彷徨のレギンレイヴ

二上たいら

第1部 第1章

シュタインシュタットの浮浪児 1

 ここではないどこか。

 いまではないいつか。


 石造りの町シュタインシュタットの旧市街は、迷宮街ラビュリントとも呼ばれる複雑怪奇な構造をしている。都市計画というものを一切合切かなぐり捨てて、ただただ建物の増築を繰り返したことによってできた答えの無い立体迷路のようなものだ。決して広大とは言えない面積であるにも関わらず、そこに住む者ですら、その全容を把握している者はいない。

 過去に幾度か地図を作ろうという試みが為されたが、高低差のある迷路を紙に落とし込むことは到底不可能だった。

 その為に旧市街は領主ですら手を出せない無法地帯と化している。旧市街を実際的に支配しているのは無数に乱立した犯罪組織集団ファミリアだ。それらは抗争を繰り返し、拡大あるいは縮小しながら、しかし旧市街を統一することは無い。

 赤髪の少年ルフトも、とあるファミリアに所属している。シュタインシュタットの旧市街ではファミリアに所属せずに生きることは難しい。力も、背景も無い浮浪児ともなれば尚更だ。

 ゴミ浚いをしたり、物乞いをするにしても縄張りはある。衛兵が見回りにくれば逃げ出さなければならないが、それ以外の理不尽な暴力からは守られている。

 ルフトのような下っ端の下っ端は上納金すら収めなくとも良い。その代わりにファミリアは絶対だ。親分ファーターの命令に従わなければ、ファミリアからは縁を切られ、野垂れ死ぬ。

 もしも立場を変えたければ、ファミリアに上納金を納め、成り上がる他に無い。しかし実際にはファミリアの庇護があっても、稼げる日銭は生活するのに精一杯で、上納金など夢のまた夢だ。

 実際的な話をするのであれば、ファミリアの仕事を請け負って兄貴分の覚えを良くする以外に道は無い。使える奴だと思われれば、より稼げる仕事も回ってくる。

 例えばルフトの直接の上役、兄貴分であるカスパーは旧市街にある不動産をいくつも管理している。所有しているわけではないが、トラブルがあれば対処する。その代わりにそれらの不動産を利用している者からみかじめ料を徴収している。

 このみかじめ料の回収などはリスクも低く、ルフトのような子どもでもできて、報酬も約束されている、かなり割りの良い仕事だ。生活費を差し引いても、上納に回せるお金が余るだろう。

 だが勿論、そんな美味しい仕事を、今の担当者が手放すわけもなくて、ルフトとしてはそいつが栄転、あるいは左遷させられるのを待つしか無い。しかし今の担当者が外れたところでそこにルフトが入り込めるという保証は無い。というか、その可能性は限りなく低いだろう。ルフトはカスパーの自分に対する印象がそこまで良いとは思っていない。

 そもそもルフトは3人グループであり、もしカスパーがルフトだけを回収人にすると言ってもルフトは断るだろう。それはグループを離脱するということを意味するし、仲間への裏切り行為だ。

 とは言え、ファミリアは構成員にファミリアそのものを裏切ることを決して許さないが、仲間内の権力闘争は推奨している。それでもルフトにとってこの3人グループはとても大事だったし、本当の意味で家族ファミリアだと思っていた。自分1人が権力を得ても意味が無い。上に上がるのだとすれば3人一緒に、だ。それは大前提であった。

 だからと言っていつも3人で一緒にいるわけではない。例えば3人で一緒に物乞いをしても殆ど意味は無い。3人とも物乞いをするのだとすれば、相応に場所を離すべきだ。掏摸スリや置引きをするにしても、複数人で一緒に行動していては目立つ。新市街で浮浪児の3人組なんて歩いていたら警戒の対象だ。だから仕事の時間はそれぞれが単独で動く。物乞いのためにじっとしているのを動くと言っていいのであれば、だが。

