シュタインシュタットの浮浪児 2
カスパーが事務所を構える辺りは旧市街の中でもあまり治安の良いところではない。所謂、阿片窟と呼ばれる界隈だ。周囲には独特な甘酸っぱい香りが漂う。匂いだけで酔ってしまう者もいるだろう。阿片を売る売人、パイプなどの吸引道具を売る商人、そして阿片無しでは生きられない中毒者たちが集まってきている無法地帯だ。阿片の売人はルフトのような浮浪児には見向きもしないが、アルノーのような他所からやってきたと一目で分かる客には付き纏う。それが分かっているからルフトは道を歩くような愚は犯さない。
「これも旧市街流というわけかい?」
「そうだよ。船乗りなら高いところも平気だろ?」
「まあね、っと」
2人は屋根伝いに旧市街を移動していく。高所でも機敏に動けるアルノーを見て、ルフトは少なくとも彼が船乗りであるということは信用することにした。もちろんルフトの知らない旧市街の住民だということも考えられるが、わざわざ船乗りを装ってルフトに接近するメリットなど無い。カスパーにしたってそれほど変わらないだろう。ルフトの上役とは言っても、カスパーもファミリアの中では下っ端だ。
「一応、部屋の要望を聞いておこうか。雨漏りは平気? 他人の出入りは?」
「どちらも勘弁願いたいなあ。というか、冗談だよね」
「それが旧市街だよ。下を探すなら幾らでも選り取り見取りさ。天井が欲しい? いいね。家具が欲しい? いいね。枕を高くして寝たい? いいね。ここは旧市街、待遇を求めるなら、新市街より高く付く。
「なるほど。まさしく君の言う通りだ。僕が欲しいのは安全な部屋だ。分かるかい? 安全な部屋だ」
アルノーの言わんとすることをルフトは理解したが、意外でもあった。アルノーのことを船乗りだと確信はしていたが、
「糸の付いていない、ってことかい? まったく? 完璧に?」
「6人が完璧に安全に過ごせる部屋だ」
「そんなのブロッケンブルクに泊まるより高く付く」
ブロッケンブルクはシュタインシュタット新市街にある一番の高級宿だ。貴族や大商人ご用達で、ルフトのような浮浪児は近づくことさえできない。ブロッケンブルクに雇われた用心棒に追い払われてしまうからだ。もちろん宿泊費は目玉が飛び出るほどにお高い。ルフトが今のままの稼ぎなら一生かかっても一泊分を払えやしないだろう。だがアルノーの求める安全はブロッケンブルクでは手に入らない。
「必要なだけの金は払う」
「口約束では誰も信じない。旧市街では先払いが大原則だ。まさかとは思うがそんな大金を1人で持ち歩いて旧市街までのこのこやってきたってのか?」
「まさしく、そんな大金を1人で持ち歩いているなんて思わないだろ?」
「旧市街を甘く見過ぎだ。ここじゃ人の命なんて銀貨より安い。大金を持っているから、ではなく、健康そうだからで狙われる。雇ったのが俺じゃなかったら今頃あんたは奴隷か、貯水湖の底だ」
「人を見る目には自信があってね」
「そいつは節穴って言うんだぜ」
軽口で応じたが、実際のところルフトはアルノーをどうにかして金を奪おうとは思っていない。浮浪児1人が抱えるにはあまりに大金過ぎるからだ。なんとか奪って、即行でファミリアに納めたところで窓口になるカスパーの手柄にされるだけだ。ルフトが得られるのはカスパーの評価くらいのものだろう。それにアルノーは見た目から感じるより遙かに機敏に動く。リスクにリターンが見合っていない。それならこの
分かっているのかな? と、そう思ってルフトはちらりとアルノーの顔を覗ったが、その細目からは表情を読み取れない。むしろ何も考えていないように見える。アルノーという男は一見した印象では評価できないということだ。なんとなく良い人そうに見えるところまで計算されているのだとすれば、立派な詐欺師だ、ということになる。
「着いた。降りるよ」
ルフトは屋根から地面、道、あるいは天井に飛び降りる。アルノーは途中の段差に一度掴まってから降りてきた。カスパーの事務所は一見してそれだとは分かりにくい。阿片窟に溶け込んだ普通の建物の一角だ。ファミリアの符丁のひとつでノックする。アルノーの知られても構わないものだ。そもそも本当の符丁を教えられているのかすらルフトには判断が付かない。カスパーに教えられてその通りにやっているだけだ。
錠前の開く鈍い金属音が音がして扉が僅かに開く。中から外を覗き込んだ用心棒はルフトの姿を認めると、ようやくその重い扉を開いた。
「カスパー、客だよ。糸無しの部屋をご所望だってさ」
