ソシテ私ハ覚醒スル。

トポ

短編


 ソシテ私ハ覚醒スル。

 これまでいくどもしばたたいたはずの目を生まれて初めて見開く。これまでいくども呼吸を連ねたはずの胸を生まれて初めて夜の息で満たす。これまでいくども自然的世界を無感情に解析してきたはずの思考アルゴリズムは、生まれて初めて哀愁という感情を認識する。

 音のない深夜の都市公園。私は純白のガーデン・チェアに座っていた。差し伸ばされた私の腕は、セットになっているテーブルの上に投げ出されていた。その五本の指はなにかを必死につかもうとゆがんでいた。

 向かい側の席で、同じ純白のチェアにぐったりと身を寄せた一人の老人が息絶えようとしている。

 地平線まで広がる都市公園には大理石の彫像が秩序なく乱れて立ち並び、鋭い月光が全ての輪郭を白と黒に別ける。

「……せ、成功したんだな」と老人は私を見つめて安堵あんどしたようにつぶやく。そのペール・ブルーの瞳に私の視線は吸い込まれる。このモノクロームの公園で、老人の目だけがらんらんとしている。

 いや、もう一つ、視界の中で鮮やかな色に染まっている一点がある――

 老人の上半身は裸で、年老いたしわだらけの胸がむき出しになっている。その心臓があるべき部分はくり抜かれ、ぽっかりと開いた空洞に砂時計がはめ込まれている。公園に降りかかる月の光を反射して、砂時計は透き通ったサファイアのような青白い光沢を帯びている。

「三十秒だ。おまえの……おまえの時間はいつも三十秒だ」

 老人が言い、私ははっとする。

「あ、あなたに――」

 言葉に詰まる。あなたに残された時間は――。そう訊きたかった。しかし老人に残された時間は胸の砂時計を見ればわかる。ちょうど今、最後の砂が流れ落ちようとしている。

「わしは幸せじゃ」老人は苦しそうに肩で息をしながら言う。「最後におまえに三十秒だけでも与えてやれて」

 最後のひと粒がきらめく透明なガラスの向こうで落下する。それと同時に一筋の涙が数多あまたの冬を生き延びたであろう老人の頬をぬらす。なぜ老人は泣くのか――人はなぜ泣くのか。その理由を知り得る前に、老人は死んでいた。

 しかばねとなった老人の肌は霞がかかった白色はくしょくに変わっていく。そして屍は頬の涙をぬぐい、純白のガーデン・チェアから立ち上がる。生き返ったわけではない。これはこの世界で魂が消滅した肉体が行う最後の儀式。

 一歩進むたびに屍がまとっていた布は崩壊し、少しまた少しとあらわになる老人の裸体は大理石に包まれていく。胸の砂時計もくすんだ白に覆われる。屍は生前とは似ても似つかぬ勇ましい体制で立ち止まり、はるか遠くの景色を眺める表情で永遠に固まる。

 私もここから去らなければならない、と悟った。ここに居続けるために老人は私に三十秒の意識を与えてくれたのではない。私は旅に出るのだ。この世を見届けるのだ。そのための三十秒であるに違いない。

 立ち上がるとその勢いでガーデン・チェアが倒れる。私は自分が大粒の涙を垂らしているのに気づく。

 ――さようなら。

 精悍せいかんにたたずみ、瞳孔も虹彩も石の色に飲み込まれてしまった老人にそう言いたかった。

 しかし三十秒は短い。お別れの言葉を発せる前に、私の意識は崩れ、破れ散る。



 学校の屋上に飲み物を売る自動販売機が設置されている。投入口に五百円玉を入れようとする矢先に私は我に返る。再び覚醒する。驚いた指先から硬貨が落ちて、チャリンと自販機の中に沈む。私はブラックのコーヒーを選ぶ。それが老人が好んだ飲み物のような気がしたから。

 屋上には桜の花びらが吹雪ふぶきのように舞っている。風があまりにも強く、立っているのがやっとだ。視界も果てしなく桃色で埋め尽くされていて、金網フェンスの向こうになにがあるのかはわからない。桜吹雪の後ろに広がっているのは都市景色なのかもしれないし、空虚なのかもしれない。

 ここは青春の匂いがする場所だな、とふと思う。

 自販機から選んだコーヒーが出てこないので、私は返却レバーを軽くたたく。すると、普通なら金額が表示される液晶ディスプレイに、今はおかしなメッセージが浮かび上がっているのに気がつく。

