◆3-2
次の日も雪が止むことは無く、再びリュクレールは庭に出ていた。はあ、と大きなため息が真っ白く広がっていく。
「………ヤズロー、大丈夫かしら」
予定では昨日今日には既に帰ってくる予定だったのだが、未だその気配もない。勿論、四肢の修理にかなり時間がかかるであろうことは事前に聞いていたし、まだ予定の範疇であろうことは解っているが、それでも心配だ。夫はもし今日も音沙汰無ければ洞窟街まで迎えに参りましょう、とは言ってくれたけれど。
不安を振り払うように首を振り、改めて雪をかき始める。昨日作った筈の道は全く見えなくなっており、玄関からやり直しだ。一生懸命雪を掘り、捨て、と繰り返していると、車輪の軋む音が聞こえて顔を上げた。きちんと雪かきされた道を、南方国の意匠が入った馬車が走ってきて、門の前で止まった。未だ道が完成されていない為、リュクレールは慌てて駆け出す。
「瑞香様! 少々お待ちくださいませ、すぐに片付けますので!」
「え? ちょっとなんで奥様が雪かきやってんのよ! ヤズローは!?」
いつも通り小目の手を払いながら、雪の上によいしょと足を置いた瑞香が、雪塗れのリュクレールに驚いて声を上ずらせる。
「ヤズローは、まだ洞窟街から戻っておりませんもので、わたくしが代わりに努めております。申し訳ありません、今道を作りますので」
「いぃーわよそんな重労働しなくて! 小目、あんたがやっといて。ここの庭ぐらいすぐ終わるでしよ!」
「御意」
「えっ!」
瑞香は丈の長い南方国の装束が雪に塗れるのも構わず歩き進んできて、容赦ない命令を従者に下した。一言で応えた小目が、無理やりでない程度の力でリュクレールの手からスコップを奪い、ざくざくと雪を掘り進んでいく。流石馬力が段違いなだけあって、見る見るうちに庭の雪はひと塊に集められていった。
「いえ、そんな、わたくしの仕事ですので!」
「いーのいーの、こいつこの国来てから、いっつも店前の雪も掃除してるし慣れたもんよ。ほら、奥様も家入りましょ! あーもう頬っぺた真っ赤じゃないの!」
リュクレールの僅かな抵抗は意味を成さず、瑞香は鼻歌交じりで雪を蹴飛ばし、玄関へ向かっていった。どうしようと思うけれど、かの小目からスコップを取り戻すのは不可能に近いだろう。一度ぺこりと礼をして、彼女も玄関に向かい――もう一度振り向いた。
雪を只管庭隅に放っていく小目の姿はいつもと全く変わらない。汗ひとつかかず、只瑞香の命令に従うのみ。――彼が本当は瑞香の兄の従者であり、ネージに帰ろうとした瑞香とヤズローを追って襲い掛かってきたとは、とても信じられない。勿論、ヤズローの報告を疑うつもりもないが。
リュクレールはほんの僅か、青と金二色に綺麗に分かれた瞳を細める。彼女の瞳をもってしても、小目の姿は上手く認識出来なかった。雪にけぶっているだけでなく、酷く――魂の色が薄い。普段から気配を消しているからかもしれないが、そうだとしても。
主の瑞香が限界まで水を湛えた器であるとするのなら、彼は――何も入っていない小さな器だった。リュクレールが見る限り、中身が空なのだ。何もない。それがとても寂しく見えて――。
そこまで考えて、リュクレールはぺちりと、冷えた自分の両手で頬を叩いた。また不躾に他者を見透かすような真似をしてしまった己を恥じる。見る限り、彼と瑞香の間に幡りは無いように見える――たとえ表向きでも、彼らがそう見せているのならば、穿り返すことは失礼だ。猛省し、リュクレールはもう一度小目の背中に礼をして、屋敷の中に戻る。
小目は一度も振り向かず、只管雪かきを続けていた。
×××
暖炉の火が赤々と燃える応接室の、一人がけソファにみっちりと収まる肉の塊がひとつ。
ビザールは短い手を腹の上で組んだまま、目を閉じている。傍にはドリスが控え、来る予定である客への茶の準備に余念がない。やがて、騒がしい声が玄関のフロアに響いてくるのが聞こえ、むちりと頬を持ち上げた。
