零落せし神々

◆5-1

(ネージ共和国郷土資料誌No.44より抜粋)

 (前略)――旧王都を襲ったこの地震は、局地的で非常に狭い範囲での激しい揺れであったらしく、他の都市には殆ど被害が出ていない。400キュビトは下る巨大な渓谷の壁には、嘗ての地下街である多数の洞窟の入り口が見える。

 この地震による王都の死者は1000人を超え、当時スラム街となっていた地下洞窟での被害者を加えれば更に倍に跳ね上がるという。残念ながら、戸籍が存在していない住民が殆どの為、正確な数値を出すことは難しい――(後略)



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 ばりばりと生木が裂けるよりも大きな音が響き、壁面の氷に皹が入る。がらがらと崩れ落ちてくる氷の塊を、透き通った鱗が遮った。

「っきゃあああ!!」

 思わず悲鳴を上げたリュクレールの頭を庇うようにグラスフェルが手を翳すが、巨大な竜の翼が彼らを更に覆う。同時に、数多の崩れた氷と岩が彼らを覆い、視界が真っ暗になった。数分、もしかしたら数秒だったかもしれないが、リュクレールにとっては酷く長く感じた。

 やがて揺れが収まり、礫の雨が止む。翼がゆるりと動き、氷塊を振り落とした。部屋の中は全てが爆破されたかのような荒れようで、鋭い氷の破片が沢山床に突き刺さっている。あれの一つでも直撃していれば肉の体は完全に潰れていただろう。へなへなと力を失って膝を折りかけるリュクレールだったが、如何にか堪えた。

「奥方殿、大事ないか?」

「……はい、大丈夫です。お手数、申し訳ございません、殿下」

「俺は何もしていない、礼は我が妻に言ってくれ」

「ええ、有難うございます――」

 顔を上げれば大きな竜の顎が地面近くまで降りて来ていて、その鼻先に口付けている王太子が居たので慌てて唇を噛んだ。邪魔をしてはいけないと思える程に、その姿が美しかったからだ。

「ありがとう、我が妻よ。さて、この有様は……どうやら地上の岩盤自体が砕けたようだな。おまけに、城にも大穴が開いたらしい」

 そう言って空を仰ぐグラスフェルの視線を追って、リュクレールも驚く。氷に覆われていた壁が崩れ、その先に空と、崖に開いた無数の穴が見えた。この一瞬で、まるで巨大な谷が現れたかのように、地面が割れてしまったらしい。

「あの穴は洞窟街だろう。同じ地下だ、少し掘ればいくらでも通じる。流石に城に伝わる穴は塞いでいた筈だがな。重ねて済まんが我が妻よ、暫し翼を貸してくれ」

 グラスフェルは本当に申し訳なさそうに問うたが、氷竜は何も言わぬままに首と肩を下げ、まるで背に乗れと促しているような形を取った。鱗を愛し気に撫でたグラスフェルがそこに跨っても、崩さない。リュクレールは迷ったが、王太子に軽く顎をしゃ<られたので、一つ礼をして氷の鱗を踏んだ。

 ひやりとした鱗はとても滑らかで、滑り落ちてしまいそうになるが、氷竜は気にした風もなく、翼を大きく広げた。その一振りですさまじい風が起こり、氷塊が吹き飛ばされる。申し訳ないと思いつつも爪を立ててしがみつかなければ、振り落とされていただろう。

「恐らく震源は、ビザールだ。まずは屋敷に向かうぞ」

「えっ……!」

 大きな風音の中、聞き捨てならない王太子の言葉が聞こえた瞬間、巨大な竜は開いた穴から空へと飛び出した。



 ×××



 ぶわっと顔に風が当たり、息が出来なくなる。再び降り続けている雪は勢いを増したようで、容赦なく顔や体に降りかかってくる。体が冷えていくのを堪えて、リュクレールは空に叫んだ。

「殿下、無礼ながらお尋ねいたします! 何故男爵様が、わたくしの夫が――」

「何故か、は俺にも解らん! だが奴はこの状況を恐らく予見していた! お前をこの王都で一番堅牢なる、我が妻の部屋へ招くよう願われていたからだ」

「っ……!」

 厳しく、だがどことなく済まなそうに告げられた言葉に、絶句した。自分が城に向かうところから、夫の采配の末だった――恐らく、間違いなく、妻を守るために。

 リュクレールはぎゅっと唇を噛み締めた。そうしないと、胸の内から湧きあがる、憤りとしか表現できない感情が溢れだしそうになったからだ。己の体を抱きしめて、感情的な振る舞いをすまいと必死に堪える。

