第十三章 式典(前編)
リューリィが目を開けたとき、視界を大きく占めていたのはテオーリアの顔だった。
少しずつはっきりしてくる頭で、彼女はそれを認識する。
……だがある程度はっきりしたところで、逆にそれが本物のテオーリアに感じられなくなった。かつて見たこともない、悲しい表情をしていたからだ。
常日頃、凛として動じることのない皇女は、目の端に涙を溜め、唇を隠すこともなくわななかせていた。
「リューリィ」とテオーリアは呼びかけてきた。「余がわかるか?」
「……はい」とリューリィは答え、それから自分が横になっていることに意識が向き、体を起こそうとした。殿下の前で自分だけ寝ているなど、とんでもないことだ。
しかしテオーリアにそれを止められた。
「起きなくていい、そのまま休んでいてくれ」
リューリィはそれを命令と受け取り、その通りにする。
程なくして意識は完全に覚醒し、頭の中でしっかりと文脈が繋がった。
天井を見る。来たことのある部屋かはわからないが、大まかにここが慣れ親しんだ場所であることははっきりとわかった。
「ここは、皇城ですか」
「そうだ。もう大丈夫だ」
「殿下――私は」
「すまない」とテオーリアは謝罪の言葉を口にした。そしてそれが合図であったかのように、彼女の目元に溜まっていた涙が流れ出し、頬を伝っていった。「やはり無茶な命令であったのだ。そのせいで……こんなに酷い目に……」
「申し訳ありません」気づいたときには口が勝手にそう言っていた。「しくじりました。刺客を発見し、追跡していたのですが……」
「お願いだ、そなたは謝らないでくれ」テオーリアは涙声で言った。
リューリィは沈黙する。そして白蛇とのやり取りを思い返す。
私は……同じ相手に、一晩で二度敗れたのだ。能力と策略に敗れ、そして襲いかかる快楽に敗れ――そのことを自らの口で認めさせられた。帝国の顔に泥を塗る、許されざる失態だ。
しかしあえて救いを挙げるのであれば……もう一つ敗れなくて本当に良かった。
もしあの真っ白い爆発に理性のすべてを崩され、国を捨てると宣言してしまっていたら――間違いなく白蛇は「完全なる勝利」を掲げ、私を操りにかかっていただろう。
そうなれば私は何に利用されていたかわからない。彼女は私を欲しがっていた。
にもかかわらずこうして救い出されているということは……恐らく白蛇は、覚醒している意識しか操ることができないのだ。私はあのとき、情けなくも気を失ったことで、結果的に帰還することができたということか。
その身に受けた甘い猛毒のような攻めが蘇る。
白蛇の手でなすがままに弄ばれ、そして彼女に操られた男達に狂ったように貫かれ……。それをテオーリアがどのように捉えているのかを理解するのに、想像力はほとんど必要としない。
個人的な苦痛や屈辱がないとは言わない。
でもそういうことよりも、テオーリアの命をまっとうできなかったことが、そしていま、こうしてテオーリアに涙を流させ、声を震えさせてしまっていることが――何よりもリューリィにとってつらいことだった。
それを拭い去るには、得たものをすべて活かさなければならない。
「白蛇の能力は、他人の意識と肉体を支配し、操ることです」とリューリィは言った。「彼女との戦闘と、その他の状況から判断する限り、操れる人数はそう多くはないでしょう。十人はいかないと思います。ただし一度支配した者のことは、恐らくそれなりに遠くからでも操ることができるものと私は推測します」
テオーリアは黙って聞いている。
リューリィは信頼している。皇女殿下はどれだけ感情を乱していても、それが先へ進むために必要な話となれば、極めて理性的に耳を傾けることができるお方だ、と。
だからそのまま話を続ける。
「白蛇が法王猊下ほか、国賓の方々を式典の最中にその手にかけるとしたら、自らがその場に突入するか、操った者に実行させるかのどちらかですが、前者はないと思います。式典には無数の人の眼がありますから――」
「魔人の能力は発揮されない、か」
テオーリアは指先で涙を拭いながら言った。……リューリィは強く頷く。
「しかし操っている者には、眼の制約はないのだと思います。ですからそうした者を、目標に手の届く――攻撃の届く範囲に置き、自分は隠れた位置から実行する。彼女がやろうとしているのはそういうことでしょう。そしてこれも重要なことですが、彼女に操られている者の身体能力は、常人のそれを超えています」
「……広場に入れる民には、いちおうの持ち物検査を行う手筈になっている」とテオーリアは言った。「しかし、生身が強力な武器となり得るのであれば、それもあまり関係なくなってしまうな。あとは――もっと確実なのは、武器を持つことを許された者を操ること、か」
「はい。例えば近衛兵の方々などを」
「しかしそのような者達を操る機会があるだろうか?」
リューリィは少しのあいだ考える。
……魔人の力の発動を感じたのは、あのときの一回だけである。恐らくそのときに、テトラとハキルがあの蛇に咬まれ、操り人形となったのだ。
目的は、自分を誘い出すことの他に――土地勘のある者から町の記憶を読み取ることもあったのではないか。
残りの者は、エルグランの外から連れてきたのだろう。彼らに関しては、咬んだのも、ついて来るよう命じたのも、自分が捕捉できる範囲の外のことだったはず。そういう操り人形が、あの場にいた五人の他にもいるだろうか?
