◆5-2

 地下は混乱を極めていた。

 城下一面に広がった皹は洞窟街まで到達しており、通路の殆どを寸断してしまっていた。更に、地上には届いていない不気味な揺れが断続的に続き、その皹も広がり続けている。“蜘蛛”では籠っていた客と店の者達が、右往左往することしか出来ていない。

「誰か! 誰か助けて! 家が埋まっちゃったのよぉ!」

「姐さんは何処にいるのよ!」

「部屋に声をかけたけど返事がねぇんだ!」

 狭い通路で押し合いへし合い、とても人が通れるものではない。しかし一番上層のここを通らなければ下層へ向かうことは出来ない。

「っ、くう……」

 壁の淵を通ってどうにか進もうとするが、小柄なリュクレールの身体では人ごみから弾き飛ばされてしまう。時間をかけるわけにいかないのに、と歯噛みをする。

 また、ぐらりと地面が揺れ、あちこちで悲鳴が上がる。まるで脈打つ心臓のように、不規則に揺らぐ地面と、確実に広がっていく黒い皹が、人々を恐慌に陥らせている。

「お願い! 誰か!」

 必死に進むリュクレールの耳に、助けを呼ぶ悲鳴が届く。崩れた通路の前でしゃがみ込み、泣き叫んでいる娼婦であろう女だ。暗がりの中に目を凝らすと、瓦礫の下から細くて白いものがはみ出ていて――人間の手だ!

「娘が――動かないの! ねぇ誰か、助けてよお!」

 母親であろう女は必死に声を上げているが、誰もが自分の身を守るので精一杯の状況だ、皆そちらを向こうとすらしない。

 一瞬迷い、それを恥じて、リュクレールはどうにか女の傍に駆け寄った。

「手伝います!」

「あ、あんたは……?」

 身なりで地下の人間だとは思えなかったのだろう、女は戸惑っていたが、それでもリュクレールが自分の手で瓦礫を退かし始めるのを見て、慌てて加わった。例えどんな状況だろうと、助けを求める民の手を拒むことなど、貴族として有り得ない。脆い瓦礫をどうにか突き崩し、埋まってしまった子供を助けようと――

「勇ましいこと。ですがその気高き思い、悪くありませんわ」

「ぇ――」

 鈴を転がすような綺麗な声が、耳元で聞こえ。驚いている内に、目の前の瓦礫が弾け飛んだ。瓦礫の中から、何かが急激に膨れ上がったからだ。

「ひぃ!?」

 悲鳴を上げる女を庇いつつ、リュクレールは見た。瓦礫の下――倒れ伏した子供の上に、黒い影が盛り上がり、豊かな毛並みを蓄えた巨大な犬――否、狼と化した。金色の目と乱杭歯をぎらぎらと輝かせる獣に女は悲鳴を上げるが、狼はその女にも子供にも口を開けることなく、リュクレールの傍に、否、いつの間にかその隣に腰かけている女に侍った。

「有難うございます、右兄様。まぁ、不機嫌ですこと」

 長い黒髪を遠慮なく床に垂らし、闇に浮かび上がる程の白い肌で、瞳だけが金に輝く美しい女は、労うように皺の寄った黒狼の鼻先を細い指で撫でている。リュクレールも呆然としてしまったが、首を振って己を取り戻し、倒れ伏した子供を抱き上げた。気を失っているようだが、その体はまだ温かい。――生きている。

「どうぞ、このままお二人で、地上へお向かい下さい。神殿ならば傷を癒せるでしょう。王太子殿下のご命令で、地下からも避難を認められていますから。きっと娘さんも助かりますわ」

