シュタインシュタットの浮浪児 6
聖円教会の治癒術士であるエマがシュタインシュタットの教会に派遣されて3年が経つ。前任のカーリンが老齢による引退で第一線を退いて以降、しばらくシュタインシュタットは治癒術士の不在が続いていたが、信者からの強い要望によって本土から治癒術士の派遣が決まり、白羽の矢が立ったのが、未婚で身寄りの無いエマだったというわけだ。王国の辺境も辺境、本土から遙か南東のエーテル海の離れ小島への赴任にエマは気乗りしなかったが、教会本部の意向に一治癒術士が逆らえるはずもない。
住み慣れた教会本部の寮を出て、初めて浮遊船に乗り、やってきたシュタインシュタットの教会は、一言で言えば腐敗していた。本土の教会本部が清廉潔白であったかと言えば決してそんなことはなかったが、本部の目の届かない辺境の地で信仰という力を集めたシュタインシュタットの教会は、俗世の欲に塗れていた。
よろしい。本土でも治癒魔法を受ける順番が、寄付金の額によって変動することはあった。命の危機にある貧者を差し置いて、小さな傷を治せと大商人が割り込んで来るのに辟易としていたものだ。しかし寄付するだけの手持ちが無い者でも、一応は治療を受けられたのが教会本部だ。後に奉仕活動への従事を推奨はするものの強制するというほどでもない。
しかしシュタインシュタットでは違う。治癒魔法に対して寄付金の先払いを求めるのだ。それでも額の多少を問わないと言うのであれば良い。聖書には富者の金貨と貧者の銅貨という一説もある。多くの財産を持つ富者の金貨1枚と、全財産が銅貨1枚の貧者の銅貨1枚では、神は後者に重きを置く、という話だ。しかし違う。シュタインシュタットの教会では治癒魔法に明確に対価を求める。それも寄付金の額に応じて、消費魔力量の上限が定められる仕組みだ。なけなしの全財産を持って教会に駆け込んできた怪我人の傷が治りきらないうちに治癒魔法を打ち切るように助祭に言われるということが起きる。
エマの総魔力量は一般的な魔法使いと比べてかなり多い。その魔法紋は右手から背中を通り越して左腕にまで伸びる。生来、痛みに強い性質だったが、それが魔法紋を刻む時に良い方に作用したようだ。故に教会本部にいた時ですらエマが魔力を使い切るということは起きなかった。
腐っているのはシュタインシュタットの教会だが、そこに所属する以上、エマは自分も腐っていくのを感じていた。敬虔な聖円教会信徒であれば、司祭や、助祭の言うことに疑問を抱くことすらしないはずなのだ。教会に対して疑念を抱くと言うこと自体が、すでに純粋さとは対極にある。シュタインシュタットの教会が間違っていて、自分が正しいと言い切れるほどエマは極端でも無かった。
エマがシュタインシュタットの教会に対して反発心を抱いているということ自体は、司祭や助祭にも気付かれていて、エマは治癒魔法を使う以外に重要なことは一切任されなかった。それで時間を持て余したエマは修道女の真似事を始めた。元々人手の足りていないシュタインシュタットの教会だ。反対はされなかった。
そんなわけで今日も一日のお勤めを終え、孤児院の子どもたちの世話をして、ようやくできた時間で聖堂の掃除をしているところだ。聖堂の入り口のほうからドサリとなにかが落ちた音がする。エマは嫌な予感がして入り口に急いだ。時折教会の前に死体を捨てていく者がいる。理由はいくつか考えられるが、いずれにしても教会はそれを無視できない。今日の場合は痛ましいことにまだ幼い少年だった。聖堂の前に捨てられている。血の跡が地面に無いことから荷車かなにかで運ばれてきたのだろう。少年の体からは今も血が溢れ出し続けている。血が、溢れている?
エマは法衣が血で汚れるのも構わずに少年の体に飛びついた。弱々しいが心臓がまだ動いている。生きている。後先などは考えなかった。
少年の傷は深い。左の肩口から右の脇腹に掛けてばっさりと体の前後を切られた特徴的な傷は風刃の魔法によるものだろう。もはや原型を留めていない左腕はまた違う魔法によるものだろうが、エマには判別が付かない。幸いなことに欠損はなかった。治癒魔法は傷を癒やし、塞ぐが、欠損を復活させられるようなものではない。エマの顔を汗が伝う。これだけの傷を癒やした経験はエマには殆ど無いし、命を救えた数は尚少なかった。
生きて!