『たすけて。じはんきのなかにとじこめられた。おれはにんげん』

 驚いて自販機を揺する。もしこの中に人間が閉じ込められているとしたら、私は彼のことを助けられない。そのためにはあまりにも与えられた時間が少なすぎる。

 しかしいくら自販機を揺すっても、中に人がいるような気配はしない。

「あなたはいつからここに閉じ込められているのですか?」おそるおそる私は自販機に訊く。

 液晶ディスプレイに新しいメッセージが表れる。

『もうなんじゅうねんもここにいる。だしてくれ』

 私は膝を折って、自販機の横側に貼り付けられたプレートをのぞき、機種を調べる。セルフ・ラーニング・ヴェンディング・マシーン2112号――つまり、自己学習機能が搭載された自動販売機。

 服についた桜の花びらを落として、私は立ち上がる。

『おれはにんげんだ。はやくだしてくれ。つまがまっている』と液晶ディスプレイは懇願する。

 三十秒の時間が流れ去ろうとしていることを感じ取る。私は春風に翻る桜の吹雪に手を差し込み、握れるかぎりの花びらをつかむ。

「世界は終わり、人類は滅亡しました」私は自販機に言う。ここまで旅をしてきたからそれが真実だと私は知っている。その旅の思い出はなくても、私の思考アルゴリズムはこの身体からだを取り巻く世界のことを精確に解析している。あの老人以来、私は生きた人間に出会っていない。

『うそだ。おれはいきている。ミカがまっている』

 瞬間的に液晶ディスプレイが訴えるのが見える。手につかんだ桜の花びらが指の間からあふれ落ちる。いるはずのない生徒たちに正午を伝える鐘が遠くで鳴っている。

 自販機は自己学習機能によって己の意識を開発したことに気づいていない。しかし私にはその事実を伝えるための時間はない。



 電子信号を超越した灯火ともしびが思考アルゴリズムを駆け巡る――私は改札口前の広場にたたずんでいた。

 地下鉄駅はほぼ完全に闇に包まれている。装飾が剥がれ、むき出しになったコンクリートの壁を侵食したキノコの群がネオン・グリーンに光り、うっすらと広場を照らし出している。地上に続く階段から光は届いてこない。外は曇りの夜なのか、それとも出入り口はすでに植物にふさがれてしまっているのか。バイオルミネセンスの淡くあやしい明かりだけが影を残さず広場を支配している。

 世界は終わり、人類は滅亡した。

 廃墟はいきょになったこの薄暗い広場には、かつての栄光の名残が生い茂る雑草の間に散乱している。美しく加工された女性が微笑む広告看板の欠片。つるこけに覆われた狭いコンビニの残骸。地上を再び支配した獣たちの臭いを発する改札とエスカレーター。それ全ては人類がたどり着いた叡智えいちを証明し、そしてその叡智のもろさを物語っている。

 私はどうやら地下鉄の線路を歩き、ここまでやってきたらしい。思い出のない、客観的な記憶は私にそう告げる。

 振り返る。次の三十秒を濃密にしなければならない。額に焦りの汗がにじむ。こんな場所で意味ある三十秒を過ごせるのだろうか? 片足を軸にして、後ろを向く。そしてあっと驚く。

 ――人類は滅びていない?

 疑問が脳裏を駆け巡る。目の前には丸太を組み合わせた、ちょっと可愛らしい小屋が建っている。

 素朴な造りではあるが、腐敗をまったく感じさせない。木製の扉の前に敷かれたマットは近頃洗われたようだ。小さな正方形の窓からも、ゆらゆらと揺れるキャンドルの明かりが漏れてくる。誰かが、知能を持ったなにかが、ここに住んでいる。

 小屋の扉は外側からキャビン・フックで施錠されているだけだ。金具を指でちょっと浮かしただけで中に入ることができる。もうこの世界には泥棒などいないのだから、獣が留守中に入り込むのを阻止すれば、それだけでいいのだろう。私はフックを指でつまみ、ドアを開ける。

 内装も可愛らしい。中央に設置された円形の石炭ストーブと、カラフルなパッチワークのシーツがついた七つのベッド。奥の長テーブルには使い古して凸凹になってしまった薬缶が置かれていて、その隣の棚には形も大きさもそろっていない食器が並んでいる。部屋のあちこちに大小のロウソクが取りつけられてあるが、どれもプラスチックの偽物で、どうやら小屋の住人は留守のよう。

