◆4-2
畏れ多くも、炎の秘薬と呼ばれた瓶を一口、リュクレールも飲むことを許された。確かに飲んだ瞬間、腑の中に炎が灯ったように体が温まり、氷にしか見えない鱗の上にもおずおずとだが座ることが出来た。
「二年前、冬の山で命を落としかけた俺を救ってくれた、この世で一番美しい竜にして――愛しき我が妻だ」
戯れというには真っ直ぐに淀みない言葉で、この国の王太子はそう告げた。
「無論、夫婦のように誓い合ったわけでもない。竜に言葉は必要ないものであるしな。ただ俺がこの地へ留まってくれと哀願し、これは了承してくれた。ただそれだけだが――それだけでも望外の喜びだ」
声を聴いても、氷の竜はこちらへ気を配ることなど一切なく、自分の首にかけられた巨大な真珠の首飾りを爪先で引っかけ、舌で突いて遊ぶようにしている。竜は皆煌びやかな宝石を尊ぶとは聞いたことがあるが、真であったのだろうか。
美しい竜に暫し見惚れていると、王太子は寧ろ誇らしげに微笑んでから、語り出した。
「さて――シアン・ドゥ・シャッスの女主人である貴殿に問う。洞窟に住まう者は五つ。蜘蛛、蜉蝣、蟻、蛞蝓、蛆。それぞれの由来をお前達は知っているか」
ぴり、と寒さとは違う緊張を感じ、リュクレールも居住まいを正す。
「由来、ですか。調伏を拒んだ絡新婦、地上を追われた魔操師、……それぐらいしか」
不足を恥じて目を伏せると、気にするなと言いたげに緩く手を振られた。
「合っている。そして蟻は地下で生まれ育った兵士、蛞蝓は金で命を買おうとする輩が自ら降りて住み着いた。――最後のひとつ、蛆については、その由来は王家にのみ伝わっている」
「それは――国の機密と言うべきものなのでは」
「情報を制限することが利になるとは思えん、此度は特にな。……古い古い、この国がようやっと国の体裁を為したころの話だ」
驚き身を竦めるリュクレールに構わず、愛妻の尾に腰かけたまま、悠々と足を組みグラスフェルは続けた。
「嘗てこの国は、神への信仰無しでは成り得なかった。天を総べる八柱神、封じられた四地神。人々を徒に傷つけるを良しとする四地神の信仰を、王家は排斥する為に動いた。結局は、神の名を借りた権力闘争に過ぎなかったとは思うが――結果的に、四地神の信仰は禁じられ、信徒達は地下へと潜った。それでも時たま地上にその手を伸ばしてくるため、上も下も疲弊を続けて――いつしか不可侵の契りが結ばれた。当時は今よりもずっと寒く、相争っているだけの余力が無かったとも言える。結果、地上と地下で全く法の違う二つの国が出来上がった」
明確に洞窟街の存在を認める宣言に、リュクレールは目を瞬かせる。公然の秘密ではあるけれど、誰もが、特に王家は目を逸らし続けている筈なのに。
「……王太子殿下が、そのようなこと、宜しいのですか?」
「忖度はいらん、事実だ。地上にいるだけで全てを支配しているなどと嘯く奴も城にはいるが、そういう奴ほど地下の根に養分を吸い取られている餌にすぎん。このまま、互いに顔を背けたままならば、それでも良いと俺は思っているが――手をこちらに伸ばすのならば切り落とす」
絶対に相容れることはない、と鋭い眦が告げ、リュクレールは背筋を伸ばした。どれだけ寛容に見えても、定めた境界を超えることは絶対にないとその瞳が物語っている。すぐに小さく息を吐き、空気を弛緩させたが。
「話がずれたな。四地神を邪神と呼び、地下に封じて見て見ぬふりをしたのは、誤りではないと俺自身は思っている。遠き西の大陸には、四地神の信仰を掲げた国も嘗てはあったそうだが、贄と破壊を尊んだ結果滅んだと言われているしな。そしてもうひとつ、相容れぬ信仰を有する者達が、この国にいた。崩壊神アルードの妻でありながら、魔女王ヴァラティープとも異なる、名前すら知られていない神もどき。それに祈りを捧げ、復活を望む者達だ。文献などにも碌に記載が無く、如何なる存在なのか、そもそも神なのかすら解っていない」
