穢土の死に水

一杯目 枯れ井戸のこと

 これは川野かわの土座衛門どざえもんから聞いた一つ目の怪談である。川野は口に水でも含んでいるのか言葉の聞き取りがひどく困難であった。

 

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元禄げんろくの頃であっただろうか、とある貧しい長屋に井戸が二つあった。一つは長屋の住民が使っており、もう一つは枯れ井戸であった。

 枯れ井戸は小さな穴の開いた蓋で閉じられ、さらに釘が打ち付けられていた。住民の多くは特に気にも留めずに暮らしていた。


 人助じんすけは枯れ井戸に興味を持つ数少ない住民の一人で長屋では新参者であった。その日、人助は夜四つに寄席から帰ってきた。長屋の住民のほとんどが就寝している時間であり、物音など聞こえないはずであった。

 だがぴちゃり、ぴちゃりと肉を噛んでいるような水音が聞こえた。不審に思って人助は外へ出た。音は枯れ井戸からしているらしかった。


 日頃から枯れ井戸に何かあるのだろうと思っていた人助は枯れ井戸の秘密を暴いてやろうと足音を殺して音のする方へ近づいていった。

 枯れ井戸の蓋の穴からは微かに光と菜種なたね油を燃やす臭いが漏れていた。人助は蓋に顔を近づけて小さな穴から中を覗き見た。


 するとあまり大きくない人間の子供のようなものが見えた。一体なんなのか、そう思って見ているとその子供の口元からごりごりと何かをすりつぶす音が聞こえてきた。


 少し肝を冷やしながら、人助は「おーい、何をやってんだ」と話しかけた。

子供は体をびくりと震わせ恐る恐る、口元から鼻の上までどす黒い血に染まった顔を人助へと向けた。

 それを見て人助は飛び上がり、すぐさま自分の寝床へ潜り込んで朝まで震えていた。



 夜が明けて、人助は長屋の住人に枯れ井戸の子供のことを話した。しかし誰も信じようとせず、人吉を狂人だと思ったのか冷たい眼を向けてきた。

 そこでこのことを私のもとへ相談しに来たのだった。私は長屋の子供が隠れ家にでもしているのだろうと真面目に取り合わず人助から一通り話を聞いた後、面白い話の礼として小粒銀を渡して長屋に帰した。


 それからほどなくして人助が長屋を去ったということをそこの住人から聞かされた。おそらく枯れ井戸の一件できもを冷やして引っ越したのだろう。

 その後の人助の行方を調べてはみたが全く分からなかった。十年も前の話で、今でもその長屋では新参の住民が神隠しのように長屋を去ってしまうことが多いと聞いている。



※枯れ井戸…水が出なくなった井戸のこと


※夜四つ…午後十時頃

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