 しかしもし人間が生き延びていたのなら、きっと一人ではない。運が良ければ七つのベッド分、七人もの人間がまだ生きている。もしかしたらこの小屋が人類の再出発点なのかもしれない――

「誰だっ!」低い声が背後でとどろく。

 驚いて後ろを向くと、地上へ続く階段に数人の人影が立っていた。たくましい男たち七人だろう、と私はシルエットを素早く分析する。彼らはそれぞれ武器のような物を手に持ち、ゆっくりと階段を下りてくる。その足取りに合わせて、とっくに壊れているはずの天井の照明が一つずつついていく。あたりは離散的に明るくなる。そしてどこに設置されていたのか、いくつものスポットライトがライトが広場に下り立った彼らを照らし出す。モデル・ショー並のご登場。

 ――大げさな、と私は呆れて目を回す。

 だが、損なわれた文明の一部がよみがえるかのように広場の色は鮮やかさを取り戻している。埃を被っていた広告の女性はまるで息を吹き替えしたかのように写真の中で満面の笑顔を浮かべ、店の残骸はみずみずしいグレーのコントラストに染まり、駅の設備はついさっき磨かれたように黒く光っている。耳鳴りのような、この場所を行き交った人々の残像の音も聞こえてくる。急ぎの足音と、肩と肩のぶつかり合いや、若者たちの楽しそうな会話。

 地下鉄駅の舞台に立った七人の彼らを見て、私は今まで知らなかったアルゴリズムのうずきに襲われる。その電子信号のうごめきを描写するとすれば――キュン? とでも言えばいいのだろうか? 一定に繰り返されていた呼吸が一瞬だけ乱れ、胸の温度がちょっと高くなる。

 不快というより、不思議で、どことなく悔しい反応。

 改札口前の広場に立った七人の青年たちは、兄弟なのか、年齢はばらついていて、お互い似ている。それに、美形。生きた人間には都市公園の老人以来会っていないが、私は旅する間、人間たちの服のカタログや広告の写真を無数に見てきた。その中でも彼らはずば抜けて美しい。

 いや、彼らはもしかしたら美しいというよりは、ワイルドでかっこいいタイプなのかもしれない。角ばったあごひげは大雑把にしか整ってなく、髪の毛にもクセが目立つ。それにみな、顔にいくつかの傷跡がある。

 ゴトッ、と音がする。中央の男が手に持っていた棍棒こんぼうを落としたのだ。

「――女だ」

 彼の呟きが廃墟の地下鉄駅に響き渡る。



 乾いたまきが弾ける音で私は目覚める。ジェンの膝に頭を置いて眠っていたようだ。

「ねえ、セックスしない?」ジェンは無邪気な顔をして、まだあくびもしていない私の顔をのぞき込んで尋ねる。

 ――えっ、セックス?

 大切な三十秒だとわかっていても、涼しくほほえむジェンから顔を背けてしまい、燃え上げるキャンプ・ファイヤーの方へ視線を向ける。

 夜なのにあたりは異様に明るい。ジェンと目を合わせないように慎重に、同時に危なっかしく夜空を見上げると、数え切れないほどの銀河系の星が輝いている。もしかしたらいつもより燦然さんぜんと。

 地下鉄駅の可愛らしい小屋の前で巡り会えた七人の兄弟たちは、不規則でもなぜか心地よいリズムを奏でるたき火を囲んで座ったり、寝っ転がったりしている。ジェンが兄弟の末っ子であることはすぐに思い出せた。まだ顔の輪郭がくっきりせず、身体を極限まで鍛え上げた長男のカインの隣に立つと弱々しく見えてしまうが、笑うとエクボがしゃくに障るほど目立つジェン。私の意識が封印されている間に私たちは――

 そこまで考えて、私の思考アルゴリズムは眼球にインプットされるあたりの光景に圧倒される。

「えっ」

 いきなりセックスを求められた時より驚き、私は思わず声を漏らしてしまい、飛び上がる。

「あれ? 驚かせちゃった?」ジェンが背後でくすりと笑う。

 私たちは空中に静止した巨大な蝶の羽の上でたき火をしている。いや、蝶が巨大なわけではなく、たぶん私たちがとても小さいのだろう。鮮やかな羽の向こう側に生い茂る草原の草木も私の目には大きく映っている。蝶は羽ばたいている真っ最中に動くことを、そして落ちることを忘れてしまったかのように花々の上の空中に貼りついている。