いや、たぶんいない。
白蛇は自分と対峙するにあたって、全力を注ぎ込んだはずだ。
「私の他にいた――七人の方々は、どうなりましたか?」
「そなたと同じように救出した……と言いたいところだが、素性のわからぬ者達であったからな。とりあえずこの皇城に連行した。……ああ、衛士の装備が一揃いあったそうだが。いずれにせよ、いま頃は彼らも目覚めているかもしれぬ」
「一人、女性がいたはずですが、彼女は宝石亭の一人娘です。衛士の方はそのお友達で、ハキルさんといいます。少なくともこのお二人は、白蛇から解放されたなら害はありません」
「そうか、わかった。後でその旨伝え、白蛇の影響が認められなければすぐに帰そう」
リューリィはゆっくりと上半身を起こす。
「こら、そのまま寝ていろと申したはず――」
「もう大丈夫です。ご心配をおかけして本当に申し訳ありませんでした」リューリィは言い、ようやくいつもの目線でテオーリアと向き合った。「もし七人が白蛇から解放されているならば、逃亡後の白蛇は、能力を最大限に使うことができる状態だということになります。必ず新たな操り人形を得て、仕事に臨むことでしょう」
「しかしそれを実行すれば、そなたはすぐそれに気づくはず――ああ」
テオーリアは途中で言葉を止めた。リューリィの言わんとすることを理解したのだろう。
「そうです。私はいましがた意識を取り戻しました」
「すでに、駒を得ているかもしれないわけか……」
「私を助けて下さった方々は、殿下の近衛兵の皆さんですか?」
「ああ。できる限り内密に処理したかったので、そのような判断になった。といっても集団で城から出ていって、そなた達を連れて集団で戻ってきた以上、誰にも知られていないというわけにはいかないだろうが、父上を始め、他の誰にもあえては伝えておらぬ」
リューリィは考える。そのときには、あるいはもうすでに――。
「殿下」
「何だ?」
「今回のことは、本当に何の申し開きもできません。すべては私の力不足ゆえの結果です」
「リューリィ――」
「ですが」とリューリィはテオーリアの反論を制するように続けた。「もしお許し戴けるのであれば――私に汚名返上の機会を戴けませんか?」
リューリィは薄々勘づいていた。テオーリアが自分に与えた命令を解除し、他の者達のみで白蛇に立ち向かおうと考えていることを。
皇帝から一任されたも同然の魔人撃退の件を、自分達の力だけでは無理であると認め、その旨を皇帝に告げようとしていることを。
だがそれは、リューリィの失態を通して、テオーリアの評価を下げることに他ならない。そのことで少なからず、これからの帝国の為政におけるテオーリアの発言力が弱いものになるかもしれないのだ。
杞憂かもしれないが、その可能性が少しでもあるのなら――リューリィは引き下がるわけにはいかなかった。
「……リューリィ」ともう一度テオーリアは言った。「正直な気持ちを言おう。……此度、そなたが白蛇から受けた仕打ちは、ある意味では死よりも惨いことだと思っている。近衛の者達も、そなたを発見したときの様子を余に説明するのを、酷くためらっていた。余は、そなたが魔人を恐れ、二度と立ち向かいたくないと言い出したとしても、それは仕方のないことだと思いながら、そなたの目覚めるのを待っていた」
「殿下」とリューリィは返す。「このような言い方が殿下のお顔を曇らせることは承知しておりますが――私も正直なところを申し上げます。私の体は、とうの昔に清いものではなくなっております。四年のあいだ、私はあの男の玩具であり続けました。……そういったことについて、元より失うものは何もありません。私にとってはそのことよりも、殿下のお役に立てるか否かが重要なのです」
テオーリアの言い表しようのない複雑な瞳。それを甘んじて受け止めた上で、リューリィはこう切り出した。
「――私に一つ、考えがあります」
◆
翌朝。テトラは目覚めてからもしばらくのあいだ、ベッドから起き上がることなく、前夜の不思議な顛末について考えていた。
はっきりと繋がっているのは、ハキルと待ち合わせ、誕生日の贈り物を手渡し――さあこれから気持ちを伝えようと決心したところまでだ。