「ドリス、こちらの準備はもういいよ。我が愛しの奥方殿に温めたミルクを差し上げてくれたまえ」
「……畏まりました、仰せの通りに」
少し迷ったようだが、力仕事に勤しんだ奥方を労う方を取ったらしい。深々と礼をしつつも、どこか不安そうな気配を珍しく消さないまま。
勿論、呪殺師に対しての不安や怯えでは無い。……主が話したくないことを話さなければならなくなるのでは、という気遣いだ。何故呪殺師にビザールが狙われているのかという理由も、充分過ぎるくらい彼女も理解しているので。
去っていくその細い背を見送り、ビザールはソファの上でみちりと肩を竦めた。いい加減彼女の心労を減らしてあげたいのだが、昔から如何にも難しい。ぎしぎしと軋むソファの上でもぞもぞ動きながら、己に対する葛藤を続けること暫く。自分の手で応接室のドアを開けて入ってきた瑞香が、訝しげに眉を顰めた。
「あら何、芋虫の冬眠の練習?」
「ンッハッハ、今は春に羽搏く雌伏の時ということであるね。待っていたよ親友」
「奥様を雪かきに借り出してぬくぬくしてんじゃないわよ芋虫。何、ヤズローそんなに時間かかってるの?」
言い方はいつも通りの伝法な口利きだが、ヤズローの満身創痍の原因が自分にあると思っているのだろう瑞香の顔色は優れない。安心させるためににんまりと笑いつつ、自らよいしょと身を持ち上げて手ずから茶を入れた。
「修理自体はもう終わっているとは思うのだがね、ミロワール殿が離してくれないようだ。もしかしたら帰り際にレイユァ殿に捕まっているかもしれないね、お二人とも我慢も遠慮もしなさそうだ」
「成程、モテる男は辛いわね。――納品に来たわよ、これで全部ね」
瑞香がソファに深く腰掛けたところで、荷物を抱えた小目が入ってきた。先刻まで雪かきをしていたにも関わらず汗一つ見せず、大きな袋をテーブルの上にどさりと置く。縛っていた口を広げると、その中には様々な長さの、透き通った細長い石が詰め込まれていた。
「おお、これはこれは有難い! 我が国では殆ど取れなくなってしまったからね、白水晶は」
一粒取り出した大き目のものも、テーブルに転がる小さ目のものも、全てが規則正しい正八面柱をしていた。皆氷よりも透き通り、ほのかに光を灯している。ほくほくと腹を揺らすビザールに対し、瑞香は不思議そうに首を傾げている。
「それ、そんなに欲しい物なの? うちの鉱山じゃ屑石扱いだし、神殿に持って行ってもあんまり売れないのに」
「ンッハッハ、それは仕方あるまい。もはやこの国は、神の守りを良しとしなくなりつつあるのだからね。しかし吾輩には例え気休めであろうと、出来る限りあるに越したことは無い。さて、ついでにもう一つ頼まれてくれると有難い」
「別料金よ」
「ンッハッハ、容赦がないな親友、已むを得まい。……もし今後、この王都で大きな事故が起こった場合、お前の人脈を利用したいのだ。洞窟街の“蛞蝓”リマス殿に、渡りをつけて貰いたい」
「……具体的には?」
不可解且つ素直に頷けない提案に、瑞香は形の良い眉をきゅっと歪め、胸元から扇子を取り出し、口元を覆った。ビザールは気にした風も無く続ける。
「この季節、貴族も平民も、冬を超えるにはあらゆるものを欲する。食料も燃料も、あるに越したことはない。もしそれらが不足するような状況に陥った時に、お前に動いて欲しいのだ。今年の冬はいつもより雪が深い、何かが起これば弱いものから死んでいく。お前とリマス殿の力を借りれば、如何にか保つことが出来る筈だ」
ビザールは笑顔だ。普段通りの笑顔。何故そうなるのか要領を得ない言い方に瑞香は不快そうに顔を顰め、膝に肘をつけて身を乗り出す。
「ねぇビザール、新婚旅行の諸経費はもう全部払ったわよね?」
「うむうむ、遠慮なく頂いたとも。お陰で我が家は無事に冬を越せるようで感謝の極みだ」
「つまり今、あんたとあたしには貸し借り無しよ。――吐きなさい。何が起こるの?」
「……ンッハッハ。流石に敏いな、親友」