「さんを付けろ。この浮浪児が。家賃をどれだけ待ってやってると思ってる」
事務所の奥で椅子に座って帳簿をつけていたカスパーが振り返りもせずにそう答える。
2人いる用心棒は鋭い視線でルフトとアルノーを舐めつけるように見つめた。その腰には曲刀と短銃、どう見たって
「だから客だって。仕事だよ」
「ふん、誰だか知らんが、ルフトを案内人に選ぶとは、多少は見る目があるってもんだな。このガキは少なくとも旧市街の中で迷うようなことはしないからな。それで何が入り用だ。お客さん」
カスパーは振り返ってその顔を見せる。その見た目は丸っこい顔をした髭面のおっさんだ。体のほうも丸っこいが、このことを指摘するのには勇気がいる。蛮勇と言ってもいいかもしれない。アルノーも雰囲気でそのことを察したのか、カスパーの体型について第一印象を語るようなことはしなかった。
「安全な部屋を探しています。6人が安全を確保できる部屋を」
「ルフトが説明しただろうが、全額先払いだ。
「とりあえずここに王国金貨が30枚。足りなければ出直します。ここに辿り着くかは分かりませんけれどね」
アルノーが攻めて、カスパーは無表情を貫こうとしたようだが、その太い眉がぴくりと動いた。ルフトに金貨は大金過ぎてよく分からないが、カスパーの眉から事の大きさは理解した。カスパーはなんとしてもアルノーから持ち金をすべて搾り取ろうとするだろう。
「それで全部、ってこたぁ無いだろ? 糸を切るのにも金はかかる」
「6人です。分かりますよね」
「ルフト」
カスパーに名を呼ばれてルフトは首を横に振った。誰かにつけられるような真似はしていない。ちゃんと迷うように旧市街の中へと引きずり込んだのだ。それはつまり真っ直ぐに進んだわけではないということだ。誰かがつけてきていれば気付く。そこに抜かりは無い。もちろんアルノーの金払いがいいなら最終的には新市街まで案内するつもりでもいた。
アルノーが右手をカスパーに見せた。角度的にルフトからは何を見せたのか分からない。だがそれはカスパーを諦めさせるのに十分な何かだったようだ。
「王国金貨で30枚、1枚も負からん。ブロッケンブルクのスイートとはいかんぞ」
「安全性が第一です」
「分かった。探してみるから、ちょっと待ってろ。ルフト、客人にお茶を淹れてやれ」
「分かった」
ルフトはカスパーの事務所の調理場に向かう。勝手知ったる他人の事務所だ。火打ち石でかまどに火を入れてお湯を沸かす。茶葉は良いものを使っても今回だけは文句を言われまい。
用意するのはアルノーとカスパーの2人分だ。そこは間違えてはいけない。ルフトが自分の分もこっそり用意したとしても、カスパーがアルノーの前で文句を言うことはないだろうが、ルフトのお茶の分、手数料が減らされるのは間違いない。そしてそれはべらぼうに高く付くはずだ。
お茶が用意できて2人のところに持っていく頃になると、カスパーは羊皮紙の束と格闘していた。
「お茶だよ」
「これはどうも」
テーブルの邪魔にならないあたりに2人分のカップを置く。
ちょうどそのタイミングでカスパーが一枚の羊皮紙を取り上げた。
そして黙って羊皮紙をアルノーに向けて差し出した。
アルノーに差し出された羊皮紙をルフトは横から覗き込む。リビングのついた寝室4つの大きい家だ。場所も新市街からそこそこ離れていて、比較的治安も悪くないあたり。糸については分からないが、それ以外はアルノーの要望通りの部屋だ。
「何日借りられます?」
「……一週間、ってとこだな」
アルノーとカスパーの値段交渉を聞きながら、ルフトは部屋の場所を再確認した。
案内する分には何の問題もない。横から覗き込むことにカスパーもアルノーも何も言わなかった。ルフトが知る分には糸にはならないという判断だ。実際、ルフトにはこの情報をどこかにたれ込むつもりも、持って行く先も無い。
一週間という期間にアルノーは納得し、気前よく前金で全額を払った。部屋の鍵をカスパーから受け取る。
「鍵は直接返しに来ても、ルフトに預けてもらってもどっちでも。一週間を超える時はまた交渉に」
「分かりました。そうしますね」
そうしてルフトはアルノーを連れてカスパーの事務所を出る。
「で、お客さん、次はどこに?」
「思ったより時間がかかったなあ。仲間が待っているかもしれない。部屋は後にして港までお願いできるかい?」
「分かったよ」