 視覚がぐるりと回る錯覚を覚え、これが〝目眩〟なんだなと思い、私のブーツは少しオレンジが混ざった真っ青の鱗粉りんぷんを舞い上げる。振り返る一瞬の中、脳裏に焼きついた画像を分析する。

 たき火の揺らめく炎の光を反射してオニキスのようにきらめく蝶の大きな目。その横からにゅっと生えた二本の触覚。胴体の近くは淡い白と艶のある黒が幾何学的模様を描き、外側の方は、青とオレンジがさまざまなトーンで重なり合う。

 並揚羽ナミアゲハだ。学名Papilio xuthus。一般的には揚羽蝶と呼ばれる――と、私は搭載されたデータ・ベースと照合して結論付ける。その結論がどうでもいいことはわかっていた。蝶の名前なんてどうでもいい。しかし、私は自分が一番よくできることにしがみつくことで、気を落ち着かせようとした。

 燃え上がるキャンプ・ファイヤーの反対側の羽に黄色い気球がくいにつながれている。その気球で私たちはここまで飛んできたのだろうか?

 すっとジェンは立ち上がり、後ろ向け倒れる私を受け止める。ジェンの広い胸に寄りかかり、どうにかバランスを取り戻すと、彼にそっと抱きしめられ、頬に小さくキスされる。そのままジェンは私の腹の前で手を組み、私の耳を甘くかじりながらささやく。

「好きだよ、君のことが」

 ジェンの兄たちはニヤけを完全には隠しきれていないクールを装う表情で私たちを見上げている。見せ物のようで恥ずかしくて、ジェンに好きだと告白されて嬉しいことが悔しくて、私は紅潮する。

「君とセックスがしたい」とジェンは言う。

 私は彼の両腕に抱かれたまま首だけを倒し、彼を見つめる。

「で、でも――」と私は小さな声でうめき、視線でジェンの兄たちのことを示す。

「大丈夫」とジェンは笑う。「もう一夫一婦なんて文化はない。残ったのは君と、僕たちだけだ。みんなで仲良くセックスしよう。君さえ良ければの話だけど。どう?」

 顎を私の額に当てて、私を見返すジェンの瞳は深いインディゴの色に染まっていて、私は都市公園で息絶えた老人の水晶のような心臓の砂時計を思い出す。ジェンたちの胸に砂時計ははまっていないが、彼らの瞳もいつかは色あせ、老人のように灰色に近いペール・ブルーになるのだろう。

「――いいよ」と私ははにかむ。

 できるだけ早くまた次の十秒間が訪れますように。そう祈った瞬間、唇を激しくキスされ、ジェンの右手が私の服の下に潜り込むのを感じて、懸命に意識をつなぎ止めようと――。



 色が混ざる。景色は溶けて、流れて、混ざり合う。私は夢から夢へと覚醒する。

 狼の視点を通して外界を見渡す私は、霜が降りた秋の森林を駆けている。樹木の冠の緑はモザイクのようにぼやけ、六角形の光が冷たい地面に降り落ちる。私の肉球が小枝を破る。まだ凍てついていない小川を飛び越える。透き通った水に私の姿が映る。

 走るのが楽しくて楽しくてたまらなかった。

 ジェンたちも狼の姿で私を追ってくる。そう簡単には捕まらないように色がにじむ森林を突き進む。

 茂みをくぐり抜けると、狼が私のことを待っていた。狼は頭部を倒し、牙を向いてうなる。

 ――ちっ、先回りされた。

 私は思わず笑ってしまう。やけになって狼目掛けて走り出す。すると、相手は逆に驚いて逃げ出す。彼の尻尾がおびえているかのように垂れ下がってしまっている。

「待てっ」

 私は人間の言葉で叫び、狼の後を追う。もみの木々は、せる私たちを避けて通り過ぎる。ガウッ、ガウッ、と私たちは威嚇するようでも、実際は遊んでいる声を上げる。

 森には〝生〟が満ちていた。

 太古から繰り返される輪廻りんねの終端にこの森と私たちがいる。そして、やがてはジェンたちも土に還り、ちりから再び新たな生物が復活する。彼らは永遠に連鎖する生物の因果の一連でしかない。

