◆4-3
「――嗚呼、鬱陶しい」
思わず随分と蓮っ葉な言葉を使ってしまい、ドリスは僅かに眉を顰めて猛省した。生まれは東の森の魔女、その血筋故礼儀も何も知らなかったが、貴族のお家に仕えるようになってからは言葉遣いも徹底して直した筈なのに。
余裕を無くしているのだという事実にも重ねて猛省する。仕えるべき主に命じられた役目を果たそうと、気負いすぎている自覚はあるし、……未だ、その命に準じるべきかという葛藤を押し殺せていないからだ。それらの迷いや焦りが、はしたない言葉遣いになってしまったのだろう。ゆっくりと呼吸を繰り返し、心を落ち着ける。
……冷たい紅い針が、己の心臓に向かっているのが解る。ご丁寧に、標本の如く、全ての血管を押さえつけるように大量に。他者を害する悪意の針、呪いの種だ。使い魔に刺さった時点で、自分の体に刺さったも同じ。最早己の体は呪殺師に磔にされているに近しい。
毎日少しずつ、魔を退ける薄荷の葉を噛み、針を融かしていったものの、一本抜く内に二本刺さってくる有様だ。相手が手練れの呪殺師であることは容易に知れた。
ゆるゆると、痛みを堪えて息を吐く。老いたとはいえ、ドリスは一流の魔女だ。多少の術師に後れを取らない自負もある。これほどまでに周到に、容赦なく、主に向かって伸びてくる呪いの針を噛み締めながら――ドリスはいつも通り、冷然とした声で続ける。
「これしきのことで、魔女を殺せるとお思いならば、舐められたものですね」
ぎり、と枯れ枝のように痩せた両手が握り締められる。感情を外に出さぬよう徹底しているドリスにとっては随分と無作法だけれど、止められない。
「負けるものですか。これ以上、坊ちゃまに、重石を捧げるわけには参りません」
氷竜の鱗の欠片を用いればもう少しましな壁が張れただろうが、最後の触媒はリュクレールへ渡してしまった。相手も当然、壁が薄くなったことに気づいているだろう――だからこそ今、決着を付けなければ。
マフラーを頭と首に回して防寒とし、再び雪が強くなりだした外に出た。勝手口を抜けた薄暗い裏路地に、黒く野暮ったい外套に身を包んだ人影が立っている。
「……そろそろ潰れて。目障りなのよ、あんた」
「来ましたか。狼藉者」
全ての感情を殺した声で、ドリスは小さな人影をそう断じた。
正しく、少女と形容していいほど小柄で痩せぎすの女だった。フードから僅かに覗くばさついた紅毛と上着から出た細い手足は、どこか哀れさすら醸し出す容姿だった。しかしその緑瞳だけが、酷く――忌まわしいものを睨むように、ぎらぎらと輝いている。
ドリスは、ビザールの友人達がこの屋敷に招待された際その容姿を見ている。だからこそ、彼女が兄と同じ色彩を持っていることに納得し、また眉を顰めた。少女もまた、フードの下で眦を吊り上げている。
「あんたが道を開ければ、あいつなんてすぐ殺せるのに。早く退きなさいよ、嫌なら潰れなさいよ」
あまりにも呪いの効きが悪いので、業を煮やしたようだ。その辺りはまだ未熟な子供らしいと思ってしまうが、だからこそ動きが読み切れず危険だ。
「……じゃあ、こうしましょう。あんたが守りを外せば、あんたの命は助けてあげるわ。わたしが殺したいのは、ビザール・シアン・ドゥ・シャッスだけだもの」
一瞬湧き立った怒りを、ドリスはぐっと腹に力を込めて止めた。冷静な視線を外さず、淡々と答える。
「問います。貴女に仕事を命じたのは、洞窟街の“蛆”ですか?」
「知らないわ。わたしに依頼をしてすぐ死んだもの。わたしはわたしのやりたいようにやるだけよ」
「成程。私怨もかなり混じっているということですね」
緑の視線が鋭くなる。どうも、感情に任せて呪いを操っているらしい。呪殺師としては三流もいいところだが、それだからこそなのか、信じられない程術力は強い。逆に彼女が正式な修行を修めていたら、太刀打ちが出来なかったやもしれない。それが吉と出るか、凶と出るか。
「残念ですが、貴女の願いを叶えるわけには参りません。旦那様をお守りするのが私の役目であり、私はいずれお生まれになるであろう、旦那様と奥様のお子様をお育てする役目がございますので」
きっぱりと言い放つと、少女が僅かに鼻白む。まるで、未来に希望がある相手に怒るように。
「なにそれ。ふざけないで。あいつが幸せになるなんて、絶対、絶対許せない」
「貴女の怒り自体は尊ばれるべきやもしれません。しかしそれを、旦那様に向けることを許すことは出来ません」
「うるさい、うるさい――じゃああなたが先に死になさいよ!」
「ですが私も、今死ぬわけにはまいりません。私の死が、旦那様を何よりも傷つけてしまうが故に」
「ッ――」
少女が絶句し、緑の瞳がゆらりと揺れても、ドリスは表情を動かさず只告げた。
「老い耄れ一人殺せぬ哀れな呪殺師よ、立ち去りなさい。これ以上、シアン・ドゥ・シャッス家の地を徒に乱すことは許されません」
「どいつも、こいつも――ッ、生意気言ってんじゃないわよ! 全員腐って、崩れ落ちろぉ!!」
怒りと、同時。ドリスの心臓が、ぎしりと軋んだ。呪いの針が、針が、数多の針が、抉りこまれる。萎えそうになる足に力を籠め、杖を振う。
「弾けて爛れ、
手の中に仕込んでいた薬草の葉を振り撒き、己の体を浄化する。しかしこの雪深い冬に、緑はあまり力を発揮できない。全ての針を融かすことは叶わず――
「っ、こふ」
耐え切れず、血がドリスの口端から漏れた。
「あはっは、ほら! 呪い返しも出来ない魔女が、生意気言ってんじゃないわよ!」
勝ち誇ったように嗤う子供の声が不愉快だ。呪い返しは初歩の初歩、出来ないわけがない。その為の鏡も懐に忍ばせてある。しかし、これほどの、他者を死に居たらしめん悪意を呪いとして返してしまえば、確実に術者の方が死ぬ。
――それはきっと、あの方の望むことでは無い。
その葛藤が、彼女の腕を鈍らせた。敵に情けをかけるなど愚の骨頂であると、弟子にも厳しく指導しているというのに。
「……これが、老いというものですか」
詰めが甘くなった己を自嘲するうち、再び呪いの紅針がざくざくと突き刺さってくる。次に心臓を貫かれたら、いよいよ魂がもたない。どれだけ耐え切れるか解らないが、今は一瞬でも時間を――
「なんの、まだまだお前は若いとも、ドリス」
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