 幸い、彼女の両手足が冷え切る前に、氷竜の巨大な翼は目的地にたどり着くことが出来た。――まるで巨大な岩が落ちたかのような大穴を刻んだ庭から、溢れ出るように広がった皹割れにより、半壊したシアン・ドゥ・シャッス家に。

「――男爵様! ドリス!!」

 真っ青になったリュクレールは我慢できず、着陸する前に竜から飛び降りた。雪の上にどさりと着地し転がらんばかりに走る。半分以上が瓦礫と化した屋敷に、足を止めることも無く取り付き、小さな手で無造作に掴んだ。

「っ、く……ッ、男爵様! ドリス! 返事をしてください!!」

 しかし瓦礫はリュクレールの細腕ではぴくりとも動かず、焦りを堪えきれず叫んだ足元に、何かが這い出てきた。ちょろりと長い尻尾を振って雪の上をよろよろと這いずるのは、瓦礫の隙間から這い出てきたカナヘビだった。まるでリュクレールを導くように、うろうろしながらも崩れた瓦礫の上を歩いていく。

「こっちなの? ……解ったわ!」

 浮かんできた涙を乱暴に袖で拭い、大きな瓦礫を踏んで進む。飛び散る破片で体が傷ついても構わず進んで暫く。数多の瓦礫と雪の下に、本来冬にはあり得ない程青々とした緑の葉が見えた。

「――? これは」

 どうにか引っ張ると、それは青々とした豆の蔓に繋がっていた。まるで何かを守るように螺旋状に巻かれている。どうするかと思う前に、ごうっと風が舞った。

 巨大な氷竜が再び羽をはばたかせ、空に舞ったのだ。グラスフェルは地上にまだいるが、止めるそぶりも見せない。結果、その羽ばたきによりリュクレールの目の前の、大きな瓦礫はばらばらと吹っ飛び――まるでそれを待っていたかのように蔓はくるりと解け――

「……奥方様、御足労をおかけしました。申し訳ございません」

「ドリスッ!! ああ、よく無事で……!」

 見知らぬ少女を守るように抱き締めているドリスが見つかった。魔女術で、瓦礫から身を守ったのだろう。しかしそこに、ビザールは見当たらない。

「ドリス、男爵様は?」

 不安を堪えてそっとドリスの体を助け上げる。思ったよりも軽くて辛かったが、ドリスは細い目をしっかりと見開き、いつも通りの淡々とした声でゆっくりと告げた。

「大変、申し訳ございません。旦那様は今、地の底におられます」

「どう、いうことなの……? ドリス、一体何が」

「旦那様のご命令により、出来うる限り町から離すつもりでしたが間に合いませんでした。旦那様は今、おひとりで――崩壊神と戦っておられます」

 ドリスは一度言葉を切り、眠ったままの女性――よく見れば精々リュクレールと同い年ぐらいの少女だった――を見下ろして、あくまで淡々と、しかし感情を殺しきれない声で語った。

「この娘は、アッペンフェルド家の呪殺師です。とある理由により、旦那様のお命を狙っておりました。ただの狼藉者ならば、幾らでも排することが出来ましたが……旦那様は、この方の命を助けることを厳命されました」

「っ、何故、ですか……?」

 声は疑問だったが、何となく理由を理解してリュクレールはそっと問う。

「……この方は、旦那様の嘗ての友の、妹君です。友の愛した家族である彼女の命を、奪うことはどうしても認められませんでした。それ故に、私も全力を尽くしましたが――呪いの針は旦那様にまで届いてしまい、結果――起こしてはならぬものまで起こしてしまいました」

「崩壊神アルードか」

 いつの間にか、傍にはグラスフェルも来ていた。座りながらも、貴人に対する礼を深々と返してから、ドリスは尚も続ける。

「はい。旦那様の腹部に刻まれた崩壊神の紋より、かの邪神が這い出ようとしております。旦那様はこの状況になることを予測しておられ、出来る限りこの家から、奥方様を遠ざけるように注力しておりました」

 何故、と問いたかったが、リュクレールは唇を噛んで堪えた。理由はもう解っている。万が一の時に、愛する妻の命だけは守る為に相違ない。

 だが、しかし、だからこそ――

「……嫌です」

「奥方様、」

 思わず零れたそれを、ドリスは止める言葉を出すが、気持ちは一緒だったのだろう、それ以上続かない。

「そんなのは、嫌、です……!」

 何もできないまま、守られてしまった。腹腔を熱くする思いは怒りだが、それはビザールに対してではない。頼れないと思われてしまった己の無力さに、だ。もっと自分が強ければ、頼りになれば、過去も今も、夫は話してくれた筈だ。それよりも守られることしか出来なかった己が、只々情けない。

