◆2-2
青白い灯が灯った手提灯を揺らして、黒いドレスを纏った貴婦人は足を止めた。僅かに苦しそうに息を吐き、丸く隆起した腹を撫でる。
「……これ以上は無理か。騒ぎ出しやがった」
心底不愉快そうに呟く貴婦人らしからぬ言い方を呆れるように、その傍に控えた二頭の黒い犬――否、大きさからして狼だ――がぐるぐると喉を鳴らす。
『だらしのないことだ、哀れな
『親父殿もそろそろ、目を覚ましたいのだろうよ』
否、狼達はその喉を震わせ、紛れも無く意味の通じる言語を吐いた。勿論、実際に発音したのではない、直接魂に語り掛ける言葉――今の世界では精霊語と呼ばれている喋り方で語ったのだ。基本的には父親の味方をする黒狼達に、黒き貴婦人はもう一度溜息を吐いた。
「けど、何で……この街に来た頃には、地上に出口の気配なんて無かった筈なのに」
『知るか。お前が駄々を捏ねているだけの話だ』
『いっそ我々がその腹を引き裂いてやろうか』
言葉は酷薄で、言うに違わず口から覗く乱杭歯を打ちつけ合って脅してくるけれど、昔からいつもの事なので黒き貴婦人は全く気にしない。
「戻るか……あいつらがどうやって動いてるのか、確かめる」
『お前を崇める人間が、まさか存在するとはな』
『
「おい、待て!!」
不意に聞こえて来た声に驚き、黒き貴婦人は暗闇を振り向く。がしゃがしゃと金属の擦れる音と共に、両手両足を銀の具足で覆った少年が駆けてきた。一瞬首を傾げてから、思い当たって声を漏らす。
「お前……ああ、あの時の奴か」
『何奴だ?』
「こことは別の街で、あいつの臭いを強く纏っていたから、声をかけた」
『何だと――さっぱり臭いなどせん。不快だ、イヴヌスの臭いが強すぎる』
「お前、なんで此処にいる! ……旦那様を追ってきたのか?」
精霊語は聞かせたい相手にしか届かないものなので、少年には犬相手に独り言を言っているようにしか見えないだろう。対する黒き貴婦人も、言われた言葉の意味が解らず、ヴェールの下で眉を顰める。
「旦那様、が誰かは知らないが……お前が此処にいるということは、やっぱり地上の街に出口があるんだな?」
「ッ――!
確認のつもりで、ただ口に出しただけだった。それなのに、少年の眦が吊り上がり、思ったよりも早い速度で飛びかかってくる。合言葉をきっかけに動く仕組みが手足にあるのかもしれない。それよりも先に、
「アラム! 殺すな!」
それを迎撃しようとした黒狼を素早く止める。不快そうに鼻先に皺を寄せた狼のうち一頭が、飛びかかってきた銀の腕をがじりと噛み締める。そのまま噛み千切ろうとしたのだろうが、ぎしんと嫌な音を立てて牙が半ばで止まる。
「
その隙を逃さず、少年が言葉を発した瞬間、その腕はばちんと跳ねるように開き、巨大な刃を重ね合わせた大鋏に変形した。顎を跳ね上げられ、流石の黒狼も牙を引き、怒りの吠え声を上げる。
『人間如きが、小癪な真似を……!』
『ああ、嫌な臭いだ! 我等の権能が乱される!』
「アラムの牙を耐えたのか? 大した鎧だな、その腕」
苛立つ黒狼達の逆立った毛並みを撫でてやりながら、素直な感嘆が口から漏れた。権能の大部分を封印され、首を一つ失ってはいるけれど、未だかの魔狼の力は十二分にある筈なのに、と。
「……誉めるなら、これを作った魔操師に言え」
その言葉を揶揄ととったのか、少年は不快げに憎まれ口を返す。しかし黒き貴婦人は寧ろ納得した。
「魔操師……成程な。個人的には、期待しているが、間違いじゃないみたいだ」
神が創り出した理を書き換えることが出来る者。それはつまり、いずれ神の存在そのものを書き換えることが出来るかもしれない。それは、とてつもなく、黒き貴婦人にとっての希望だった。もし人間が、そこまで辿り着くことが出来たら、きっと自分の彷徨を終わらせることが出来るから。
「っつ――」
僅かな希望を持った瞬間、腹部が酷く痛んだ。よろめくのを堪え、静かに息を吐く。まだ逃がさないと言いたげに蠢く腹が、心底腹立たしい。
「……体調が、悪いのか?」
