雁字搦め

◆3-1

 くらくらと湯が煮立つ、薬草の浮かんだ小さな鍋を見つめながら、ドリスは細く深く息を吐き出した。

 厨房ではない。男爵の小さな屋敷、その片隅にあるドリスの私室だ。壁際には冬でも入用になる薬草や毒草の鉢が所狭しと並び、テーブルには魔女術の薬を煎じる為のランプと小鍋が据え付けられている。其処から立ち昇る煙を細い目で見つめながら、ドリスはテーブルへ布を広げた。

 害を防ぐ刺繍を刻んだその布に包まれていたのは、鼠の死骸だった。しかも、ただの鼠ではない。ドリスが数年かけて様々な術を仕込み完成させた使い魔だ。その鼠が、小さな首を赤い針で貫かれて絶命していた。ほんの僅か、役目を果たした僕に対し黙祷を捧げ、ドリスはもう一度溜息を吐く。

「……耄碌したものです。此処に至るまで気づかないとは」

 そう言いながら、直接触れぬよう布ごと赤い針を抓み、ゆっくりと引き抜く。まるで限界まで錆びた釘のようにぼろぼろと崩れていくが、それでも最後に残ったのは、ごく細い紅毛だった。

 この国の王太子も赤毛だが、彼の髪は炎のような明るい赤なのに対し、この髪はまるで濃い葡萄酒のような暗い紅。それを薬湯の中に放り込むと、あっという間に溶け込み、じわりと、その紅色で奇妙な紋を描いてみせる。

「さかしまのリコリス。……アッペンフェルド家の紋に相違ありませんね」

 蜘蛛が逆さに足を広げたような細い花弁の紋を確認し、ドリスは限界まで眉を顰めた。

「坊ちゃまに、何処まで残酷なる運命を背負わせれば気が済むのです。あの方がどれだけ身を削り、ようやっと幸せを掴み始めたというのに――」

 節くれだった両手を握りしめ、ドリスは従者としての本分も忘れて、感情を剥き出しにした。慣怒、悲哀、何よりも、悔恨。それはすぐに、唇を噛み締めた彼女自身により、喉の奥に仕舞われてしまったけれど。

「――ええ。ならばせめて、この不届きな輩は私が止めましょう。シアン・ドウ・シャッス家を、旦那様をお守りする魔女として」

 使い魔と魔女はその心身を共有しており、体の一部と言っても良い場所。其処に既に呪いの針は突き刺さっている。次の攻撃はドリス自身を狙ってくるだろう。そしてそれが済めば、ビザールを。例え如何なる理由があろうと、許すわけがなかった。

「……地下に降ろした使い魔も動きが芳しくありません。やはり動いているのは洞窟街、それも“蛆”。“蜘蛛”や“蜻蛉”、“蟻”の警戒も上がっている。全く、ヤズローは何をやっているのか」

 冷たい声は、予定の日を過ぎても戻ってこない弟子に対する叱責だったが、普段全く動かない筈の表情には明確な苦慮があった。あの忠実なる少年が、命じられた刻限までに帰ってこないという事は、即ち何か事件があったという事だからだ。

 思案に耽り深くなる眉間の皺が、ここん、というノックの音で一瞬緩む。特徴的なその音は、彼女の主であり幼い頃から仕えている相手のものだからだ。

「はい、旦那様」

『失礼するよドリス、入っても良いかね?』

「少々お待ちくださいませ」

 背筋を正し、机の上の哀れな使い魔をそっと布に包み直すと、ドリスはすぐに扉へ向かった。頭を下げながらドアノブを引くと、思った通り其処には丸々とした主人が、いつも通りの笑顔で立っている。

「やあやあ、仕事中済まないねドリス」

「勿体ないお言葉にございます。どうぞ、お気になさらず。むさ苦しい所ではございますが」

 主の歩みを遮るなど有り得ない忠実なるメイド長は、恭しく己の部屋にビザールを招いた。

 狭い部屋の中を、ビザールはむにりと首を回して確かめ、彼にしては珍しくほんのちょっとだけ苦笑しながら尋ねた。

「敵の正体は掴めたかね?」

 不躾にも聞こえる問いだが、ドリスは頭を下げてただ是と応える。

「ほぼ、間違いないかと思われます。使い魔に呪針が刺さると同時、私の心臓にも悪意の針先が届きました。既に全て抜き取りましたが、呪いの道は出来てしまっております。手練れの呪殺師であることはほぼ確定です。そして、王家直属の祓魔であるシアン・ドゥ・シャッス家に攻撃を加えるということは」