少年の服装から彼が浮浪児であろう事は知れる。シュタインシュタットの教会が請求する治療費を払えるはずもない。このことが司祭に知られればエマは厄介な立場に置かれることになるだろう。だがそんなことはすべて後回しだ。今ここで零れ落ちそうになっている命を拾えなくて、何が治癒術士か。
左腕の魔法紋がすべて消える。背中の魔法紋を消費し始める。状況は予断を許さない。流した血の量が余りにも多く、治癒魔法は体力を回復させるようなものではないからだ。傷をすべて癒やしたとしても、少年の生きようとする力が足りなければこのまま死ぬ恐れもある。左腕は後回しにするしかなかった。エマの経験上、これ以上治療が遅れれば障害が残る恐れがあったが、胴体の傷は後回しにしていれば死に至りそうだ。
傷を見逃さないためにエマは少年の衣服を裂いた。どうやら新しい傷は胴体と左腕の二つだけのようだ。幸い胴体の傷は骨で止まっていた。内臓に達していたら今まで命が保たなかっただろう。魔力を注ぎ込み、傷を癒やしていく。あまり肉の付いていない少年の体は、脆い分、治癒にかかる魔力も少なくて済んだ。程なくして胴体の傷からの出血が止まる。間を置かずに左腕に取りかかる。見た目で複雑骨折していると分かる左腕の状態は悪い。なんとか繋がっているだけという感じだ。障害が残らないように治すのは、時間と精神を削る作業になるだろう。雑な処置で済ます手もある。左腕は使えなくなるかも知れないが、少なくとも命は助かるだろう。エマが消費する魔力も少なくて済む。だがエマは迷わずきちんとした処置を行うことにした。浮浪児が片腕を失えば、もう物乞いくらいでしか生きていけない。それに事が公になれば、魔力の消費の多少は関係なく、エマの置かれる立場は揺らぐ。どうせ同じ事なら、少年が救われるほうがずっといい。
エマは少年の左腕を引っ張って真っ直ぐに伸ばした。複雑骨折した腕はぐにゃりと曲がろうとするが、それを引っ張って伸ばしたまま治癒魔法を掛けていく。人体の構造を知らなくとも治癒魔法は使えるが、知っていると尚良い。教会本部で学んだエマには幸いなことに豊富な知識があった。彼女は人体が本来どういう構造で在るかを知っていたし、そうでないものを、そういう状態に持っていく手法を知っていた。過去の経験が彼女と少年の助けになった。かつて救えなかった命が今ひとつの命を救おうとしていた。
背中の魔法紋が尽きた。左腕の治癒は終わったが、胴体は応急処置をしただけだ。幸い、エマの魔力はまだ右腕の魔法紋の分が残されている。だがそのタイミングでエマの肩を掴んだ者がいた。
「エマ様、これ以上は……」
それは修道女のカタリナであった。シュタインシュタットの教会に所属する修道女の中ではエマに近しい。彼女であれば司祭が助祭に告げ口することもないだろう。
「もう少しなのよ」
「もう彼の命は繋ぎました。明日何処かで重傷者が出る、ということもありましょう。その時にエマ様に魔力が残されていなければ、不幸な事故が起きる、ということも考えられます」
「そこまで腐っているの」
「司祭はファミリアとも繋がりがあります。人を1人消すなんて造作も無いはずです」
「まさか……」
エマはシュタインシュタットの教会がそこまで腐っているとは知らなかった。だがエマより長くここの教会にいるカタリナの言うことだ。間違いでは無いのだろう。
「今はその少年を助けましょう。孤児院にベッドの空きがあるはずです」
「ええ……」
表向きシュタインシュタットの孤児院に空きは無いことになっている。しかし多額の寄付と共に捨てられる子どもがいないわけではない。そんな時のためにベッドに空きを用意してあるのだ。
「彼が動けるようになるまで孤児院に寝かせておきましょう。幸い司祭も助祭も孤児院には興味がありません。修道女たちに根回しさえしておけば気付かれることは無いでしょう。多少袖の下は必要になるでしょうが……」
「分かってるわ。私の蓄えから出す」
「それならば安心です」
それからエマとカタリナは協力して少年を孤児院の空きベッドまで運んだ。手桶に水を汲んで、少年が倒れていた聖堂前の血だまりを掃除しておくことも忘れない。証拠をすべて隠滅して、修道女たちに根回しをする。孤児院の子どもたちの口を塞ぐことはできないが、司祭も助祭も孤児たちと関わろうとはしないので大丈夫だろう。
こうしてエマは1人の少年の命を救った。
注1 魔力の回復速度を示す言葉。入力系が大きいほど魔力の回復速度が速い。
注2 魔力を一度に使用できる量を示す言葉。出力系が大きいほど強力な魔法が使える。
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