そこで何かが起こり、彼女はいったん、この世界から切り離された。
次に気がついたとき、ぼんやりした頭に飛び込んできたのは、まったく見慣れない天井だった。やけに遠いところにある天井だというのが、そのときの第一印象だった。
事態をまったく飲み込めないまま、何も考えずにとにかく体を起こすと、周囲からあからさまに恫喝する声が聞こえてきた。
「動くな!」
もちろんテトラにはわけがわからなかった。というより、それが自分に向けられた言葉であること自体、最初はわからなかった。
寝ぼけ眼のまま、テトラは声のしたほうに顔を向け、そこに兵士らしき人物が三人いるのを見た。
それから少しずつ頭の中が整理されていき――自分の置かれている状況が意味不明なものであることを、遅ればせながら認識するに至った。
「エルグランの者か?」と兵士は訊ねてきた。
「あ……はい」テトラは素直に答えた。恐れや義務感からではなく、単純に訊ねられたから答えたのだ。「宝石亭という酒場の娘で、テトラといいます」
それから少しのあいだ、何もせずおとなしくしていることを命じられた。
唯一教えられたのは、いまいる場所が皇城であるということだった。
それを聞いたテトラは奇妙な感覚に捕らわれた。何故自分が皇城にいるのかという疑問もさることながら、それと同じくらい、自分が皇城の中にいるという事実が不思議だったのだ。
皇城とは眺めるものであり、決して入るものではないと、物心ついた頃から当たり前のように考えてきた。それがこんなよくわからない流れによって終止符を打たれたのだ。
やがてべつの兵士が部屋に入ってきて、テトラを監視していた兵士達に何事かを伝達した。
兵士達は何やら納得したように頷くと、テトラのほうに向き直って、こう訊ねてきた。
「自分が自分でないような感覚はあるか?」
質問の意図を完全には飲み込めなかったが、いいえとテトラは答えた。言うまでもなく私は私だ。ただ、一連の記憶の途中に謎の空白があるだけだ。
それからテトラは、事の次第――と称する話を彼らから聞かされた。
それによると、テトラは皇城の近くに倒れているところを、通りすがりの衛士に発見されたらしい。
前祭の真っ最中であり、どこの者であるかが普段以上に明らかでなく、原因としても様々なものが考えられるため、テトラの身の安全と治安の維持、双方の観点から、慎重を期すかたちで皇城に連行したとのことだった。
テトラが名乗った身元は何らかのかたちで証明されたらしく、話が終わると彼女はすぐに解放された。
すでに夜も遅くなっていたため、女の一人歩きは危険だとして、衛士が一人、宝石亭までついてきてくれさえした。
一向に帰らないテトラの身を案じていた両親に対しても、その衛士が説明をしてくれた。テトラが受けたのとまったく同じ説明を。
そして改めて自分のベッドで眠り、朝がやって来て目が覚めたわけだが――。
テトラは納得できていなかった。恐らく説明した側も承知の上なのだろうが、あまりにも話に穴がありすぎる。
ハキルと待ち合わせた場所は、皇城からはそれなりに離れていた。それでどうして、皇城の近くに倒れていなければならないのか。
突然意識を失った私を、ハキルが皇城まで連れていってそこに置き去りにした? ……いやまさか。あるいは突然おかしくなった私は、ハキルを置いて皇城まで向かい、そこで意識を失った? ……それも無茶な話だ。
とにかく、肝心なところが何も解決していない。とても不確かな出来事で、とても気持ちが悪かった。
ただ、一つだけはっきりしていることがあった。
……結局、ハキルには想いを伝えることはできず、彼の誕生日をこれまでの関係のまま通り過ぎてしまったということだ。
そう、いろいろ腑に落ちないが、自分にとって昨夜のことでいちばん肝心なのはその事実だ。
はあー、とテトラは深い溜め息をついた。
駄目だな、私。やっぱり信心が足りなくて、神様に見放されているのかな。
――今日は式典だ。宝石亭も休みを取り、さながら戦場のようであったこの三日間の激戦の疲れを癒やす。
