地下の異変
◆2-1
ヤズローは、南方国から帰ってきてからすぐに、洞窟街の“蜉蝣”に放り込まれた。
両腕は小目との戦いで限界までぼろぼろになり、左腕は完全に動かせなくなった。ずっと正式な整備もせずに使い続けてきた為か、両足も軋む音が絶えなくなってしまっている。
そして、ミロワールの工房に籠って早二巡り。凄まじく無茶をした自覚はあるので、いかな腕利きの魔操師といえど、仕事に時間がかかることに文句は言えない。しかし、いつになくヤズローは緊張していた。
「……」
「……」
静かなのである。この工房の主であり、“蜉蝣”の元締め、恐らくこの国一の腕を持つ魔操師であり、口を開けば罵声と皮肉と嘲り笑いしか出てこないような女が、何も言わず作業に没頭している。ヤズローの腕に繋げられたままの腕を手に取り、ペンの動きを全く止めないまま、血色の悪い唇を噤んで動かさない。
普段ならば、適当な使い方をするな、直すのにどれだけかかると思っている、罰として新しい機能を付けさせろ――と矢継ぎ早に叫ぶのが目に見えていたし、ヤズローも今回の無茶については自覚があるので敢えて受け止めようと思っていたのに、何も、無い。不気味過ぎて却って恐ろしい。
「……、よし」
小さく呟くだけで作業を終え、ごきりと首と肩から嫌な音を立てて解すミロワールは、やはり何も言わないまま、傷一つ無くなった銀腕を軽く撫でて立ち上がった。ヤズローはずっと作業台に寝転んだままだ。
「修理は終わった。とっとと帰りやがれ」
放り棄てるように言われた言葉すら覇気が無い。どう考えてもおかしい。勿論、この女が煩くないのはヤズローにとって喜ばしいことだったが、異変なのは間違いない。不機嫌そうな顔のまま、壁のパイプを引っ張って水煙草を吸う女を睨むが、全く目を合わせて来なかった。
もう一つおかしいことがある。地下に潜っても自分の耳に留まったままの銀蜘蛛が、ぴくりとも動かないのだ。いくらヤズロー自身の血を与えて使い魔紛いにしたとはいえ、レイユァの一部であることに違いは無いのだ。地下に潜っても好き勝手に動かないのは不自然だし、彼女自身から先に“蜘蛛”に来いと達しが無いのもおかしい。ひと月以上も国から離れていたのだから、地下に足を踏み入れた瞬間店の奥に引き摺りこまれるのも覚悟していたのに、不気味な程に反応が無い。非常に快適だ、だからこそ気持ち悪すぎる。
違和感があるのなら、例えそれが良いことでも警戒しなければならない、というのが主からの教えだ。とても、とても嫌だが、指摘せざるを得ない。
「……おい。一体何があった?」
体を起き上がらせ、朴訥に問うた。主ならもう少し、回りくどくも適切な言葉で真相に近づけるのだろうが、ヤズローには到底無理だ。思った通り、ミロワールは凄く不機嫌だと顔を顰めて――チッ、と舌打ちだけに留めた。やはりおかしい。怒りや苛立ちがこの女の殆どを占めているのはいつものことだが、この状態は、どちらかと言うと――
「何を、落ち込んでる?」
思ったままの言葉がころりと零れると、ぴくりとミロワールの指先が僅かに震えた。図星だったのか、とヤズローの方が驚く。もしやと思って問うてはみたが、この自儘な女が気を病むことなどあるのか、という驚愕の方が強い。目を見開いている内に、ミロワールの灰色の瞳がぎらりと眼鏡の下で光った。拙い、と思う間もなく、一瞬で踏み込んできた魔操師に襟首を掴まれる。
「……ああァ、鬱陶しい! 修理は終わりだっつっただろうがとっとと出て行きやがれェ!!」
苛立ちを全て客人に向けることに決めたらしい女は、そのままヤズローをずるずる引き摺って穴倉の外に放り出そうとする。力負けするのは不本意なので抵抗するも、つるりと足が滑って踏ん張れない。床に油でも書き加えたのか、手間取っている内にどんと突き飛ばされ、洞窟街の狭い通路に放り出された。ヤズローが持ち込んだ荷物袋も一緒に。
「おい!」
「――暫くは下に来るんじゃねェ。来たらぶち殺すぞ」
明確な脅しと忠告を受け、目を見開いた隙に工房を繋ぐ重い扉が閉まった。せめてもの反撃にがん、と拳で打つが、返事はもう帰ってこない。
舌打ちをひとつして、荷物を拾い上げて大股で歩き出す。……どうも、洞窟街全体に異変が起きているのは間違いなさそうだ。“蜉蝣”から“蜘蛛”まで上がってきても、違和感が消えない。
洞窟の中に並んだ娼館や酒場は、地上が雪深くなればなるほど客足が増す。地上での楽しみが減った貴族達が、こっそり挙って地下へと降りてくるのだ。当然、“蜘蛛”にとっても掻き入れ時の筈。