「……奥方様の憤りは、至極ご尤もにございます。御身を悲しませてしまったこと、如何様にも裁きを」

「いいえ……、いいえ」

 真摯に頭を下げるドリスに対し、リュクレールは首を横に振った。

「貴女は、男爵様のご命令を全て果たしたのでしょう。ならば、わたくしが言えることはひとつしかありません。――有難うドリス。男爵様の望みを、叶えてくれて」

 涙を堪えて、笑顔でそう告げた。何よりもまずは、忠実なるこのメイドを讃えるべきだと本気で思ったからだ。ドリスの細い肩が僅かに震え、明確に眉間に皺を寄せた。まるで、泣くのを堪えるかのように。

「勿体ない、お言葉に、ございます。本当に申し訳、ございません――」

 ぐらり、と枯れ枝のような体が傾ぐ。リュクレールが叫ぶ前に、グラスフェルがしっかりと彼女の体を支えた。

「ドリス!」

「力を使い過ぎたのだろう、老骨にはこの寒さも酷だ。急いで神殿に――」

「あたしが運ぶわ!」

 急に響いた声に驚いて顔を上げると、崩れた門から、雪を蹴立てて走ってくる瑞香がいた。当然、小目も後に続いている。

「瑞香様!!」

「城から貴族街から、酷い有様だって聞いて慌てて来たのよ。――で、その子がナーデル・アッペンフェルド?」

「ええ……恐らく」

 瑞香も夫とは長い付き合いだ、彼女の存在も知っているのだろう。ほんの僅か、苦く笑ってしゃがみこむ。

「そ。この子達は責任もってあたしが神殿に運ぶから。あんたはどうする――って、聞くまでもないわね」

 濃い青の目を細めて苦笑される。リュクレールはその瞳を確りと見据え、己の意志で静かに告げた。

「男爵様を、お助けに参ります。瑞香様、どうかドリスとその方を、よろしくお願いいたします」

 揺らがない金と青の瞳に見据えられ、瑞香は柔く笑った。

「了解、乗ったげる。……ヤズローは何処にいるの? こんな状況、あの子が動かないわけないでしょう」

「ええ……ですが、まだ地下から戻ってきていないのです。きっとヤズローにも何かあったのでしょう。そちらも、わたくしが助けに参ります。男爵様を助ける為には、絶対にあの子の手が必要ですもの」

「はぁ……無理しないでね」

 顔を蒼褪めさせている癖、笑顔を見せるリュクレールを、瑞香は眩しいものでも見るように溜息を吐いて――状況を見守っていたグラスフェルに声をかけられた。

「藍商会の商人であったな。商会を動かすことは可能か?」

「これは王太子殿下、覚えて頂き恐悦至極にございます。……何分この雪ですので、時間はかかりますが」

「町の外部に簡易避難所を建設する。燃料、材木、食料、幾らでも入用になる。金は全て城が出す、そちらも惜しむな。洞窟街の人間も地上へ避難することを認める」

 さらりと洞窟街の名を出した王子に驚きつつも、瑞香は礼で答える。先日ビザールから聞いたことを含め、稼ぎ時だときちんと理解したのだろう。

「畏まりました、お任せください」

「負傷者は全て神殿へ。八柱全て解放する。雪は――数日だが俺が何とかする」

「は――」

「正確には、俺の妻がだがな」

 驚く瑞香に、王太子が不適に笑うと同時。細く長い、笛のような鳴き声が聞こえて――雲に溶け込んでいた白い巨体が真っ直ぐにこちらに戻ってくる。

「――氷竜ビンロン……!」

 思わず身を乗り出す瑞香を小目が庇うように前に出る。雪の上に滑らかに着陸した美しい竜に、躊躇わずひらりとグラスフェルは跨り、朗々と声を上げた。

「王都の兵に告げる! グラスフェルは雪雲を率い、暫し王都を離れる! 俺の近衛に動きを報告し、随時王に伝えよ! 地下に居られぬ者達は地上に昇ることを許す! 此れは全て勅命である!」

 魔操師の作成した拡声石を使っているのか、その声は町全体に響いた。同時にばさりと氷龍が羽ばたき、その巨体が再び浮き上がると同時。

「リュクレール・シアン・ドゥ・シャッス!」

「っ、はい!」

「ビザールを頼むぞ! あれと一緒に飲む酒は悪くない!」

「――有難きお言葉、必ずや我が夫にお伝えいたします!」

 リュクレールの声が届いたのか、既に空に舞いあがった竜はひとつ大きく円を描き、見る見るうちに雲に吸い込まれ――分厚い筈の雲が、あっという間に穴が開くように広がり、金陽の光が零れ落ちてきた。

 久しぶりに見たその光の温かさに、混乱していた人々が皆見上げる中。

「――行って参ります!」

 リュクレールは微塵の躊躇いも無く、雪を蹴立てて地下へと向かった。

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