シュタインシュタットの浮浪児 5
エメリヒが手にした短銃がルフトの胸に狙いを定めている。それが玩具で無いことは、硝煙の臭いや、銃口から吐き出される白煙からも明らかだ。今まさにこの銃はニコラを撃ったのだから、白煙の出る玩具ということもあり得ない。
心臓が早鐘のように打って、背筋は服の中に雪でも放り込まれたのではないかというほどに冷たい。深く呼吸ができない。喉が渇いて仕方がなかった。ルフトに銃を向けるエメリヒの顔は真っ青だった。ルフトの顔色もそう変わらない。恐怖で足が震えるのが分かる。漏らしていないのが不思議なほどだった。
自分に向いた銃口から目を逸らすのには勇気が必要だったが、ルフトはなんとかニコラに目線を向けた。床に倒れ伏した少年の胸元辺りから血だまりが広がっている。エメリヒが銃を取り下げ、ニコラは血糊の上から起き上がり、この場にいる全員が騙されたルフトを笑う、ということにはならない。そんなことはルフトにだって分かる。これは裏切りだ。ルフトたちは裏切られたのだ。エメリヒに。親友だと思っていた少年に。
「もう冗談じゃ済まないぞ、エメリヒ……」
強い言葉を口にしたつもりだったが、声は震えた。目を逸らしていたかったが、意思の力でルフトは目線を銃口に向ける。
「
「……何故だ、って? 決まってる。俺は未来が欲しい。ファミリアに飼い殺される一生なんて御免だ。こんなクソッタレな町から逃げ出せるなら何だってするさ。靴を舐めよう。ケツを差し出そう。親友だって殺せと言われりゃ殺す」
「そうやって切り捨てられる相手を親友とは呼ぶな」
それはルフトたちが空賊たちの案内人を務め始めて3日目のことだった。空賊たちの部屋に全員が揃ったタイミングでエメリヒが空賊たちに向かって言ったのだ。
「あんたらの企みに俺を噛ませてくれ」
「企み? なんの話だい?」
アルノーがすっとぼけたが、エメリヒは確信を持って話を始めたようだった。
「狙いは王女様だろ。初日は所在を探ってた。二日目は襲撃できる場所を探してた。今日は何処から邪魔されるかを見極めてた」
ルフトの胸にもエメリヒの言葉はすとんと落ちた。そう考えれば納得が行くことばかりだったからだ。
「大将、俺は役に立つぞ。あんたらの仕事を上手く行かせてみせる」
「それで何を望む?」
船長と呼ばれている男がそう言った。
「俺を連れて行ってくれ。あんたらの船に乗せて欲しい」
ドミニクがピュウと口笛を吹いた。
「志願か。確かに浮浪児よりゃマシかもな」
ルフトはニコラと顔を見合わせた。ルフトはこんな話は聞いていない。ニコラも困惑顔だった。ルフトと同じのようだ。空賊になるなんて今の今までこれっぽっちも考えていなかった。ファミリアに切られる心配はしていても、こちらからファミリアを切ってしまうなんて、下っ端が簡単に思いつくものではない。
しかしルフトやニコラならともかく、エメリヒの離脱をファミリアが許すとは思えない。エメリヒはファミリアに借金があるのだ。
「ファミリアに垂れ込まれたら困るだろ? 町でこそこそやる分にはともかく、王女様を襲撃するなんてことに協力したら、ファミリアと言えど潰される。ファミリアは絶対に協力しない。だが俺はそれを分かった上で協力する。ファミリアを騙して協力させることだってできる」
「エメリヒ、それは……」
余りにも危険な賭けだ。ファミリアに知られれば、今すぐ命を狙われる。ただ殺されて済むような問題では無い。見せしめとして徹底的に、残虐に、時間をかけて殺されるだろう。
「お前の覚悟が見たい」
「何を見せればいい?」
船長は腰の短銃を抜いてエメリヒに手渡した。
「仲間を撃て。ファミリアとの絆を切り捨てるところを見せろ」
エメリヒの逡巡はわずかだった。彼はすぐにニコラに銃口を向けて引き金を引いた。
そして今に至る。
エメリヒの手は震えている。銃口は揺れながらも、しかしルフトの胸に突きつけられたままだ。エメリヒの意思とは別に、その手の震えで引き金を引いてしまいそうですらある。
逃げなければ、とルフトは思ったが、足は竦んで動かなかった。
まるで悪い夢でも見ているようだった。
今にも揺り起こされて夢から覚めるのではないかとルフトは思う。だが夢と言うにはあまりにもすべてが現実的すぎた。涙でぼやける視界、硝煙と血の混じり合った臭い、全身の血が流れ去ってしまったような冷たさ、難しい呼吸、息苦しい。胃がむかつく。
