◆3-3

 温かくて狭苦しい場所に押し込められている。

 僅かに途切れていた意識が戻ってきて、ヤズローは瞼を開く。暗い。何処とも知れぬ穴倉に引きずり込まれたらしい。

 身を動かそうとするが、叶わない。銀蜘蛛が吐くのとは比べ物にならないぐらいに太くて粘性の高い糸が、体中に巻き付いている。なお悪いことに、ヤズローの銀腕と銀脚は、全て外されて同じように絡めとられていた。小さな蜘蛛たちが糸の上だけでなく、体の上をするすると這いながら、巨大な巣を作り続けている。

 舌打ちしようにも、同じ糸が口をぎちりと封じているので叶わない。怒りも苛立ちもあるが、一番は悔しさだ。魔の者に対し隙を見せてはいけないと、頭に叩き込まれていた筈なのに。

「鳴呼――坊や。目が覚めたのね」

 随分とうっとりとした女の声が聞こえる。闇かと思った黒髪が、蛇のように体を這いずっていく。やがて、細く白い腕ではなく、黒と黄の縞模様の毛に覆われた、節くれだった足が伸びてきた。その鋭い爪先でヤズローの頬をすいと撫でると、べったりと張り付いていた筈の糸がばらりと解ける。漸く口だけが自由になったので、ヤズローは容赦なく闇に向かって唾を吐いた。無作法だと解っているが止められない。其処に相手がいるかどうかも解らないけれど。

「まあ、ふふ。おいたは駄目よ、坊や。安心なさい、此処にいれば、安全だから。――私が絶対に守ってあげる」

 声は聞こえるが、顔が見えない。だがそこに普段の腹の立つ余裕はないと、ヤズローは感じた。ミロワールも、レイユァも、この洞窟街自体が、何かに急き立てられるようにさざめいている。彼女も焦っているのだ。その結果が、この約定を放り捨てた暴挙だろう。

「………縄張りを捨てたのか」

「いいえ? 糸は張っているし、娘達は良く働いているわ」

「だが此処は“蜘蛛”じゃねえ。もっと奥、下手すりゃ“蛆”に近いはずだ。それに」

 漸く闇に眼が慣れてきた。暗がりの洞の中、白い糸が所狭しと並ぶ巨大な蜘蛛の巣。ヤズローはその真ん中に括りつけられており――他にも犠牲者はいた。黒装束の“蟻”の兵隊や、髪も肌も真っ白な痩せぎすの、見覚えの無い姿のものが多数。皆、彼女の腹を満たす為ではないのだろう、徒に食いちぎられたままこと切れていた。歯を食いしばり、闇の中空を呪みつける。其処に僅かに燿めく、八つの金目に向けて。

「他の互助会の連中を手にかけたな? 鎮圧するための“蟻”も」

「だって、邪魔をするんだもの。約定を破ったのは、“蛆”が先。あれが帰ってきたからって、ぞわぞわと這い出てくるから、みぃんな此処で絡めとっていたの」

 互助会の長が、自ら他の街の民を殺すのは洞窟街においては許されざる禁忌だ。“蟻”はそれを罰する為に動く者達だし、暴挙を続けて行けば洞窟街の危うい秩序自体が瓦解する。……恐らく彼女は、本気でそれでも構わないと思っているのだろう。ただの気まぐれではなく、そうするだけの理由があるからこそ。そう考えられるぐらいには、ヤズローも彼女の事を知っていたから。

 短い手足をどうにか動かして糸から離れようとするが、叶わない。また、毛むくじゃらの足があやすように、或いは獲物の食いでを確かめるように触れてくる。

「嗚呼、怒らないで、坊や。貴方達の為なのよ?」

 嘘つけ、と叫ぶより先に、聞き捨てならない声が聞こえた。

「だって、“蛆”の目的は、ビザール・シアン・ドゥ・シャッスなんだもの」

「……なんだと?」

 漸くヤズローの意識がこちらに向いたのが嬉しいと言わんばかりに、闇と金の瞳が揺れた。

「虚ろの腹に刻まれているのは、崩壊神の扉。それを開かせない為に、“蛆”はビザール・シアン・ドゥ・シャッスを殺そうとしたわ。だから私は此処に巣を張って、“蛆”達を食らっていたの。ね? 貴方の為でしょう?」

 誉めて欲しいと言いたいのか、女の声が弾む。怒りで体中の毛が逆立ちそうになるが、唇を噛んで滲んだ血を飲み込み、どうにか問いを返す。

「……何故、今だ。“蛆”ってのは、この国が出来る前から地の底深くにいる連中だろう。……あの黒い服の女と、何か関係があるのか?」

「女? ――嗚呼、そう」

 僅かに訝し気な低い声の後、納得の息が揺れる。また黒髪がゆるゆるとヤズローの体をはい回りながら、いつの間にか酷く近くで声が響いた。

「あれはね、何者でもないの。神でも、竜でも、魔でも、人でもない。男でも、女でもない。そして生すら、死すらない。全ての理を壊された、哀れなもの。その癖神に愛されて、世界の終わりまで彷徨い続ける、只の生贄」

 甘い吐息が鼻を操る。いつもならば桑の実色の蠱惑的な唇は、酷く大きく広がって、憚ましい形の黒い牙が這い出している。今にも鼻先に齧りつこうとするその口を睨み続けていると、ほんの僅か笑った声がした。

「“蛆”達はあれを、唯一の神として崇めているけれど、あれ自身にそんなつもりは無いでしようね。あれの目的はただひとつ、崩壊神を殺すこと。夢物語に縛られて、哀れな迷路を彷徨い続けているだけなのよ」

「っだから、旦那様を殺すってのか!」

「ええ、いいえ、どうかしら。確かにビザール・シアン・ドゥ・シャッスが先に死ねば、扉は封じられるでしよう。でも、そんなことを、あの残酷で気紛れで、どうしようもなく退屈している神が許すかしら。それよりも前に、扉を無理やりに開いて、出てこようとするでしょうね。本当に、子供にあんなものを仕込むなんて、シアン・ドゥ・シャッスはなんて恐ろしいことをするのかしら。私をこの地に縛り付けた時の当主は、まだ優しかったのにね――、ッ!」

 我慢できず、ヤズローは動いた。無理やり体を持ち上げて、日の前に並んだ黒い牙に噛みつこうとした。勿論相手に痛痒を齎さず、逆にその大きな口はにんまりと笑い――ずるりと、青色の舌が牙の間から滑り出てきた。

「嗚呼――いけない子。すぐに食べては勿体ないから、我慢していたのに――」

 既に、闇の中の巨大な体をヤズローは捉えていた。その姿は最早、人の形を殆ど無くしていた。長い黒髪はそのままに、白い胴体は黒と黄の縞毛に覆われ、鉤爪つきの巨大な足は八本に増えていた。金の八つ目は皆丸く同じ大きさで、物欲しそうにぎらぎらと輝いて――巨大な口は、ヤズローの頭を丸呑みできるほどに広がった。

「ええ、そう、そうね。もう、いつあれが起きるか解らないもの。少しはシブカに倣おうかしら。一度お腹の中に入れてしまえば、もう盗られる心配は、無いものね――」

 酷くうっとりと、熱に浮かされた声と共に、更に深い闇へとヤズローは飲み込まれる。

 最後の抵抗として、身を捩った時。ぴくりとも動かない小さな蜘蛛が一匹、頬から唇に落ちたので、噛み潰して飲み込んでやった。

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