 グループの中でもっとも幼いということもあって、ルフトは物乞いに回ることが多い。より同情が買えるし、捕まるようなリスクのある仕事をさせるには、逃げ足が速いとは言えない。物乞いに適した場所はいくつかあるが、ルフトは港の近くを好んだ。

 常に人通りがあるというわけではないが、浮遊船注1の発着に合わせて船乗りたちが大移動する。そして船乗りはこの町の住人ではないので、物乞いそのものを見慣れていてもルフトの顔までは知ってはいない。いつも同じ場所にいても、常に新鮮な同情が買えるというわけだ。

 加えて言うのであれば船から降りてきた船乗りはその額の多少はともかくとして確実に金を持っているし、これから船に乗る船乗りは船旅の安全を祈願するために、善行を積もうと考える。その為に船に乗る直前まで小銭を残している船乗りは一定数いるものだ。

 しかし港の近くにまで行くと衛兵の巡回がいつもより多い。他の物乞いの姿も見えない。露天商に話を聞くと、嫌な顔をされたが理由を教えてくれた。なんでも王国の王女様がシュタインシュタットの視察にやってきていて、領主は最低限、目立つところは綺麗にしようとしているのだそうだ。ルフトにしてみれば寝耳に水で、はた迷惑な話だったが、似たようなことは過去にも何度かあった。それでルフトは河岸を変えることにした。この様子では目抜き通りなどで物乞いをしていれば衛兵がすっ飛んでくるだろう。人通りは減るが裏道を使うしかない。

 問題があるとすれば同じことを考える物乞いが決して少なくないということだ。衛兵のそれと同じように、ファミリアの見回りがあるので縄張りを巡って争いになるようなことはないが、競争は激しい。

 物乞いは楽ではない。

 何もしていないように見えるが、楽な姿勢でいることはできない。敷物を敷いて、その上で寝転がっているような物乞いに施しを与えようと考える者は少ない。施しの本質は憐憫であるから、物乞いは哀れでなければならない。石畳に膝を突いて頭を垂れる。そのままじっとしているのがルフトの物乞い様式だ。施しを求めて声を張り上げる物乞いもいないではないが、それが良いかどうかは時と場合による。

 ルフトは施しがあれば小さく礼を言う程度に留めている。顔を上げることはしない。浮浪児の顔を見たいと思う者は少ないし、浮浪児に顔を見られたくないと思う者は少なくないからだ。

 チャリンと地面に置いたお椀の中に銅貨が落ちる。


「ありがとうごぜぇます。あんた様に神のお恵みがありますように」


 ルフトは愚かで、媚びへつらうような口調を心がける。施した誰かにとって物乞いは下の存在でなければならないからだ。それは見た目や、境遇、心根もだ。天真爛漫な物乞いなど成立しない。卑屈なくらいでちょうどいいのだ。

 ルフトに銅貨を一枚恵んだ誰かは、すぐに歩き去るのかと思えばそうではなかった。その場で立ち止まり、頭を垂れるルフトをじっと見つめている。ルフトは後頭部に視線を感じてむず痒くなったが、文句を言える立場でも無い。本音を言えば客寄せの邪魔なのでさっさと立ち去って欲しかったが、誰かは一向に立ち去ろうとしない。

 10秒か、20秒か、それとももっと短かったかも知れない。


「うん。君にしよう」


 ルフトほどではないにせよ若い男の声だった。言葉の意味が分からず、ルフトは顔を上げて、誰かを視界に収めた。そこに居たのは年の頃は20歳ハタチ前後だろうか。ひょろりと背の高い、少しばかり目の細い青年だった。擦り切れて色の落ちた麻のチュニックにズボン。どこにでもいる船乗りに見えた。青年は膝を曲げてルフトと視線の高さを合わせた。