少年の怒気が僅かに薄れた。どうも、心配をかけてしまったらしい。自分が人間にとって得体のしれないものであるという自覚はあるので、逆に申し訳なくなる。
「いや、大丈夫だ。これ以上あれを目覚めさせるつもりはないから、安心してくれ」
「あれ?」
不思議そうに首を傾げる少年に、こちらも僅かに戸惑いつつ返す。
「ここに辿り着いてすぐ、上の街で、気配が強くなった。あれが――崩壊神の扉が開きかけているんだろう?」
「な……!? 旦那様に何をした!?」
何かに気付いたように少年が叫ぶが、やはり言っている意味が解らない。黒狼達も不審げに鼻を鳴らしている。
「旦那様? ……いや、何もする気はない。なんでか俺を慕っている、下の連中に、扉を閉じるよう命じているから、もう少し時間はかかるかもしれないけれど――」
「ふざけんじゃねえ! つまりそれは――」
また少年が悪罵と共に殴り掛かってきた。今度は油断せず、黒狼は二頭で少年の行く手を塞ぐ。自分が不利な事は解っているのだろう、悔しげに足を止めて叫ぶ。
「旦那様に危害を加えるってことだろうが!!」
「……何?」
言われた意味が理解できず、ヴェールの下で目を瞬かせる。
「ちょっと待て。どういうことだ。まさか――」
扉を閉じる、という行為が、この少年が仕える相手に危害を加える、と思われた。あまりにも想像の埒外のことを言われて、止まってしまった思考が漸く動く。
「……扉を、人間に刻んだのか!? 何を考えて――馬鹿か!?」
黒いヴェールを揺らして貴婦人は叫んだ。まさか、だ。本当にまさか、有り得ないということが起こっている。もしそれが事実ならば、今の状況はとんでもなく拙い。
考えるよりも先に踵を返す。黒狼達も状況を理解したらしく、一頭が先行する。この洞窟の奥の奥、“蛆”と呼ばれる者達の住処に残っている、自分の娘であり彼等の妹に、状況を伝えるためだ。後ろから慌てたような少年の声が聞こえるが、気を配っている余裕が無い。
「おい、待て――」
「すまない! 下の連中はすぐに止める! だが、本人がいつまで保つかは解らないぞ!! 気配が強くなっている、あと数日も無理かもしれない!」
「何言ってやがる――おい!!」
本当に申し訳ない。自分を神と崇める連中がいると聞いてこの街にやってきて、出口を閉じることを命じたこと自体がとんでもない悪手だ。もし“蛆”達が出口を閉じる為に、それを刻まれた人間の命を狙うとしたら――最悪の事態が起きる。
「頼むぞ、まだ起きるな、俺の腹で寝てろ……!」
重く鈍痛が走る腹部を抱え、貴婦人は走った。身重の体で信じられないほど、早く。
×××
「待て、この野郎……!」
ヤズローは必死に暗闇の中で、黒き貴婦人を追う。どう考えても身軽に動けない体の筈なのに、その背はあっという間に遠くなる。どんな理由があろうと、あの女がビザールに何か仕掛けた可能性があるのなら、逃す気は無い。
洞穴はどんどん狭くなっていき、最早人の気配は一切感じなくなっても、止まるつもりはなかった。しかしついに黒い背中を見失ってしまう。
「くっそ……!」
荒い息を吐いて、辺りを見渡すも、最早何の目印も無い、狭苦しい迷宮だ。更に進むにしろ、戻るにしろ、標がいる。自然と耳柔に手をやって――そこに止まっている筈の銀蜘蛛が、いない事に気づいた。
違和感は一瞬。ヤズローの腕が、無造作に引っ張り、吊り上げられた。
「チッ!」
舌打ちをするのが限界の素早さで、ヤズローの体を、極細の粘糸が取り巻く。腕も胴も足もあっという間に縛り上げられ、切り裂こうとした両腕を開く前に口も粘性の糸で塞がれ、細く狭い穴の中に引きずり込まれた。
「っざけんな、レイユァア……!」
どうにか糸を噛み締めて無理やり言えた罵声はそれだけ。そして洞の中に静寂が落ち――きしきし、きちきち、と虫が顎を鳴らす音だけが僅かに響くだけになった。
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