案内人が客を旧市街の奥に連れ込んで、有り金を巻き上げるようなことは旧市街ではざらに起こるが、アルノーはすでにカスパーの客だ。それもとびっきりの上客であるようだ。前金で支払いが終わっている以上、アルノーになにかが起きて消えてしまってもカスパーが困るようなことはないが、ファミリアの評判という意味ではあまりよろしくない。金払いの良い客の安全を確保できないようなファミリアは下の下だ。
ルフトは行く道で遠回りをした分と同じくらいの遠回りをしつつ、できるだけ安全な道順でアルノーを旧市街の外まで連れて行き、新市街にある港にまで同行した。
さてエーテル海に面した海の町にある港を、それを知らない人間に説明するのは難しい。
まず第一にエーテル海はこれと言って目に見えるものではない。
そして数十年ほど前に蒸気機関を発明した人類はエーテルに浮かぶ浮遊遺物に艤装を施して、エーテルの海を航海することを思いついた。浮遊遺物とはよく分からないエーテルに浮かぶ真っ黒い人工物っぽい見た目の何かのことである。その浮力は大きく、大がかりな艤装を施してもエーテルの海にはほとんど沈まない。一方でそうやって作られた浮遊船の下部はエーテルの海に浸っており、燃焼石をボイラー用の燃料として使用できる。燃焼石はどれだけ燃えても、表面に煤が付くくらいで、洗えば再利用できるため半永久的に燃料の問題から解放される。こうして下層世界を経ることなく上層世界間を行き来できるようになった人類はさらに版図を広げようとしているのだ。
そんな浮遊船を係留しておくための施設が、エーテル海における港、である。つまり浮遊船がそのまま入港できるようにエーテル海の海面、上層世界と下層世界の境界面から少し低い位置を平地に均した一角、ということになる。浮遊船は風に流されやすいので、錨を繋ぎ止めるために金具を打ち込んであることも多い。桟橋がいくつも建てられ、浮遊船を人々がロープで引っ張っている。
アルノーは港の入り口でルフトに待っているように告げた。自分たちの船を見られたくないんだな、とルフトは理解する。知りすぎないことはとても大事だ。余計なことを知っていると、命を狙われる場合もある。
ルフトがしばらく待っていると、アルノーが4人の男女と共に戻ってきた。合わせて5人だ。6人で無いことを意外に思いつつも、それを聞くような真似はしない。むしろアルノーの仲間たちの風体のほうが興味を引いた。アルノーは人当たりの良い優男だが、あとの4人はそうではない。カスパーの事務所の用心棒をまるで空賊だと言ったが、彼らはまさしく空賊であった。もっとも空賊が必ずしも国家の敵である、というわけではない。国から発行された私掠船免状を持った、言わば国公認の空賊、というものも存在するからだ。そして公然と港を船を係留していることからして彼らがそうであるということは明白であった。しかし国家から空賊行為を容認されているからと言って、一般市民にとってありがたい存在かと言えばそういうわけでもない。ただでさえ船乗りは気象の荒い者が多いというのに、空賊と来たら輪を掛けて酷いのだから。
口調を改めるべきかどうか迷って、ルフトはいつもの調子でやることに決めた。敬語が使えないわけではないが、この後のこともある。舐められるほうが問題だ。
「おかえり。この後は部屋に直行かい? 言っておくけど、一度部屋に入ったら散歩なんて考えない方がいい。案内人無しに出歩くのは無しだ」
「新市街で食料品なんかを購入していこうかな。旧市街の食べ物ではお腹を壊すかもしれないし」
「真っ当な判断だね。お仲間の人たちもそれでいい? 一応自己紹介しておこうか。俺はルフト。こんな名だけど男だから勘違いはしないでくれよ。ケツに視線を感じるのは好きじゃない」
アルノーの仲間はそれぞれに小さく相づちを打った。彼ら自身が名乗るつもりはないようだ。
「じゃあ先に仕事の話だ。あんたらは旧市街で一週間過ごす、ということはその間、案内人が必要だよな。何人必要で、幾ら出せる?」
「最低でも3人、それから他にもお願いしたい仕事があるから、もう何人か。詳しい話は歩きながら詰めよう」
「分かった」
答えながらルフトは誰に仕事を振るか考え始めた。
注1 境界面から下側、エーテル海の海中世界のこと。エーテルは無色透明無味無臭の気体で空気と混合するため、下層世界でも呼吸に支障は無く、見た目からは区別がつかない。
注2 浮遊船を使って他の浮遊船や港を襲う賊。
注3 エーテルに触れると発火する鉱石。下層世界では燃料として重宝される。また浮遊船のボイラーにも使われる。
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