「旧市街を案内できる誰かを探しているんだ。君でもいいし、無理ならできる誰かを紹介してくれてもいい」


 ルフトはわざわざ媚びへつらうような口調はしなくていいな、と判断した。


「案内の程度にもよるよ。旧市街のことを全部知り尽くしている人なんてどこにもいない。知っている範囲を案内ならできる。でも銅貨1枚じゃ割に合わない」


「もちろん案内の報酬は別に渡すよ」


 青年はそう言ってルフトの手にピカピカの銀貨を1枚握らせた。


「これは前金だ。僕が満足できる案内ができれば追加の報酬も考える」


 ルフトは銀貨を素早く懐に収めて、周りを見回した。衛兵も来てなければ、ファミリアの見回りもいない。2人の会話に耳をそばだてている誰かがいるわけでもなさそうだ。ルフトは銅貨が数枚入ったお椀も回収して立ち上がる。青年を促して旧市街に向けて歩き出した。


「旧市街に何の用事? 阿片アヘンが目的ならもうちょっと用心深くやったほうがいい」


「そんな風に見える? 傷つくなあ。純粋に好奇心だよ。噂の迷宮街とやらを体験してみたいんだ。僕はアルノー。君は?」


「……ルフト」


「失礼、通り名かい?」


 そういう反応には慣れているとは言え、あまり良い気のするものではない。しかしルフトというのが人の名前でないことは事実だ。ついでに言えば女性名詞ですらある。


「両親がそう呼んでいたのを通り名というのならね。ついでに勘違いを正しておくと俺は男だ」


「そっか。家庭の事情とかも色々あるよね。まあ、僕としては君が男でも女でも案内さえちゃんとしてくれるなら構わない」


「で、具体的には? 本当に簡単体験コースなら旧市街にちょいと入れば十分。それでも町の人間じゃないと迷うだろうけれど」


「もうちょっと詳しくお願いしたいな」


「分かった。旧市街の歴史については?」


「いいや、さっぱりだよ。何も知らずに入ったら生きては出てこられないということくらい」


「アルノーさんは船乗りだよな。ということはシュタインシュタット周辺の風の流れについては知ってるだろ?」


「まあ、一応は」


「じゃあそこは省いて、今から60年くらい前だね、浮遊船ヴァルヌスがボイラーの故障で航行不能になって、ここに流れ着いたのがすべての始まり。その後はキルシェ、カスタニエ、プファラオメ、アプフェルと続くんだけど、このアプフェルの航海日誌に『石造りの町シュタインシュタットがある』と書かれていて、それが町の名前になった、ということになってる。けど、今だと諸説あるみたいだね。それからしばらくは漂着船に事欠かなかったらしいんだけど、しばらくすると故障の多かったボイラーの改良が進んで、故障した浮遊船が漂着することもなくなった。40年くらい前にドロッセルって王国の軍艦が故障することなくシュタインシュタットを発見して、国に報告。30年くらい前に王国に併合。無事王国最東南の領地になったんだ」


「それが王国有数の鉄の産地になるとはね」


「正確にはエーテル鉄って言って、エーテル海注2下で無いと採れないんだ。普通の鉄より硬くて加工しにくいけど、防具を作るには向いてるだろ。今では町の住人の四分の一が鉱夫さ。アルノーさんは鉱石運搬船の船乗りじゃないね」


「どうしてそう思うんだい?」


「鉄とエーテル鉄の区別がついていないようだったから。エーテル鉄が採れるからシュタインシュタットは辺境なのに価値があるんだ。普通の鉄だったら見向きもされない。鉱石運搬船の船乗りなら分かってる」


「なるほどね。当たってるよ」


「王国に併合されてから旧市街は棄てられた。新市街が整備されて、殆どの人はそちらに移り住んだ。それでも旧市街から完全に人が居なくなることは無かった。王国から派遣された領主に従うことを良しとしない人々が反抗勢力として旧市街に潜んだ。だけど蜂起は現実的じゃ無い。シュタインシュタットはエーテル海の孤島だ。自給自足はできないことはないけど、難しい。だから反抗勢力は革命分子ではなく、単なる互助組織として再編されていった。それが今のファミリアだ。旧市街に足を踏み入れるということはファミリアの流儀に従うということでもある。覚悟はいい?」