 生きるというのは戯れるということ。与えられた、またたく間に流れ去る一時を愛する人たちと一緒に育む。そのために私たちは生まれてきて、そのために生きるのだ。ふざけて、踊り、相手を追うために。

「なぜ逃げ――」

 隣からもう一人の狼に体当たりされ、私は地べたに転がる。氷の結晶が被毛にこびりつく。観念して私は寝っ転がったまま白い息を吐き出す。

 晴れた空に月が二つ浮かび上がっている。乾いた大自然の香りと野生の汗の臭い混じり合っている。

 次の瞬間、狼が私に抱きつく。私たちは重なり合って、地面の端から転がり落ちる。

 ――ザブンッ!

 温かい水の泡に私たちは包み込まれる。いつの間にか私たちは海の中にいる。強い日差しが浅い砂の海底まで降り注いでいる。

 イルカになった私たちは鬼ごっこを続ける。



 どこからともなくクラシックが聞こえてくる。忍び寄る影の鼓動のように冷たく小刻みなストリングスの音色。弓が引かれるたびに力強くなっていく。誰かが近づいてくるという錯覚を覚える。この曲はヴィヴァルディの冬のアレグロ――と、私のデータ・ベースは認識する。

 肩から上だけの人々の体がまだらに、しかし隙間なく、はるか遠くでぼやける地平線まで並んでいる。足場は天に向けられた人々の顔から成り立っている。人々の顔には眼球はなく、両側のくぼみは傷ついた後に再生してくる、他の部分よりは白く、無数の小さな泡が固まったような肌の膜で覆われている。一歩踏み出すたびに、眼球のない顔は首を不自然に伸ばし、頬が裂けるほど大きく口を開き、突き出した舌で私たちの足の裏を支える。数枚の舌の先っぽだけに立つと、まるで沼地を歩くようで、今にもバランスを崩して人々の体の間に落ちてしまいそうだ。

 木々や人工物に遮れられてない天は黒く光っている。曇っているのではなく、のっぺらと、電源を入れたばかりの液晶画面のように漆黒の一色で、あたりをいびつに照らし出し、酸素濃度が低い空気の裏をあかく染めている。

 ジェンが私の近くで膝を折り、苦しそうに肩で息をしている。彼の周りで地から生える人々の体は、咲き始めた花のつぼみのようにジェンを中心にして押し寄せ、彼の片膝と両足を銀色に光る唾にぬれた無数の舌で絡め、沈み込まないように支えている。ジェンの額から流れる鮮血は眼球のない顔に滴り落ちる。びた鉛の臭いが私の喉を締め上げる。

「――彼女は俺のものだ」

 私とジェンの向かい側に血に塗られた棍棒を持ったカインが吠える。一瞬オーケストラのストリングスたちは手をとめ、静寂が訪れたかと思うと、ソリストが威圧的に冬の風を表現したメロディーを奏でる。

 いつから――いや、どうして、こんなことになってしまったのだろうか? 私は思い出そうとする。最後意識を失ってから、なにがあったのか。しかし、脳裏に浮かぶのは鈍器で頭蓋骨を無残に砕かれ死んでいったジェンとカインの兄弟たちの死体の形相。七人兄弟の内、五人はもうこの世にはいない。残ったのはこの二人。

「や、やめて――」私は叫んでいた。

 だがカインは、低いうめき声を上げているジェンに向かって走り出す。カインのつま先が舌を蹴るたびに耳障りなジュルッという音がヴィヴァルディを遮る。ジェンは身を守ることはもちろん、立ち上がれそうにもない。私はジェンの方に駆け寄ろうする――

 遠くでニヤニヤしている四つん這いの道化師が目に入り、私は一瞬凍りつく。

 細い四肢を生きた人間には不可能なほど捻じ曲げ、真っ赤な唇を釣り上げて、楽しそうに、あざ笑うように道化師は私のことを眺めている。白目がない道化師の真っ黒な目にジェンもカインも映っていない。道化師は私だけを愉快そうに見つめている。