すべてが現実だと告げていた。
ここで死ぬのだとルフトは理解した。ようやく理解した。ニコラが撃たれ、倒れ伏しても、まだ理解が追いついていなかった。銃口を向けられても、まだ。今ようやく、しかし、今更だった。
エメリヒが引き金を引けばルフトは終わる。
また、だ。とルフトは思った。また自分の命が誰かに握られている。いつかもこんな思いをした。かつては無力だった。今も無力だった。力が欲しいとルフトは思った。せめて自分の命を自分の思い通りにできるだけの力が欲しいと、そう願った。
だがすべては手遅れだった。
エメリヒが引き金を引き、撃鉄が落ちた。
カチンと乾いた音を立て、撃鉄が火打ち石を叩いたがルフトは死ななかった。
銃声は無く、代わりに空賊たちの笑い声がぱっと弾けた。
「くくくっ、いやあ、笑いをこらえるのに苦労したぜ」
「そう言って、雰囲気出してたじゃないか」
「そりゃよ、空の銃を向けてお互いに超ビビってんだぜ。そんな空気に俺ぁ水差せねぇよ」
「ちげぇねぇ」
ゲラルトとドミニクがそんな風に笑い合うのをルフトは呆然と聞いていた。視線は室内を彷徨い、空賊たちを通り過ぎて正面に立つエメリヒを見た。エメリヒはルフトと同じくらい呆然として、手元の銃を見つめていた。
どっと冷や汗が噴き出した。
ほんの少し生きながらえたことに、ルフトは膝から崩れ落ちそうになる。
死んでいない。
まだ死んでいない。
だがそれだけだった。
空賊たちはこの余興を止めるつもりはない。
その証拠にドミニクが腰にぶら下げた短銃をエメリヒに手渡そうと引きぬいた。
ルフトは呆然とそれがエメリヒの手に渡るのを見つめていた。
ルフトは――。
だが短銃がエメリヒの手に渡った瞬間に動いた者がいた。
「逃げろ!!」
もはやうめき声すら上げなくなっていたニコラが猛然と起き上がり、エメリヒに向かって突進していったのだ。突然のことにエメリヒは動けなかった。エメリヒだけではない。この部屋にいる誰もがニコラの行動に意表を突かれた。エメリヒはニコラのタックルを受けて床に押し倒される。
「ルフト!!」
ニコラの声に弾かれたように、ルフトの体は動く。
動いた。
さっきまで竦んで動かなかった足が、ニコラの命がけの突進に後押しされるように、その一歩目を踏み出した。出口側には空賊たちが立ち塞がっている。となれば脱出口はひとつしかない。
「逃がすな!」
そう叫んだのは空賊たちの誰だったか。それを聞きながら、ルフトはただ窓に向けて全速力で突っ込んだ。くすんだガラスが木枠ごと割れ、ルフトの体は中空に放り出される。一瞬の浮遊感の後、その体は背中から石造りの街路に叩きつけられた。降り注ぐガラス片が体のあちこちを傷つけたが、幸いにして致命傷となることはなかった。
すでに日の落ちた旧市街の街路には人影はない。ルフトはとにかく体の向いていた方に向けて走りだす。その背後で着地音が聞こえ、ほんのわずかな期待を込めてルフトは振り返った。
「ニコラ?」
「ざぁんねぇん」
にぃと口の端を歪めて嗤うのは、ルルと呼ばれていた女性だった。浅黒い肌に桃色の髪が揺れる。ルフトは今度こそ前を向いて全力疾走した。旧市街の街路は無闇やたらに入り組んでいる。
しかしルフトのすぐ後ろで女の足音がずっと追ってくる。
それは離れもせず、近寄っても来ない。明らかに獲物をいたぶる狩猟者のものだ。
どんなに逃げても女が自分を見失うことなど無いとルフトは思った。
ならば新市街に向かうしかない。この時間であっても新市街ならば人通りもあるだろう。流石に人前で人殺しを行うほど血迷った相手ではないはずだ。
しかし女はルフトが方向転換したことに気付いたのか、いきなりその速度を速め、そのすぐ背後に迫ってきた。
「追いかけっこには飽きちゃったわぁ」
ぞくりと背筋を這い上がる悪寒に、ルフトは前に身を投げ出すように跳んだ。それでも背中にずきりと鋭い痛みが走る。街路をごろごろと転がり、女に向き直る。
女はいつの間に抜いたのか、くの字に折れた短剣を手にしていた。その刀身からぽたりと血の雫が落ちる。
ルフトが構えたのを見て、女はくすくすと笑った。
「何もできない坊やかと思っていたわぁ。少しは楽しませてちょうだいねぇ」
袈裟懸けに刃が振り下ろされてくる。
――速い!