いつになくビザールの笑い声は弱く響いた。彼にだけは知られたくなかったという思いが滲んでしまったのかもしれない。しかし瑞香も退く訳がなく、堂々と腕を組んでビザールを睨み付けている。ふう、と息を吐き、ソファにもすんと座り直した。
「先日、我が有能なる魔女であるドリスが、外部からの攻撃を受けた。使い魔に、呪いの針が突き刺さっていたそうだ。一度刺さってしまえば呪いの道が出来る――お前も聞いたことがあるだろう」
ぴく、と瑞香の扇子が揺れた。自然と指に力が入ってしまったのだろう。深く青い瑠璃の瞳を見詰めながら、ビザールもいつになく静かに語る。
「しかしドリスの腕は吾輩が良く知っている、並の相手ならば歯牙にもかけないだろう。つまり我が家に宣戦布告をした者は、非常に腕の良い、呪殺師だ。寡聞にして、この国でそれだけの実力のある家系を、吾輩はひとつしか知らない」
「……、」
瑞香が息を飲んで目を見開く。その言い方だけで、相手が何者で、何故親友が言う事を渋ったのかを全て理解したのだろう。一度きつく目を閉じてから、扇子の下で囁くように言う。
「……そう。間違いないのね?」
「九割五分といったところであるかな。かの家ならば――そして今の当主ならば、こちらを狙う理由は充分あるだろうしね」
ひくりとビザールは頬を震わせてしまった。笑顔を作ろうとして、出来なかったのだ。納得せざるを得ない理由で、悪意を向けられていると知っているが故に。
「そして、もしも呪いが吾輩に直接向いて来た場合、更に厄介な事になりかねない。最悪の事態に陥った時に、お前の手を貸して欲しいのだよ」
自然と腹を撫でていたビザールに対し、瑞香はひとつ息を吐く。
「成程、ね。……で、念の為聞くけど。このまま泣き寝入りするわけじゃないでしょうね?」
「まさか」
きっぱりと答えると、瑞香が目を細めた。多分、笑ったのだろう。そこにかなりの強がりが混じっていたとしても。
「吾輩の命は吾輩だけのものではない。何より、このままでは吾輩よりも先にドリスの命が尽きてしまうやもしれない。そのような事を許すわけにはいかないよ、我が母の名に誓って吾輩は――アッペンフェルド家と事を構えよう。無論、呪いに対しては吾輩役立たず故、皆の力を借りることになるだろうがね! ンッハッハッハッハ!」
「ふん、調子戻ったじゃない」
ぱちん、と扇子を閉じて瑞香が立ち上がる。いつも通り、悪戯っぽい笑みのままで。
「お代はいつも通りつけとくわ、――踏み倒したら許さないからね」
彼らしい激励に得たりと頷くと、瑞香は扉に歩いていく。当然のように小目も後ろに続いた。
「――瑞香」
「謝るんならぶん殴るわよ」
思わず。思わず口からまろび出てしまった名は、他ならぬ持ち主に切り捨てられた。
僅かに開いた扉を背にして、瑞香はビザールを睨む。瑠璃の瞳の奥に、ちろちろと閃く炎が見えた気がした。
「あんたが決めて、あたしは泣いた。あれはそれで、全部おしまい。あんたに詫びて欲しくも、償って欲しくも無い。ああするしかなかったことを、あたしがずっと嫌がってるだけなんだから」
「ああ。――嗚呼。解っているとも、親友」
両手を握り締め、それだけ告げると、変な顔ね、と瑞香は苦く笑った。
「あんたはずっと笑ってなさいな、奥様やヤズローが心配するでしょ。――それじゃあね」
瑞香が去っていく。その後ろを小目が追っていく。動きに遅滞はない、いつも通りだ。
ビザールは大きく息を吐いてソファに沈む。陸に上がった魚のように、何度か口を開いて閉じて――何も言えなかった。
祈りを捧げることは出来ない。
懺悔を乞うことも出来ない。
ただただ、心の中の洞に、感情が零れて落ちていく。
ざりり、とまた身の内が削れた気がして――
【――諦める気になったか?】
慈悲深い声を、ビザールは無視した。
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