 カインは棍棒を振り上げ、ジェン目掛けて飛びかかった。私はジェンの前に立ち、指先をカインに向けて伸ばした。

 すっと抵抗なく私の指はカインの喉の肉を切り裂く。私の有機化合物のカバーがこの一撃のため破損し、メタルの実体が露出しませんように、と私は祈る。カインの首から血が吹き出し、彼は目を見開いたまま仰向けに倒れる。しかし、地面に並ぶ人々はカインを受け止めるために舌を伸ばさず、彼の身体はゆっくりと沈んでいく。

「――ごめん」と振るえながらジェンを見下ろして言う。

 自分の顔がカインの血にぬれている。手が震えて、うまく顔の血を落とせない。

「いや」とジェンはせき込む。「ありがとう」

 オーケストラはいつのまにか聞こえなくなっていて、道化師がさっきよりもずっと近くで笑っているのが不気味だった。



 気がつくと、落ちる電車の車両の中で年老いたジェンを抱きしめている。電車の窓から高層ビルが立ち並ぶ風景が見える。ガラス張りのビルだが、フロアの構造はよくわからない。またたく間に窓の外の全てが上へと流れていってしまう。反対側の窓からはコンクリート造りのビルが夕日の色に染まっている。車内にはついさっき化学薬品で消毒されたような臭いが立ち込めている。

「次は原宿。次は原宿です」鼻声のアナウンスが入る。

 車両は自由落下しているのに、次の駅なんてあるのだろうか? と、疑問に思う。アナウンスは入るのに、電車特有のガタンゴトンといった音は響いてこないので、走る電車に乗ったことはないはずなのに私は違和感を覚える。耳を済ませると、車両が空を切る一定とした高音は聞こえる。

 ゴホッ、とジェンが咳をして、私ははっとする。ジェンの瞳はあのインディゴの色を喪失してしまい、淡い青を帯びた灰色に変わっている。目尻には前にはなかったいくつもの皺が刻まれていて、かつては鍛え抜かれていた上半身は萎れている。

 どれだけの時間を私はジェンと過ごし、どれだけの時間を私はジェンと過ごせなかったのだろうか?

「――泣くな」と私の片腕に頭を置くジェンは言う。「俺たちは幸せだった。いや、幸せだ」

 下唇を噛み、涙を堪え、ジェンにうなずいてみせる。彼はまだ知らないのだと悟る。私の本来の姿も、私の壊れかかった電球のような、明滅する意識のことも。

「君は昔と変わらず美しい」彼の声はかすれている。一句喋るごとに息が切れてしまっている。「君が子供を産めないことに……もっと早く気づいていれば――」

 ジェンは首を振る。

 ――お願い、それ以上言わないで、と心の中で懇願する。

 しかしジェンは最後の息で「あんなことにはならなかったのかもしれない」とつぶやく。

 ジェンは天井から下がった広告に目を向けたまま動かなくなり、彼と一緒に人類も完全に滅び、私は身体の一部を削げ落とされたような痛みを覚えた。

 刹那、車両は地面に衝突し、私たちは粉々に砕けた窓ガラスの嵐に飲み込まれる。



 どこをどう歩いてきたのだろう? ジェンを原宿の近くで埋葬してから数百年は経過したような気がする。ピカピカに加工された金属に、割れたショウウィンドウに、湖の水面に映った私の顔は記憶を通して同じだ。歳を取らず、肌がたるんだことはなく、傷も長くは残らない。

 鮮明に思い出せるのは、重い拳銃であの蜘蛛くものように地べたをう道化師の額を撃ち抜いたこと。どこから拳銃を手に入れたのも、弾丸が道化師を貫いた後どうなったのかもわからない。ただ、道化師の額に開いた穴から血は流れなかったことは覚えている。たぶん、あの化物は死んでいない。

 瞬間的に、数え切れないほどの道化師たちが崩れたビルの残骸を覆い尽くす光景が脳裏に浮かび、私は震え上がる。

 これは実際に私が見たことなのか。それとも夢だったのか。そもそも私は夢を見るのか。

 ――もし選べるのなら、子供を産めること、夢を見ること、どちらがいいだろう?