それはルフトが想像していたのよりずっと鋭い斬撃だった。受け止め損なえば肩口から肋骨ごと断ち切られるだろう。銀色の刃がぎらりと禍々しく月明かりを反射する。
それと同時にルフトは腰の後ろから短剣を引き抜いた。最後の最後まで抜かなかったのは、武器を持っていることを知られたくなかったからだ。警戒はされたくない。戦い慣れしているであろう空賊にルフトが付け入る隙があるとすれば、彼のことを単なる浮浪児だと侮っているだろうそこにしかない。
刃と刃が交錯し、鋼のぶつかり合う鈍い音が夜の路地に響いた。空賊がぎょっと目を剥いた。
ルフトの短剣が彼女の剣を受け止めていた。それは刃の手元側に櫛状の切込みが入った、剣を受け止めるための剣。デーゲンブレッヒャー。剣戟の重みで、または受け手の力で、絡めた剣をひねり落とす。または細い剣なら折ってしまう。
ルフトは受け止めると同時に力任せにデーゲンブレッヒャーを引いた。だが女のほうがすばやく剣を引いて、デーゲンブレッヒャーは空を切った。
「お、おっー、おっどろいたぁー。おどろいたわー。あっはっは」
さっと距離を取った女は驚いた驚いたと言いながらケラケラ笑った。
「いいね、キミすごくいいね。逃げる時の手際と言い、今の一撃を凌いだことと言い、すごくいい。さあ、次はなにを見せてくれるのかな?」
ルフトは歯を噛み締めた。いくら若い女に見えても相手は空賊、浮浪児のルフトと比べると戦闘経験が違いすぎるだろう。正面から戦えば勝ち目は無い。
女は剣を前に半身に立つ。剣士として標準的な構えだが、それゆえに隙がない。一方、ルフトはデーゲンブレッヒャーを腰の後ろの鞘に収め、両手をローブの中に隠す。次の獲物を知られないように――、と、相手に思わせるように。
実際のところはルフトの武器は投げナイフと、このデーゲンブレッヒャーしかない。だが、だからこそ、その事実を相手に知られるわけにはいかない。
「王国を敵に回すつもりか? 逃げる当てはあるのかよ」
「――それって彼の心配? 自分が今、今まさに殺されようとしている、この時に?」
「クソ食らえ」
ルフトの右手の指先はデーゲンブレッヒャーに、左手の指先は投げナイフにかかっている。いつでも、どちらでも、両方でも引き抜ける。
「キミは自分の心配をするべきだと思うなあ。さあ、唸りを上げろ!」
女はゆっくりと剣を振り上げる。それはあまりにも緩慢な動作で、あまりにも隙だらけだった。だからこそルフトは迷った。迷ってしまった。ここで攻撃してもいいものかと疑問を抱いたのだ。間違いなく女は隙だらけだったのに、そこを攻撃することができなかった。
次の刹那、女はルフトとの距離を一歩で踏み抜いた。片足のバネだけで実に5メートルを跳んだのだ。そのまま短剣が振り下ろされる。対応を考える暇もない。ルフトは再びデーゲンブレッヒャーを抜いて刃を受け止める。
ばつん――、と皮の裂ける音がした。
「――え?」
左の肩口から、右のわき腹に向けて、まるで焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走り抜けた。剣は確かに受け止め、しかも絡め取っているのに!