「もう三日も戸を開かぬではないか! 何をしているのか!」
「申し訳ありません、姐さんの機嫌が悪くてですねえ」
レイユァの膝元である“黄縞”の入り口に、身形の良い男が何人か集まって扉番を怒鳴りつけている。それを宥めている女達も、奥へ呼びに行くことすらしない。
――恐らく、レイユァは店どころか、“蜘蛛”自体に居ないのではないか。
有り得ないことこの上ないが、ヤズローにはそうとしか思えなかった。あんな面倒な客が来たら、騒がれる前に連れ込んで、死なない程度に中身を啜って虜にする筈だ。
しかし、約定を何よりも大事にする彼女が、自らシアン・ドゥ・シャッス家との協定を反故にして縄張りから離れるのも考えづらい。一体どんな理由があるのか、耳柔を飾る銀蜘蛛――やはり全く動かない――を指で弄りながら考え込むが、さっぱり解らない。
溜息を一つ吐き、ヤズローはもう一つの役目を果たす為、地上で言う路地裏のような、人一人通るのもやっとなほどの狭い通路へと足を運んだ。
地下に降りる際、主から手渡された荷物袋を弄る。中に詰め込まれていたのは、とても細長い、簪のようにも見える透明な杭型の結晶体だった。非常に硬く、指で弾くと僅かに澄んだ音がする。それを洞窟街の通路、その床にかつりと立てると――まるで沼に沈み込むように、その結晶はあっという間に潜り込んでいった。
一般的に、白水晶と言われるこれは、嘗て神殿が隆盛を誇っていた頃、この国でも通貨として利用されていたものだ。なんでも、始原神イヴヌスの力が結晶化したものとされており、どんな衝撃にも熱にも耐える、完全なる物質であるとされていた。故に神殿の権威を表す一つの手段として、積極的な採掘が長年行われてきた。
その結果――ネージでは、白水晶がほぼ取れなくなった。鉱脈は全て枯れ、希少品になったものの、その加工のし辛さが仇となり、金銭的な価値も失われていった。そして魔操師の隆盛により神殿は力を失い、今や白水晶はその存在すらこの国で忘れられてしまっていた。
では何故その白水晶がここに大量にあるのかというと、主の依頼で瑞香が南方国で仕入れてきたのだ。かの国では神よりも竜を崇めていた為、白水晶への希少性が薄く、鉱山などで見つかっても放置されることが多かったらしい。それ故に減ることもなく、ただ余っているそれを瑞香が二束三文で買い取り、ビザールへと売り払った。
これが一体何の役に立つのか、ヤズローにも解らない。ただ、主に命じられた通り、地下の地図と首っ引きになりながら、指定された辺りに白水晶を落としていく。
『所謂、保険というものだよヤズロー。どれだけ効力があるかは不明だが、やれることはやっておきたいのでね』
そう訴えて来た主の願いの理由など解らずとも、否は無い。“蜘蛛”から“蜉蝣”に戻り、更に“蛞蝓”へ。“蟻”もこちらの動向を探っているようだが、また悪食男爵の手先が変なことをやり出したと半ば放置しているようだ。ヤズローとしても邪魔されないのならそれでいい。白水晶を少しずつ撒きながら、下へ、下へ。
やがて、街らしきものから遠ざかっていき、“蟻”すら気配を感じ取れなくなった。顔を上げると、魔操師が刻んだのだろう僅かな明かりしかない狭い洞窟は、ヤズローでも腰を屈めないと進めない場所が増えた。かなり古く、滅多に人が踏み入ることもない、洞窟街の奥の奥だ。
「この辺りから、“蛆”の縄張りになるのか……?」
洞窟街の互助会は五つ。“蜘蛛”、“蜉蝣”、“蟻”、“蛞蝓”、そして“蛆”。前四つは曲がりなりにも共同体の意味を成しているのに対し、最後のひとつはヤズローも見たことが無い。ただ只管に、洞窟街の一番奥に住まい外に出ることなく、忘れられた神に祈りを捧げ続けているという、実しやかな噂話でしか存在を知らない。噂では、金陽の光に一度も当ったことが無い為、髪も肌も真っ白な姿をしているそうだ――これも噂話の域を出ないけれど。
一応警戒しながらも作業を続け――暗闇の中で僅かな気配を感じ、咄嗟に身を潜めた。
かつ、かつ、と高い踵が床を鳴らす音がする。噂に聞く“蛆”の連中かと、五指を握り締めて近づくのを待つ。やがて、闇の中から溶け出すように人影が見えて、驚きに声を上げてしまった。
「あいつは――!」
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