貧民窟スラムみたいなもの、という認識で構わないかな?」


「他の町を知らないからなんとも。旧市街は旧市街だ」


「分かった。行こう」


 新市街と旧市街の境目は城壁などによって遮られているわけではない。道さえあれば何処からでも入ることができる。なんなら道が無くとも屋根や、あるいはいきなり窓から建物に入り込むということもあるかも知れない。通れるなら何処でも通るのが旧市街の住民だ。

 だがルフトはアルノーがそうは思わないだろうことも分かっていた。案内人を務めるのはこれが初めてではない。旧市街を歩いてみたいという酔狂な人間は結構いるのだ。


「もう同じ道を戻れる気がしないな」


 旧市街に入って5分も経たないうちにアルノーがそう呟いた。


「そう言う割りには余裕があるね」


「同じ道を戻れる気はしないけど、方角までは見失っていないからね。太陽は見えないけど、影の向きで方角は分かるよ」


「流石は船乗り」


 ルフトは素直に感心した。それはアルノーが方角を見失っていないというだけでなく、旧市街に入っても物怖じしていないからだ。

 新市街と旧市街では何もかもが違う。

 人の数。

 道の幅。

 ゴミの量。

 落書きの数。

 道ばたに座り込んで唸り声を上げている阿片中毒者なんかは旧市街でしか見られない。

 一般市民であれば腰が引けても仕方がない。そしてその怯えは捕食者に簡単に察知される。

 捕食者と被捕食者を決めるのは肉体的な強さだけではない。もしそうであればルフトが旧市街で生きていける道理が無い。例え肉体的に弱者でも必死に反撃してくる相手を捕食者は攻撃しようとはしない。例え最終的に相手を暴力で屈服できるのだとしても、自分が怪我をしては意味が無いからだ。指の一本でも噛み千切られれば一生不利を背負うことになる。だから捕食者が攻撃するのは反撃する気持ちの強さが無い相手ということになる。そう言う意味でアルノーは被捕食者ではない。


「実際に旧市街を歩いてみた感想はどう?」


「場所に依るとは言え道幅の狭さに驚いたね。馬車どころか荷車すら通れそうに無い。物を運ぶのは完全に人力かい?」


「そうだね。牛や驢馬は王国に編入後に輸入されてきたもので、シュタインシュタットに元々居た動物じゃない。旧市街では考慮の範囲外だよ」


「そうか、例えば旧市街を西から東に抜けるとして、どれくらいの時間がかかるんだい?」


「うーん、やったこと無いから分からないな。正直に言うと、そんなことをする意味が無い。旧市街をぐるっと迂回して行ったほうがずっと早いから。それにそもそも西から東へ道が繋がっているかと言われると微妙だな」


「なるほどなあ」


 アルノーは得心が行ったとばかりにうんうんと頷く。今の会話にそんな要素があったのだろうかとルフトは不思議に思ったが、深く考えることもしなかった。


「ねぇ、ルフトくん。君は旧市街の宿を紹介できるかな?」


「宿? 旧市街に宿は無いよ。でも空いている部屋なら紹介できると思う」


 旧市街で客が寝泊まりするなど正気の沙汰では無い。腹を空かせた獣の前に生肉を用意するようなものだ。翌朝に命があれば儲けものということになる。……なるが、別にそのことを指摘したところでルフトの懐に金が入るわけでも無い。逆にカスパーに客を紹介すれば手数料の一部くらいはもらえるだろう。ルフトにしてみれば考慮の必要すら無いことだ。ネギを背負ったカモがいるのだから、美味しく頂かなければ罪というものだ。



注1 エーテルに浮かぶ性質を持った浮遊遺物に艤装を施した船のこと。エーテルは無色透明なため、そこに浮かぶ船は浮いているように見えることから。

注2 大地に満ちた神による祝福の息吹。つまりエーテルの海。下層世界を満たし、魔物をその中に封じている、と言われている。

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