二杯目 流行り酒のこと

 これは川野から聞いた二つ目の怪談である。口に含んだ水は吐き出したようだが、歯茎がふやけたらしく滑舌がまわっていない。これまた聞き取りにくい。


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 昔、祖父が酒のことについて教えてくれた。

 

 江戸で飲まれる酒の過半はくだざけである。特に摂泉十二郷せっせんじゅうにごうのものは評判がよく、酒好きであればこぞって求める逸品であった。


※下り酒…上方かみがたで作られて江戸に運ばれて飲まれる酒のこと

※摂泉十二郷…酒蔵さかぐらが集中していた大坂・伝法・北在・池田・伊丹・尼崎・西宮・今津・兵庫・上灘・下灘・堺の十二地域



 江戸や東国にも酒蔵はあったが、下り酒の味に匹敵するものは少なかった。


 しかし宝永ほうえいの頃、江戸の酒が評判になった。酒銘しゅめい霧玄むくろと言い、小さなつく酒屋ざかやかもしている酒であった。


※造り酒屋…酒を醸造して売る店

※醸す…穀類をこうじにし、水を加えて、酒・醬油などを作ること



 酒好きであった祖父は霧玄むくろをよく買って飲んでいた。なんでも下り酒に比べて独特のクセと香りがあり、さかな要らずの酒であったという。


 そのうち人づてに霧玄むくろの評判が広がっていき、江戸の下町で大いに流行るようになった。

 この酒は小さな酒屋が作っていたために出回る量が少なく、たちまち値上がりを起こして入手が難しくなっていった。



 霧玄むくろが評判になってから二月ふたつきほど経った。

 祖父は墓参りへ行くこととなった。彼岸にはまだ早かったが菩提寺から帰る道すがら、霧玄むくろを作っている酒屋に立ち寄ろうという魂胆があったのである。


 道中の暑さに耐えながら、帰りの酒を楽しみにしていた祖父が菩提寺に着くとなにやら騒ぎになっている。


 無縁墓が荒らされていた、というのである。もはや供養する者のいない無縁仏を暴いたところで金目のものがあるわけでもなし、奇妙なことであった。


 墓参りを済ませ、住職と法事の話などをして祖父は帰途についた。既に昼過ぎであり、日暮れまで幾ばくもないという時間になっていた。


 足早に歩を進め、霧玄むくろを作っている酒屋へ向かった。菩提寺の近隣にあるこの酒屋は店名をあくつと言い、街道沿いで細々と酒を売っていた。

 店構えはあばら家と言っても過言ではないほど粗末であった。


 あくつは店先に人を立たせて、酒を売っていると祖父は聞いていた。いざ店に着いたところ誰もいない。暖簾こそ出ているがなぜか人気ひとけが無かった。


 帰路を急いでいた祖父は店の裏へ回った。裏手の戸が少し開いており、中からはかすかだが物音が聞こえてくる。店主に声を掛けようとした祖父は開いている戸から顔を出し、中を覗いた。


 薄暗い店の中では店主らしき男が下を向き、黙々と徳利とっくりに酒を注いでいた。祖父がいる戸の近くには蓋の開いた酒樽さかだるがあった。


 霧玄むくろの味には何か秘密があるのではないか、以前からそう考えていた祖父はつい酒樽を覗き込んだ。


 酒樽の底はなにやら黄土色の球や棒、何かの欠片に満ちていた。暗闇に目が慣れてくるとそれらが何であるか、祖父は理解した。


 人骨であった。髑髏どくろ肋骨あばらぼね仙骨せんこつ背骨せぼね脛骨けいこつ、そして無数の骨片……。


 豪気な祖父もこのときばかりは、恐怖と驚きのあまり叫び声を上げた。危うく腰を抜かしそうになるが足を踏ん張り顔を上げた。


 店主がこちらを見ていた。濁ったまなこ、顔を覆うどす黒い斑点。死人のようであった。


 もはや声すら上げられず、祖父は一目散に家へと走り、布団に潜り込んだ。



 ほどなくして霧玄むくろは江戸の町から姿を消した。酒を作っていたあくつも忽然と消え失せ、行方をくらませた。

 江戸の人々は惜しんだが、下り酒の新しい銘酒が流行りだし、やがて霧玄むくろの名を忘れていった。


 この一軒以降、祖父は下戸となり川野家は分家を含めて代々だいだい酒を飲まなくなったという。


 霧玄むくろの話をするたびに、あれは亡者がかもした穢土えどの酒だ、と祖父は繰り返していた。


 あの流行り酒が何であったのか、今となっては確かめようもない。





 

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