「……っ、わ、わかった。ありがとうよ嬢ちゃん……!」

 状況が理解できていなかったらしい女も、腕の中に子供を渡されて我に返ったのか、慌てて立ち上がった。ほう、と息を吐いている内、両手をそっと冷たい手に掬われた。

「えっ、あ」

「まあ、まあ、こんなに傷ついて、お可哀想に」

 メイドのお仕着せを纏った美しい女が、黒い唇を微笑ませたまま、ゆっくりと冷たい手でリュクレールの掌を撫でる。瓦礫を掘ったり放り投げたりしていたお陰で、小さな手は傷だらけで、指先が裂けて爪が割れていた。今まで全く痛みを感じなかったのに、自分の目で認めた瞬間ぢくぢくと響き出す傷に眉を顰めていると、女の金色の瞳が眇められ。

「痛いの、痛いの、飛んでいきなさいまし」

 そんな言葉と共に、ふっと軽く息を吹きかけられた瞬間。まるで、汚れを白絹で拭われたかのように、掌の傷が消えた。一瞬で、全ての痛みも消えてしまっている。

「これは……奇跡なのですか?」

「あなた方が使うのならば、そう呼ばれるものですわね。わたくしが使うのなら、単なる権能ですけども」

 傷を癒す神官の奇跡かと思いきや、にっこり笑ってそんな風に言われて。リュクレールは、突然現れたこの女性に対し、どうしても警戒心が湧きおこらない自分の不可思議さに漸く納得が出来た。解放された手で汚れたスカートを抓み、優雅に膝を折った。

「感謝を捧げます。僭越ながら、御目通り叶えたこと、幸運に重ねてお礼を。――死女神、ラヴィラ様」

「あら、まあ」

 黒髪の美しいメイドは、驚いたように金目を瞬かせ、またゆうるりと微笑んだ。

「敬虔な子ですこと。わたくしが何であるか、見ただけでお判りになるなんて」

 崩壊神の子供は三柱。長兄は三つ首の狼、末の子は毒吐く大蛇、真中の娘は――美しい黒髪の蝋人形に、死体を埋めて作られた。その肌はまさに真っ白で、皺も傷も無い。神の時代が終わった際、唯一封印されることなく、地下にある死者の国を守り続けているという女神の名は、ラヴィラ。死者を司り慰める神であり、幽霊の神としても知られている。リュクレールにとって、俄かには信じがたくとも、今まさに目の前に在るその姿は――明確に膝を折るべき神そのものであった。

「嗚呼、その瞳のお陰ですわね。珍しいこと、モノの体が少ない分、マナの体が多いのですね、貴女は」

「御慧眼通りにございます。悪霊の契りにより、歪んだ命を受けた身でございますが、加護を頂けたこと、本当に有難き幸せにございます」

「まあ、自分の事を歪んだ、などと仰ってはいけませんわよ。紛れも無く貴女は今此処に存在すること、それを拒否してはいけません。幽霊の脆き魂は、あっという間に黒く穢れて落ちてしまうものなのですから」

 ころころと笑いながら、それでもリュクレールの少し伸びた銀色の髪を撫でてくる手は優しい。まるで全てを受け止める母の如しで、その胸に自然と身を委ねたくなって――慌てて首を横に振った。今、やるべきことは他にある。

「申し訳ございません、わたくしはこれから、夫を助ける為に更に地下へと向かわねばなりません。どうか一時だけ、御加護と慈悲を頂ければと存じます」

 もう一度礼をして、踵を返そうとしたリュクレールの前を、黒狼がずいと塞いだ。牙を剥き出しにして睨まれて、思わず臆する背を冷たい手がまた支えてくれる。

「もう、右兄様。こんな可愛い方を、あまり脅かさないでくださいまし。……ですが今暫し、お待ちくださいリュクレール様」

 神に敬称つきで名を呼ばれ戸惑っている内、美しい女神はにこりと微笑み。

「わたくし達のお母様が、貴女を探しておられるのです。お母様はとてもお優しい方ですので、きっと貴女のお力になって下さいますわ」

 そう言って、女神がぱちりと指を弾いた瞬間。

 黒狼の体が突然膨れ上がった毛玉のようになり、これだけは残った口が大きく広がり――乱杭歯の並んだ奥にばくん、とリュクレールと死女神を閉じ込め、まるで影の中に沈むように全てが消えた。

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