運命に追いつかれる

◆4-1

 次の日の朝。未だ雪雲が空に留まり続けて薄暗くはあったが、雪は止んでいたし、朝には違いない。

 リュクレールはいつも通り防寒具を着て外に出たが、今日の目的は雪かきでは無い。お使いだ。

 夫に命じられ、ドリスは心底申し訳なさそうだったが、リュクレールは喜んで承った。ドリスが作った魔女の秘薬を、王城に住まう王太子に届けるという、とても重大な任務である。本来男爵位が何の先触れもなく、王族に謁見する等許されざること。ビザールが祓魔の家系であり、王太子と懇意にしているからこその特例だ。

 薬瓶を詰めるだけ詰めたバスケットを抱え、相変わらず雪かきが必要なぐらい積もった庭の雪に足を踏み入れると、ほとんど足が沈まなかった。夜の底冷えにより凍ってしまったのかもしれないが、まるで雪に触れず守られているように足が軽い。おかげで、辻馬車が無くともリュクレールは全く歩調を緩めず、宮殿まで歩くことが出来た。

 通用門を守る兵士は、現れた子供にしか見えないリュクレールを疑わし気に見たけれど、彼女の貴族としてとても優雅な挨拶に毒気を抜かれ、更に夫から預かっていた氷竜鱗の欠片を見せると顔色を変えた。待たされた時間はわずかで、すぐに王城内に案内される。

 裏から入る城は、あまり煌びやかさを見せず、しかし厳粛な神殿を思わせる造りをしていた。好奇心から見渡したい気持ちを堪えつつ、兵士の案内のままに足を進めていくと、絨毯に覆われていた床が石造りになった。

「……我々は、これ以上入ることは許されていません。どうぞ、お進みください」

 緊張した兵士の声がそう告げる頃には、リュクレールも違和感に気付いていた。

 ――寒い。魔操師による暖房が完備されている筈の王城なのに、地下から立ち上ってくる冷気が足元に忍び寄ってきている。不安はあるが、それでも彼女は足を進め、やがて霜がこびりついている巨大な扉の前に辿り着いた。

 はあ、と吐いた息が真っ白に広がる。外よりも冷え切った空気を吸うだけで胸が痛くなる。一体ここがどういう場所なのかさっぱり解らないが、このままでいるわけにもいかない。扉の前で、ドリスに言われた通り氷の鱗を掲げると、僅かな音が段々と大きくなり――凍り付いた扉が、軋んで開いた。

「っ……!」

 ぶわ、と部屋の中から今までと比べものにならない冷気が襲ってきて、リュクレールは堪らず体を縮める。あっという間に体の熱を奪われてしまうような寒さを必死に堪えている内――部屋の中から声がした。

「怒るな、狼藉者ではない。――ああ、大丈夫だ」

 低く、覇気のある声が聞こえたと思った瞬間、ふっと冷気が緩む。

「覚えているか? この部屋を作った者の縁者だ。……そう、お前も俺も、害されることは無い」

 漸く閉じていた目を開けると、大きく開かれた扉の向こうに部屋が見えて、息を飲む。

 そこはまるで、氷の洞窟だった。

 壁も床も天井も、透き通った氷に覆われていて、数多の氷柱が床と天井を繋いでいる。ごく小さな氷の欠片が宙に浮いて煌く様はまるで星のようで、リュクレールは感嘆の溜息を吐いた。その吐く息ですら、氷の粒となって辺りに散ってしまったけれど。

 そして氷で形作られた、まるで巨大な鳥の巣のような窪みの中に、巨大な生物――と形容して良いのか解らないが――鎮座していた。

 まさに氷のように透き通った鱗でその巨体を覆い、滑らかな姿を晒す大蜥蜴。角冠は大きく広がり虹色の光彩を放ち、大きな瞳も同じ色をしていた。口に並ぶ牙も氷で出来ており、一噛みすれば人間など容易く食いちぎれるだろう。

 しかし、鋭くはあるのにそんな血生臭さとは無縁の美しさが姿の端々に見えた。何も知らぬまま、平伏してしまいたくなるほどの威厳すら放っている。

「遣い、大儀である」

 そして何より、その巨体の傍ら、包むように伸びている巨大な尾の上に体を預けて寝転んでいたのが、この国の王太子である男であることに気づき、慌てて跪いた。

「こ、これは王太子殿下、ご無礼申し訳ございません」

「楽にしろ、この部屋には俺達以外は入れないし、声も届かん。魔女殿からの遣いに相違ないか?」

 その言葉にやるべきことを思い出し、リュクレールは背筋を伸ばして部屋の中に進む。また軋んで扉は閉じられていったけれど、やはり先刻よりも寒さは和らいでいた。

「はい。我が夫とその忠実なる従者より、こちらへ赴くよう承りました。この薬をお届けする為に」

「律儀な奥方殿だ」

 あくまで王太子は気安く笑い、ゆっくりと立ち上がる。氷の塊のような龍に侍っていたにも関わらず、その体は震えひとつ見せない。

「ドリスが精製した炎の秘薬にございます。仕込みは冬に入る前に行った故、効果に支障はないとお伝えするように、承りました」

「確かに。感謝するぞ、シアン・ドゥ・シャッス」

 安堵と喜びを押さえられぬ声で、王太子は自らの手でリュクレールの差し出す荷物から、秘薬の小瓶を一本抜き取ると無造作に一口呷った。毒見もさせない豪胆さに驚くが、グラスフェルは気にした風も無い。

「これだけあれば、この冬ぐらいは持ちそうだな。――さて、このような場所で悪いが、お前さえ良ければ少し時間を貰いたい。我が妻も、このところ気を張っていてな、ほんの少しの戯れに付き合ってくれまいか」

「きょ、恐縮にございます。では、やはり、こちらの――方が」

 どう形容していいか解らず、もう一度氷の巨体を見上げる。透き通った竜は、丸めた体躯に顎を預けながら、片目だけでこちらを睥睨している。噂には聞いていたし、夫からも冗談交じりで伝えられていたけれど。

「王太子殿下の、奥方様でいらっしゃるのですね」

「――っはは。まこと、慧眼を持っている淑女だな貴殿は。だからこそビザールも、お前をこちらに寄越したのだとは思うが」

 からからと快活に笑い、グラスフェルはもう一度妻の尾に腰かけ、リュクレールを指で軽く呼んだ。

「気にせず座れ。我が妻の尾は、貴殿程度ではびくともしない」

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