四杯目 金魚玉のこと

 これは川野が口走った四つ目の怪談である。川野は水を吐き出し、その言葉が少し聞き取りやすくなってきた。息が荒く、まだ判別のつかない箇所がある。


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 江戸の夏には金魚がよい。夏の盛りには金魚売きんぎょうりが繰り出して人々に甲高い声を聞かせる。


 私は日ごろ余計なものを買わないと決めていたが、売り口上こうじょうが巧みで奉行所勤めの帰りなんかについつい金魚を買ってしまうことがあった。


 金魚玉は金魚を買うともらえる、ぎやまん(ガラス)で作られた玉である。

 これに金魚と水を入れ、中に竹串を引っ掛け、そこに糸をくくると吊り下げることができるようになる。

 金魚を買って家に帰ると、よく軒先に金魚玉を吊るしたものだった。


 あれは明和の終わり頃であったか。


 早めに仕事を終えて帰宅した私は、道中に買ってきた金魚を軒先に吊るして眺めていた。まだ夕刻という時間ではなく暑さに難儀したが金魚玉を見ると何となく涼しげな気分になったものだった。


 この日買ってきた金魚は大人しく、玉の中でじっとしている。珍しいので私は金魚の顔を正面から覗き込んだりしてみた。への字口で狭い金魚玉に不満そうな表情をしている。


 金魚玉の表面には私の顔が反射して映っていた。湾曲して横に広がった顔は魚に似ている。それが面白く感じられて自分の顔が金魚の顔にぴったり重ならないか試してみた。


 そんな遊びをしているうちに、何故か体が軽くなった。足が地に付いていないような感覚に襲われる。

 思わず声を上げそうになるが口の中に水が入り遮られた。どういうわけか水中にいる。浮き上がろうとしても手足の感覚が無い。


 もがきながら前を見ると私自身が私を見ていた。巨大な顔を近づけたり遠ざけたりしている。


 そしてようやく気が付いた。私は金魚になっていた。訳が分からないが、魂だけ移ってしまったようであった。

 

 水を飲みこんで息ができることを確認する。ひれを動かみる。いろいろと試してなんとか一所ひとところに留まることができた。


 外に目を向けると巨大な私が金魚玉で遊ぶのをやめて転寝うたたねを始めていた。日が高いうちから呑気なものであった。

 

 金魚の私はどうすれば元に戻れるのか見当もつかず、自分の尾鰭おひれを追い回したり水面から顔を出したりして時間を潰した。

 外の私がもう一度金魚玉を覗き込めば元に戻れるかもしれないという一縷いちるの望みにかけていたのであった。




 日が傾きかけても外の私は寝入ったままであった。暑さが引き、庭から涼風が入ってくる。その風に吹かれて金魚玉が少し揺れた。


 ここで私は身に差し迫った危機に恐怖した。以前、金魚玉を軒先に吊るしていたときに強風に吹かれ、上部が割れて落下させてしまったことがあった。

 そのときは私がすぐそばにいて金魚は事なきを得たが頼りの自分は熟睡している。


 金魚玉の中で私は風が吹かないことを祈りながら身動きせずにひたすら待つことにした。目を閉じたかったが生憎あいにく、魚にはまぶたがない。今や恐怖の対象となった畳から目を逸らしながら薄闇に浮いていた。


 しばらくして完全に日が落ち切った。室内は闇に包まれ寝ている私も、金魚玉に揺れ漂う私も見えなくなった。いつもなら聞こえるはずの雑踏ざっとう喧噪けんそうも無く、ときの流れも曖昧になっていった。





 気づけば水が引いていた。周囲は依然として暗いままだが僅かに月の光が差していた。いつの間にか畳に臥している。久しぶりに息を吸った。


 私の魂は金魚から抜け出て元の身体に戻っていた。急いで軒先に目を向ける。暗闇の中に丸い輪郭が見えた。

 燭台に火をともし、再び金魚玉を見る。明りに照らされた金魚は驚くことも無く悠遊と泳いでいる。風に怯えていた私と違って随分と図太いものだった。


 間を置かず金魚玉を軒から下し、大きな水桶に金魚を放してやった。あの恐怖を味わってなお、金魚を吊るしておくほど私が心無い人間ではなかった。


 あの日の金魚は手厚く育てられている。今では丸々と玄関前の水桶で肥え太り巨大魚のようである。

 近所では商売繁盛のご利益りやくがあると思われて道行く人が餌を与え、ますます大きくなっていく。

 いつか私と同じ大きさになったとき、また魂が乗り移ってしまうのではないかと密かに危惧している。

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【短編集】穢土日記 羅仙 敬 @RasenKei

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