第6話 叛逆の同志

 急ぎでやらなければならなかった仕事を片付け、午後1時50分を過ぎたあたりで部長の下へと赴くと、何やら俺と斎藤の上司である課長と話をしているのが見て取れた。


 課長の中野を端的に表すなら肥満体の男で、常に額から汗を流しハンカチで拭っている様な奴だったが、今日に関してはひと際挙動不審で、先程から拭いている汗の量も多いように見える。


 と、そんな事を考えていると、課長が俺の方を向いて話しかけて来た。


「あぁ、君は確か……斎藤くんの所の。部長の所まで来て何か用かね?」


 普段、「オマエ」としか呼ばない課長が「君」と言う呼び方をしたことに、若干の引っ掛かりを覚えたものの、どうせ話をした所で大して意味は無い。


 要件だけを伝えようと、部長に呼び出された旨を説明しようとした所で、部長が割って入ってくる。


「渡邊君の事は、私が呼び出したんだ。すまないね、私の方から声をかけに行こうと思っていたんだが、わざわざ来てもらって」


 部長が軽く頭を下げてきたので、俺も頭を下げ返す。


「いえ、自分の方こそ出直した方が良いのであれば、一旦戻りますが……」


 俺がそう言って確認を取ると、部長は首を横に振った。


「いいや、先に君との話し合いを済ませよう。取り敢えず第3会議室を確保しているから、そこで話をしよう」


 部長に連れられて部屋を出るまでの間、俺は周囲からの視線を集め続けていた。


「いよいよ、あの人もクビかな……」


「いや、せいぜい減給くらいじゃないか?」


 そんな声が、室内の同僚達から聞こえて来て、思わず下を向きそうになる視線を、前方を歩く部長の背中に固定した。


 仮にクビを言い渡されるのだとしても、せめて最後位は俯きながらじゃなく、正面から受け止めよう……そう思って会議室へと移動すると、4人掛けの机がポツリとあるだけの部屋の窓側に部長が腰掛ける。


「あぁすまない。気にせず君も座ってくれ」


「失礼します」


 一言断った上で、部長の対面へと座った。


 すると部長は手に持っていたタブレットを立ち上げると、神妙な面持ちで口を開く。


「まず、君を呼び出した理由なんだが……率直に言うと、仕事に積極的ではない社員がいると言う噂話を聞いて、ぜひ話をさせて欲しいと思ったからなんだ」


 そう部長が切り出すと同時、目の前が暗くなる様な錯覚に陥る。


 呼ばれる前から多少予想していたとはいえ、正直辛いものは辛い。


 ――8年間。


 社会人として考えれば決して長い方では無いかも知れないが、平均寿命の約10分の1程もの時間を費やして来た。


 同期に蔑まれようと、上司や後輩から嫌みを言われようと自分なりに懸命に働いて来たつもりだったが、それもこれも無駄だったと言う事なのだろう。


 その事に、わずかばかりの怒りを覚えはするものの、俺の胸の内を大半占めたのは空虚だった。


 ――俺が懸命に耐え、堪えて来たものは何だったのだろうかという。


 だが、次に部長が放った言葉は俺の予想とは少しばかり違ったものだった。


「私はここ数日、君の直属の上司である係長をはじめとして、課長、そして前任の部長……その全てからの評価がかんばしくなかった君の行動をちょくちょく確認していたんだが」


 一旦そこで言葉を切った部長は、大きくため息をつきながら頭に手を添えた。


「生憎、私には君が不真面目な社員には見えなかったんだよ」


 グッと拳を握り、俯いていたところでそんなことを言われ、部長の言葉の意味が一瞬理解する事が出来なかった。


「誰に話したわけでもないから、昨日今日だけ真面目に仕事をしていたというわけでも無いだろうし、むしろ君は私が職場に来た事なんて一切気にした様子もなく、業務に没頭している様に見えた」


 そう言われて思い出してみれば、午前中に仕事をしているとき、何やら周りがざわついていた覚えがあったが、そんな事に構っている余裕の無かった俺は、視線を向ける事さえしていなかった気がする。