グラスフェルの話から、夫の話を思い出してリュクレールの顔が強張る。まさにそれを指す名は――
「黒き貴婦人」
ぽつりと零れた言葉に、グラスフェルは流石だな、と言いたげにひとつ頷き、更に続ける。
「それを崩壊神の唯一手綱を取れる神として、信仰している一派があった。彼らはその信仰ゆえに、他の神の力を排斥しようと動き、結果地下の一番底に追いやられた。――それが“蛆”だ。彼奴等が騒ぎ出したのは、彼女にとって一番の敵である、崩壊神の信仰が地上に現れたことではないか、と俺は危惧している」
淡々と話す言葉に怒りは無い。しかし、崩壊神の信仰と言うものが何であるか、既に彼は当たりを付けているように見えて、リュクレールは勝手に責められている気分になってしまい、ぎゅうっと両手を握り締めた。
「そして先日――まだお前達が南方国に行っていた頃だ、洞窟街に全身を黒いドレスに包んだ夫人が、黒髪のメイド、及び二匹の黒犬と共に地下に潜ったことが確認された。彼女こそが、恐らく今地下が騒がしい原因だ。――あちらが不干渉を破るのならば、こちらとしても牙を剥かない理由はない。向こうがどんな手段を使ってくるのかは解らないが――」
言葉を止めたグラスフェルが不意に立ち上がる。その一瞬先に、氷の竜がその長い首を降ろし、まるでグラスフェルを守るかのように包み込んだからだ。リュクレールも同じように包まれ――その瞬間、凄まじい轟音と衝撃が響き、氷の天蓋が、割れた。
×××
深い深い地の底、地上の寒さも届かない最奥にて、密やかに声が交わされる。
「何人死んだ?」
「八人だ。蟻に三人、蜘蛛に五人」
「皆祈れ。信仰に殉じた者達の魂を慰めんがため」
白布に身を包んだ、男とも女ともつかぬ者達が、車座になって両手を組み合わせ、祈りを捧げる。
「
「
「
一人ひとりが放つのは小さな囁きである筈なのに、その声は寸分違わずぴたりと重なり、大きな洞の中に朗々と響く。
「我等の神、世界を断じる美しき傷の御方が降臨召された今、我等に迷い等無い。――地上へ辿り着けたものは何人か」
「恐らく、二人。かの扉の者を恨みに持つ相手を、探しあてた筈」
「では、届くか」
「祈ろう。遥か千年を超えて、漸く我らの神がお戻りになられたのだ。その望みを叶える為、我等は魂の全てを捧げよう。暴虐も病も死も、崩壊すらも、恐れることはない」
彼らは皆一様に表情に乏しいが、それでも落ち窪んだ目をぎらぎらと輝かせていた。望みが漸く叶うことへの法悦が、彼らを突き動かしているのだろう。
嘗て、信仰を奪われるのを拒み、地下へと潜った一族がいた。世界を創る始原神が従える八柱神、世界を壊す崩壊神が連れ立つ四地神。そのどれでもない、最早忘れられた神に対する信仰を保ち続けた結果、外界から完全に切り離された彼らは、自分達以外のものを害することに何ら痛痒を感じていない。純化されていった信仰はただひとつの祈りとなり、拒否するものを許さない。
「――こちらの長は何処におりますでしょうか」
不意に、空気が軋む。―瞬の違和感の後、白い者達の真ん中に、長い黒髪の女が現れた。古臭いメイドのお仕着せを身に着けた、美しい女。怯えたように皆首を竦めるが、平伏しはしない。彼らにとって、この女は崇めるものではない。女の方も気にした風もなく、人形のように整った顔に嵌め込まれた金色の目をくるりと動かし、笑みひとつなく問うた。
「お母様がお前達の所業にお怒りです。全員頭を垂れなさい」
「ど、どういうことでしょうか、死女神よ。我等に一体何の不備が」
「お母様が命じられたのは、崩壊神――お父様の扉を閉じろというもの。それなのにお前達は、過ちを犯しました。お前達は、お父様の扉が人間に刻み込まれていることを知っていたのですね?」