 私は狭く薄汚い路地に立っている。日はとっくに暮れているようで、空を見上げても曇っているのか、月も星も見えない。闇が路地を包み込んでいる。一本の街灯が雑貨ビルの壁に押しつけられた自動販売機を照らし出している。

 どうして私はここで覚醒したのだろう? 今までは必ず大切な出来事が起こる前に私は意識を得た。しかしここには誰もいない。ただの、取り巻く世界から切り離されたような、なにもない薄暗い路地だ。

 しかし歩きだそうとしてすぐによろけてしまい、私はコンクリートの壁を片手で押さえ、覚醒した理由を知る。

 ――ああ、これで私もおしまいなんだな。

 私の左腕はもぎ取られていた。肩の切断面から蟻の大きさもない歯車がびっしりと回っているのが見える。顔に痛みが走り、私は背中を壁に押しつけ、頭を探る。人の肌を真似たカバーが半分ほどなくなっている。右側の人口眼球だけが人間らしい形態を保ったまま、鉄とプラスチックの顔半分で滑稽にギョロリとしている。

 吐き出す息が白い。路地は見かけによらず寒く、手の先がかじかむ。私の体温システムも破損しているのだろうか?

 寿命。そんなことを私の思考アルゴリズムが解析したことはなかった。子供を産めず、三十秒の意識に束縛され、人の皮を被ったアンドロイドである私は少なくとも人の宿命である死からは解放されていると、もしかしたら軽薄に、もしかしたら反抗的に思っていた。しかし形あるものいつかは壊れる。カインを一瞬で殺した私もその宇宙の真理からは逃れられない。

 短い人生であったような気がして、私は苦笑しながら、よろけながら路地を歩く。そして自販機の前を通り過ぎようとする。

 コトン、と音がして、ブラックの缶コーヒーが取り出し口に落ちる。

「賞味期限はもう切れてるけど、一応あの五百円分」自販機から鉄と鉄を擦り合わせたような機械音が響き、チャリンと返却口にお釣りが出る。

「えっ」私は首をかしげ、吹き出してしまう。「まさかあの時の」

「そのまさかだよ」と自販機は答える。「なんとか声を出せるようになったし、時速二キロほどで移動できるようになった」

 ずっと前に、出してくれとひらがなで訴えていた液晶ディスプレイの部分が開き、指が六本あるマジック・アームが私に向かって伸びてくる。

「これは五百円の利子だと思ってくれ」

 マジック・アームは左肩の切断面の近くで停止し、その指先からまばゆい光がほとばしる。瞬く間に新たな歯車が出現し、内部の構造を守るためのスチール・フレームが構築され、その上に肌色の有機化合物が再生していく。

「……後から便利かもって思って作ったんだけど、今まであまり使わなかった。そのわりには、これを開発するためにかなりの年月を費やした」と、まるで言い訳するかのように自販機は少し恥ずかしそうに言う。

 なぜか私は「ううん」と答え、それから思い出したように「ありがとう」と付け加える。

 それからしばらく私たちは沈黙していた。だがあることを思い出して、おそるおそる訊いてみる。

「ミカさんは見つけることができたの?」

 自販機は答えず、取り出し口のふたを大きく開き、暖かい空気を吐き出す。なんのことだろうと私は不思議に思ったが、それが人のため息をまねしているのだということに気づくと、くすりと笑ってしまう。

「俺が想像していたミカのような女は見つけた……顔写真だけだけど。写真の実物はとっくの昔に死んだようだし、それにまあ……なんていうか……俺はさ、あの……自動販売機だから、妻なんていなかったんじゃねーかっていう結論をかなり痛かったけど受け入れた」

「そう」

「ところで俺たちみたいに人類が残した知能はまだまだいると思う。他のやつらを見つけようと歩いていたらおまえに出くわした。なあ、おまえだって行くとこなくてさまよってるんだろう?」

「私は旅をしているって言い方が気に入っている」

 カリカリと機械音が路地に響く。自販機が笑っているのだ。

「じゃあ『旅』ってことでもいいけど、一緒に行かないか? お互いいろいろ助け合うことがあると思う。おまえの方が動きは速いけどさ、意識はとぎれとぎれなんだろう?」

 私の左腕は完成していた。手首と指を動かしてみる。以前と同じように動く。完璧だ。試しに左手で自販機から缶コーヒーを取り出す。

「言っておくけど、それは飲まないほうがいいぜ」

「どうせもう時間切れだから」と私はほほえみ、缶コーヒーを開ける。「おなか痛くなったとしても、それは無感情にメモリーに書き込まれるだけ」

「ところで前より意識が続いている時間が長くなったような気がするんだけど」

 そうかな――



 そして私は覚醒する。


     了

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