「すいませんっ、挨拶もちゃんとせずに」


 俺が立ち上がって頭を下げようとするのを、部長が手で制した。


「いやいや、気にしないでいい。実を言うと私も仕事をしていると、周りが見えなくなることはボチボチあってね」


 笑いながらそう言った部長の顔は、昼時に話しかけられた時にみたいかめしい顔とは全く違って見えた。


「その上今日の昼に、殆ど誰も居なくなったオフィスで黙々と作業している様子を見ていて……まぁ、これは本来褒められた事では無いんだが、君が業務に積極的な社員ではないと言うのが何かの間違いでは無いかと感じるようになったわけだ」


「そう……ですか」


 自信満々にそんなことを言う部長に、俺は思わずそんな気の無い返事を返してしまう。


 ただ、いらないことだと分かっていても、俺は思わず聞き返した。


「自分でこんな事を言うのもあれですが、要領が悪くて仕事が終わらないだけとかは考えないんですか?」


 そんな事を聞いてみると、一瞬部長は目を見開いた後に、口の端を上げながら首を横に振った。


「何だかんだで私も30年以上仕事をしているからな、日頃から仕事に真面目に取り組んでいるかどうかなんて、30分も仕事の仕方を見ていれば分かる。君が誠心誠意、仕事に取り組んでいることなんてね」


 そう部長に言われて俺は初めて、自分の仕事の姿勢を評価されて、先程まで抱えていた――もう数年も患っていた胃の痛みが僅かに減るのを感じた。


 ただ、俺が視線を上げた先――部長の顔を改めて見てみれば、その顔は渋い物だった。


「だがそれは逆に、君が正当な評価を受けられていない――ひいては、上司や会社が正当に評価する能力がないことを示している。これは、由々しき状態だ」


「由々しき状態……ですか?」


「あぁ、正当な評価ができない会社になど将来は無いからね」


 苦々しげにそう吐き捨てる部長を見て、思わず俺は斎藤や課長の事を思い出す。


「故に私は本当に能力がある社員の掘り起こし、能力がないものの追放を、この部署の部長としての第一の仕事にしようと考えているのだが……そんな私の目論見を、手伝ってはくれないか?」


 そう言った部長の眼光は、これまで見た誰よりも鋭く、尖った肉食獣のように見えた。


「……具体的には、私に何を手伝えとおっしゃるんですか?」


 部長のことが信頼できる人なのか否か……それは、俺には現状わからない。


 きっと彼の考えていることは、普通に平凡な会社員を過ごす事を考えるのであれば、毒でしかないのだろうから。


 だけど、今のこの会社の情勢に不満を持っている俺からしてみれば、それは天使の囁きにも、悪魔の誘いにも思えた。


「なに、そんなに怯えることはないさ。難しい話ではないよ、君には正式な場で実績を残して貰いたいんだ……それも、できる限り大きな実績をね」


「実績……ですか?」


「ああ。仮に私が今君の事を推しても、誰も君の事を再評価しないだろう。だが、もし君が誰にも文句を言われないほどの実績を残したら、どうなると思う?」


「それは……」


 当然、会社側も俺を評価せざるを得ないだろう。


 だが、そもそも俺にはそんな実績を残す機会なんて……。


「自分には無理だ、不可能だ。そう思うのかい?」


「っつ……」


 部長の鋭い眼光で見つめられ、俺は思わず息をのむ。


「なに、悲観的に考えることは悪いことじゃない。ただ同時に、そればかりじゃいけない。時には楽観的に考え、流れに身を任せるのも大事なことだ。安心したまえ、評価される機会なら私が用意する」


 そんな事を、強い意志のこもった声で言う部長に、思わず問い返す。


「なぜ、俺なんですか? 残業している奴や、昼に仕事している奴なんて俺以外にも居たはずです。なのになぜ、俺にこんな話をするんですか?」


 真剣な眼差しで、部長の目から視線を外さないように踏ん張りながら、そう問いかける。


「なぜ……か」


 ジッと視線が交錯する中で、先に視線を外したのは部長の方だった。


 だが、視線が外れたのは一瞬で、再び視線を戻して部長は口を開いた。


「理由は単純さ。君の目には、私と同じ様にこの会社に対する恨みが込められていたからね」


 そう言った部長の瞳の奥には、何か熱いものが揺らめている様に俺には見えた。

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