底冷えのするような低い声に、蛆達は今度こそ平伏した。信仰からではない、これ以上この女を見上げていれば、その首を切り落とされると理解したからだ。
「た、確かにそれは事実です。であればこそ、我等は出来うる限り地の上へと手を伸ばし、扉の者を殺す為――」
ふう、と黒く塗られた唇からため息が漏れた。黒髪の美しいメイドは心底果れたと言いたげに形の良い眉を筆め、最早見る価値もなしと踵を返す。
「ラヴィラ様!」
「お慈悲を!」
「わたくしが慈悲をかけるのは死を恐れず、死に甘えぬ魂のみ。この世全てに慈悲をかけられるお方は、お母様をおいて他にありません。それを知っていてよくもまあ――」
「やめろ、ラヴィラ」
底冷えする金色の視線が、はっと我に返る。黒髪を翻して女は声の主に駆けより、蛆達は今度こそ信仰を持って平伏した。
「お母様ッ! 鳴呼、よくぞご無事で! お体の方は――」
今までの仕草が嘘のように、ラヴィラと呼ばれた黒髪の女はおろおろと声を揺らし、黒衣の貴婦人へ駆け寄った。
地の底まで身重の姿で駆けてきた黒い貴婦人は、僅かに体をよろめかせ、黒狼に支えて貰っている。ラヴィラは素早くその体を、まるで子供を抱くようにそっとしゃがみこませた。荒い息の下から、黒い貴婦人は声を絞り出す。
「お前が、怒るな。俺も、思いつかなかった」
「そんな、お母様……」
「いつの間にか、神らしい考え方が板についていたらしい。……そんな脆いものを、あいつが見過ごす筈が無いと――っぐう!」
深い悔恨の声が、苦鳴で遮られる。両腕で膨れた腹を抱えて蹲る貴婦人を、ラヴィラが慌てて支える。黒狼達はぐるぐると警戒の唸りを上げ、蛆達は何が起こるのかと身を寄せ合うしか出来ない。
「お母様、お母様ッ!」
「っくそ、出て、くるな……! まだ、早い、まだお前を――ッあああああ!!」
床を蹴りつけて暴れる貴婦人の体が大きく反り返り、痙攣し。びきりと何か、割れる音がしたと思った瞬間――天井が、割れた。
まるで皿を硬い地面に叩きつけたかのように、一瞬で、天蓋全体に皹が走り――ただでさえ縦横に走っていた洞窟街の通路は、その皹により軋み、割れ、崩れ落ちる。凄まじい轟音と、上からなだれ落ちてくる土砂に、あっという間に蛆たちは、悲鳴もあげずに飲み込まれた。
「右兄様、左兄様!」
その中で、黒髪のメイドは母親と呼ぶ黒き貴婦人をしっかりと抱えて叫ぶ。同時に、黒狼はその姿をじわりと一瞬影に戻し、姿を重ね――二つの首を持つ巨大な狼へと変貌した。二人の女を背に負い、揺れ続ける地面を蹴って走る。
岩盤が僅かに残る庇の下に滑り込み、揺れが収まるのも待たず、メイドは痛ましげに貴婦人の腹部へそっと手を当てる。
今の今まで、丸く膨れていたその腹は、嘘のように萎んでいた。その真ん中には、黒い水晶の洞のような、奇妙な穴が開いていて、まるで暗い虚ろのように、中には何も見えない。傷と言うにはあまりにも奇妙なそれが痛むのか、貴婦人は苦しげに身を捩る。顔を覆うヴェールも、油汗で貼り付いてしまっていた。
「が、っは、ぅうう……!」
「お母様! 鳴呼、なんてことでしょう……お父様が」
僅かに震える声で、そう言われ。ヴェールをそっと避けられた黒き貴婦人は、汗みどろのまま――悔しげに、歯を噛んで傷で引き攣る唇を震わせていた。
「あ、の野郎……、扉が殺されると知って、すぐさま向かいやがった。物質や霊質よりも先に、魂だけ食らって、扉を保つつもりだ」
両手を握りしめて、悔恨と共に貴婦人は叫ぶ。
「今はまだ、無理だ、出てくるな――アルード……!」
その声は酷く悔し気であると同時に、どこか哀願にも聞こえた。
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