腕から力が抜けて短剣をひねり落とすところまで持っていけない。それどころか女は受け止めたデーゲンブレッヒャーごとルフトを両断する勢いで力を込めてくる。
ルフトは自分の体がどうなったかを確かめることもできず、女と刃の押し合いをするしかない。目の前にある女の顔は相変わらず状況にそわない満面の笑い顔だ。
「わーお、致命傷を避けたね。ねえ、どうして不可視の攻撃が来るって分かったのさ?」
分かってなどいなかった。だが剣を受け止める瞬間にルフトが身を半分引いたのも事実だった。女が飛び込んできたとき、刃が振り下ろされたとき、刃の向こう側になにかが見えた気がして、とっさにそれを避けようとしただけだった。
まったく理知的でない。単なる勘、勘だ。
「魔法使い……」
遅れて理解が追いついてくる。剣戟とは別の不可視の攻撃、それを理解できる形で説明しようとするとそれしか残らない。
魔法使い。
つまり魔法を使う能力者。
ヒト以上の存在。
ルフトの知識ではその程度のことしか分からない。ただ浮遊船が普及する前は、魔法使いが戦争を左右していたという話は知っている。戦争の主役が浮遊船に移り変わった現在においても、魔法使いが戦場において求められる存在であることは変わっていない。兵士としてではなく、兵器として――。
つまりルフトは大砲とつばぜり合いをしているようなものだ。
――そりゃ、ない……ぜ。
わずかにあった勝てる可能性が、まるで朝もやのように消えていく。ルフトはそれが単なる気のせいだったということに気づかざるを得ない。
「気づいて、どうする?」
「倒す」
もちろん虚勢だ。だが虚勢を張らなければ、腕にこもる力が鈍る。確認はできていないが、肩からの傷はかなり出血している。女は致命傷ではないといったが、決して浅いとも言っていない。このまま時間が過ぎれば出血による疲弊で負ける。死ぬ。
「倒してやる!」
ルフトは叫んで左手をデーゲンブレッヒャーから離した。右手一本では女の剣圧に耐え切れず、短剣が左の肩に食い込んだ。歯を食いしばり、痛みに痺れあがる左手で投げナイフを抜いて女の胸に向けて突き上げる。
突き上げたつもりだった。
どん、と鈍い衝撃が体を抜けて、次の瞬間には地面に叩きつけられている。目の前がぐしゃぐしゃにゆがみ、体中があちこち痛んでいるが、具体的にどこが痛いのかが分からない。そもそも自分がどんな体勢になっているのかが分からない。
「ごぶ……」
何かをしゃべろうとしたのに、口から漏れたのは異音と、生暖かく鉄錆びた味のする液体だけだった。
「また致命傷を避けたね。すごいすごい」
遠く耳鳴りのように女の声がする。視界の端に見えた女ははるか何メートルも遠くにいるように見えた。例の不可視の攻撃を受けて、横なぎに吹っ飛ばされたのだと気づく。角を曲がった先の壁に叩きつけられたのだ。
ルフトは自分の体を見下ろした。やはり左の肩口から右のわき腹にかけてばっさりと切られている。出血で胸から下はべったりと赤く染まっている。これだけ出血していても気づかないものかと愕然とする。
そして左腕はぐしゃぐしゃに折れ曲がり、もはや使い物になりそうにない。おそらくはこの腕で女の魔法を受け止めた形になったのだろう。でなければ致命傷を受けていたか、あるいは即死していたに違いない。
だが即死していないということに一体どれほどの意味があるというのか。痛みはなく、意識はまるで靄がかかったようにはっきりしない。たとえ致命傷でなかったところで、もはや戦う力などどこにも残っていない。
心の奥底から、真っ黒い何かが体中に染みあがってくる。それはあまりにも明確な死のイメージ。自分はここで死ぬという確信。何度目かの後悔。
逃げなければ。
逃走の意味合いは先ほどまでと明らかに変化する。さっきは突然の状況から自身を立て直すための一時撤退だった。だが今はとにかくこの場から逃げ出したいだけだ。この魔法使いの手から逃げ切れるのであれば、なんでもよかった。
ルフトは右手を地面についた。崩れた膝を立てた。胃の中から吐き出せるものを全部吐いて、息を吸い込んだ。咳き込み、涙を拭いて、立ち上がる。膝ががくがくと揺れる。
「まだ立てるんだ。立ち上がるんだ。寝てりゃいいのに、そこまでキミをかきたてるものはなに?」
それは言葉にするなら、自分の運命を他人の手に委ねる事への嫌悪だった。
吹き飛ばされてできた距離を無駄にできない。走る。走り出す。この女に死に様を見られるのだけは嫌だ。足がもつれる。立て直す。エメリヒを殺すまでは生き延びる。痛い。鉄の味が口の中に広がる。ここはどこだ。
その瞬間、すべてが明晰になる。これまで道順を把握しているだけだった旧市街が俯瞰的に理解できる。何故そうなったのかを説明することは難しい。死を間際にした時の馬鹿力みたいなものだったのかも知れない。あるいはルフトの何らかの才能がこの土壇場で開花したのかも知れない。
女はルフトの後を少し遅れてついてきている。それはもはや狩猟者ではなく、ただの嗜虐者だ。ルフトがどこで力尽きるかをただ観察しているに過ぎない。
ならば、これは予想できたか?
ルフトはとある建物の影に入る。呼吸を整える。浅く、短く、静かに。デーゲンブレッヒャーは落としてきてしまった。残っているのは一本の投げナイフだけだ。それを構えてじっと待つ。女の気配がやってくる。角を曲がる。
やってくるのは剣戟。待ち伏せは見抜かれていた。重い剣を投げナイフで受け流す。そのまま投げナイフを捨て、女の体に掴みかかる。女の目が驚きに見開かれる。
ルフトが立っていたのは水路の縁にある細く、小さな足場だ。子ども1人がやっと立っていられる程度の小さな足場。女の足が一歩前に出るが、踏みしめるべき足場はそこにはない。
落ちる。
ルフトは女と絡み合ったまま細い水路に飲み込まれて意識を失った。
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