抱えたリュクレールは、あっという間に地の底へと降りて行った。

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