 呪殺師は、己の肉体の一部――例えば髪の毛などを、悪意に拠って他者に突き刺し、その肉体よりも先に魂を汚し殺すことを生業としているもの。

 小動物ならあっという間に絶命し、人間でも痛みと恐怖にのたうち回るであろう悪意の針を刺されているにも関わらず、ドリスはいつも通り、苦しさなど欠片も見せずに淡々と続ける。主の方も、動揺は一切見せずに頷き、言葉を引き取る。

「他国からの流れ者というのは考えづらい。即ち、ネージ国で一番の腕を誇る呪殺の家系、アッペンフェルド家の係累であろうね。あの家には、赤毛が生まれやすいと聞いている」

 未だ揺らめく薬湯の中の紅い髪の毛を見詰めながら、普段愛妻や従者に見せることは無い、酷く不器用な笑顔になっていた。それはまるで、泣くのを堪えているかのようにも見えて、ドリスはぐっと薄い腹腔に力を入れて語り出す。

「旦那様。此度の狼藉は、紛れも無くシアン・ドゥ・シャッス家に対する侮辱です。例えその相手が何者で、如何なる理由があろうとも、手心を加える必要は無いと愚考致します。――私にお命じ下されば、必ずや呪殺師を退けましょう」

 決意を込めた鋭い視線を、主は確りと受け止めて――やはり、少し困ったように笑った。

「そうならざるを得ない吾輩を、支えてくれることに最大の感謝を捧げよう、ドリス」

「勿体ないお言葉にございます」

「ヤズローが戻ってきていないのがまあまあ痛いが、迎え撃つしかあるまいね。出来る限りの準備はしたが……もしも呪いの針が吾輩まで届いてしまえば、事は我が家だけでは収まらなくなってしまうのが困りものだ、ンッハッハ」

 自分の丸い腹を掌で撫でながら、いつになく力ない声で笑うビザールは、どこか決意の籠った瞳でドリスを見詰めて言った。

「理不尽な命令をしよう、ドリス。お前には拒否する権利がある」

「一切、振りかざすことはございません」

「ンッハッハ、せめて内容を聞いてから宣言するべきだよドリス。……最後の竜鱗を、我が愛しの妻へ」

「仰せの通りに」

 苦笑のまま、今まさに呪いと戦おうとする魔女に対し、手持ちの戦力を更に削れと命じられたにも関わらず、躊躇いなく受諾の礼をしたドリスは、貴重品を入れている仕掛け箱を開く。一番奥に仕舞われていたのは、絹に包まれた透明な鱗。

 ドリスが王太子の命に従い、寒さを閉じ込める結界を城に作り上げ、また体の熱を保つための火の秘薬を定期的に卸していることから、その返礼品として下賜されたものだ。少しずつ欠片を利用してきたが、これが最後の一欠片だ。恭しく手渡されたそれを握り、ビザールは小さく呟く。

「我が愛しの奥方殿は、きっとお怒りになるだろうけれど。……最悪の事を考えてしまう僕を、笑ってくれてもいいんだよ、ドリス」

 いつになく、小さく。子供の頃と同じ、どこか途方に暮れたような声で呟かれて。ドリスは只、深々と礼を返した。

「笑うことなどございません。坊ちゃまは大変、お優しい方でありますれば」

「ンッハッハ。……自分自身が、信用できないだけなのだがね」

 彼らしくない自嘲は、そこで止まった。竜麟を包んだ布を懐に仕舞うと、自分の両手で丸い頬をぺちぺち叩き、もいんもいんと揺れるに任せ、いつも通りの不敵な笑みを浮かべ直す。残念ながらドリスの方は、彼女らしくなく、痛ましげな表情を隠すことが出来なかったけれど。

「さてさて、それでは持久戦を始めようか! この二十年耐え切ったのだから、たかが二晩や三晩は余裕だとも!」

「御安心くださいませ、この家と旦那様は必ずや、このドリスがお守り致します」

 もう一度礼をしながら、歴戦の魔女にしてシアン・ドゥ・シャッス家のメイド長は、「この命に代えても」という決意を決して口には出さなかった。

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