◆4-4

 ひたりと響く言葉がひとつ。ドリスは一瞬辛そうに眉を顰め、膝を雪の上に落とした。耐えられなかったのと――此処に主を来させてしまったことを詫びる為に。

「旦那様……。御足労、申し訳ございません」

「構わないよドリス。客人は自らの脚で迎えねば、シアン・ドゥ・シャッス家の名折れだとも」

 雪をさふさふ踏みながら、丸い体を揺らして歩いてくるその姿に、少女は驚きに目を見開いていた。狙う相手の容姿を知らなかったのだろうか。憎い相手と言うよりは、変な生物を見るような目なのは指摘したいが今ではない。

 当然、ビザールはそんな目も悠々と受け止めて――しかし普段よりほんの僅か、自嘲と申し訳なさをにじませた苦笑でそっと述べた。

「ナーデル・アッペンフェルド嬢、否今はご当主殿と呼ぶべきかもしれないが。吾輩にとって忠実にして優秀なメイドを、まだ失う訳にはいかないのでね。さて、改めて名乗ろう。吾輩の名はビザール・シアン・ドゥ・シャッス、人呼んで悪食男爵。そして、貴女の兄の仇であるよ」

「――お前が」

 少女――ナーデルの表情が変わった。怒りや悲しみが昂ぶりすぎると、却って表情が抜け落ちてしまうのか。漸く見つけた宿敵に、ぐしゃりと髪を掻き乱し、ぶちぶちと自分の紅毛を抜き取る。それは彼女の枯れ枝のような指の間で、長く鋭利な針へと変わる。

「絶対、絶対、許さない。許せるもんか……! 私の、お兄ちゃんを返せッ!!」

 絶叫と共に、繰り出された針。それは当然ビザールに避けられるわけもなく、体中に突き刺ろうとする。

「っ冬の目避けて踊れ枯れ蔦、今少しだけ夢から醒めよ!」

 咄嗟にドリスが杖を振り、雪の下から飛び出て来た蔦が壁を作る――が、長い冬の中緑を殆ど残さず枯れた蔦は、弱い。全ての悪意を遮ることは出来ず、ビザールの顔面に針が届き――

「――頂きます」

 覚悟を決めた挨拶と共に、ビザールは大口を開け、その針を舌で受け止める。怯むことなく、少女は叫んだ。

「ッ死ね! 死んでしまえ! 身も心も魂も、腐り果てろぉ!! お兄ちゃんの仇だぁあああ!!」

 少女は泣いていた。己の悪意、憎悪、悲哀、他者を侵す絶望を、ビザールに刺さった針に送り込む。自分に降りかかる理不尽な厄災を、全て他者にぶつけるかの如く。



 ×××



 ――さて、どれぐらいもつものか。酷く冷静に、ビザールは考えていた。悪霊と名の付くものは幾らでも食してきたが、純然たる悪意の具現化を取り込むことが可能であるのかすら解らない。

 喰らえてはいる。いるが、同時に滅しない。霊質すら寄る辺のない只の悪意は、崩壊神の力で崩れていくが、同時にビザールの肉体に、霊体に、魂に根を張り、痩せ細らせていく。

 普段、ずっと目を逸らしていた心の壷の中から、這い出てくるものは、憤怒や悲哀ではなく――自責だった。

 お前さえいなければ、フルーフ・アッペンフェルドは滅されなかった。

 お前さえいなければ、フィエルテ・シアン・ドゥ・シャッスは消えなかった。

 お前さえいなければ、リイ・シアン・ドゥ・シャッスは死ななかった。

 友も、母も、父も、魂まで全てを滅した。もうこの腹の洞には、何も無い。

【――そろそろ潮時だ】

 腹部の神紋が軋んでいく。身体よりも先に、魂が悪意に朽ちて落ちる。そうすれば制御の利かなくなったこの腹は――

【もう少し広げろ。出やすくなるだろ】

 否、否、否。吾輩は悪食男爵、悪意の百や二百は噛み潰せずに何で名乗れようか。如何にか、ナーデル嬢から全ての悪意を引き剥がし、魂を救わねば。……それぐらいしか、友に報いる手段が思いつかない。

【貴族の矜持なんぞ、知らないが】

 響いてくる声をずっと、聞かない振りをしていたのに。

【こんな体の有様で、愛する妻を抱けるとでも?】

 心底嘲るような声音で、そう言われた一瞬。

 ぴしり。と何かに皹が入る音が聞こえた。

 同時に、ビザールの意識が、一瞬、一瞬だけ、完全に途切れた、その瞬間。


「【――楽しかったが、もう飽きた。落ちろ】」


 ビザールの口から、全く別の低い声がそう告げて。

 自分の魂に皹が入ったと理解した瞬間、誰よりも早くビザールは叫んだ。

「ドリス! 放り投げてくれたまえ!!」

「――仰せの通りに!」

 撃てば響くように、忠実なるメイド長の魔女は杖を振った。

「空まで伸びろ豆の蔓、振るって踊れ、彼方へ届け!!」

 世界に働きかける魔女の歌は、屋敷の中、彼女の部屋、小さな鉢に向けられたもの。応えてそれはあっという間に葉と茎を伸ばし、蔓を太らせ――窓を割って外に飛び出し、ビザールの丸い体を締め上げて、雪舞う空へとぶん投げた。

「え、えええ?!」

 驚愕の声を上げたナーデルを置いて、ビザールの体は空を舞い――やはり重さが勝ったのかすぐに高度を下げ――屋敷を飛び越え、狭い前庭の上に落ちる直前。

「さて、このまま終わるはあまりにも度し難い。少し話をなさいませんか、崩壊神アルード殿!!」

 生まれて初めて、心の奥底から、聞こえる声に応えを返した瞬間。

 ビザールの体が、雪の積もった地面が、王都そのものが――凍った湖面に石が落ちて割れるがごとく、地の底まで引き裂かれた。

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