そしてこれまで何とかやってこられたことを神に感謝すると同時に、これからの繁栄を……そして余裕があれば、次の一〇〇〇年を人々がうまくこなしていけることを、祈るのだ。
そして明日が来たら、また何事もなかったかのように店は開かれる。
何事もなかったかのように。
……お祈りしよう。テトラはそう思い、ベッドから出て着替えを始めた。
いまになって急に信心深いふりをしたって、神様を騙せるとはとても思えない。そういうのは日頃からの行いがものを言うのだということはわかっている。
でも、とにかく式典に出向いて、皆と一緒に神様を称えよう。
一世一代の挑戦がよくわからないままふわふわとどこかに飛んで消えてしまったいま、自分にできるのは、とりあえずそれくらいしかない。
次にハキルに会ったとき、どうするかは――それから考えよう。
式典は正午から始まる。
他の土地では、太陽が真南に至ることでその時刻を知ることができるが、エルグランではそのような方法を採ることはできない。
時計が正午を告げたときが正午なのだ。
不便なような、そうでないような、と思いながら、テトラは着替えを済ませる。何ということのない、普段の服装だ。昨夜はたくさん悩んだけれども、今日は簡単に。神様はたぶん、着ている服で何かを判断したりはしないだろう。
◆
体が凝り固まってしまいそうだ、と内心不満を漏らしながら、キロはその場所に潜伏し続けていた。
昨夜のうちに仕込みはすべて終えてある。あとは然るべきときにそれを実行に移すだけだ。
理想としては、金獅子に法王共を殺させることを考えていたのだが、それは叶わなかった。
しかし次善の段取りは整えることができた。事件としては多少地味なものになるが、まあ依頼はしっかり果たすことになる。
それを阻むものは何も見当たらなかったのだが――キロには潜伏という行為がどうにも苦痛だった。
彼女の落ち着きのない性格に合わなかったし、どこか人間に迎合してやっているように感じられたからだ。
――早く進めてしまえ。何をもったいぶって音楽など鳴らしているんだ。
すでに正午を過ぎ、式典は開始されていた。
そのだいぶ前に、皇城前広場はすでに虫一匹挟み込む隙間もないのではないかというほど人で埋め尽くされ、始めのうちは世界のどこでもそうそうお目にかかれないであろう喧騒に満ちていた。
何かが一つ間違ったほうに転がったら、そのまま大事故が起きかねない密度。警備をする者達の気が気でなさは容易に想像することができた。
それを鎮めるように、恐らくは正午ちょうど、太鼓の音が大きく鳴った。
それが意味するところのわからぬ者、従うつもりのない者は、公式的にはこの場にはいない。
皆が一斉に物音を消し去った。これだけの人数で無音というものをかたちにしてみせたのは、たいした信心だとキロも思った。滑稽だとも思ったが。
それから進行役の者が皆の前に姿を現し、式典の開始を高らかに告げた。
――大歓声。
今度はそれが自然に収まるまでたっぷりと時間が設けられた。
その後、皇帝エルハディオ七世による、短く一見して謙虚だが明らかに誇らしげな主催者としての言葉があり、国賓一人一人による、キロには掴みどころのわからない祝辞があり――それからこの音楽が始まったのだ。
いちおう彼女は曲名を知っていた。確か『原初にして永遠なる聖言』といったか。
ミロアが受け取った神の言葉の偉大さが奏でられ、唱われるのだが、これが極めて長い。演奏する人間も真顔で聴いている人間も、ご苦労なことである。
そして何より、何の興味もないのにひたすら待たされているウチがいちばんご苦労様だ――キロはそんなことを考えながら、いまにも体から飛び出しそうな破壊衝動と戦っていた。
――その音楽が第二楽章を終え、残りおよそ半分となったちょうどそのとき。
キロの潜んでいる部屋の扉が音を立てて開き――何者かが入ってきた。
誰だ――キロが警戒したのは、その者が近づいてくる気配をまったく感じなかったからだった。
一般の警備兵にできることではない。
念を入れる意味で、キロはその身を物陰に隠していたし、気配も消していた。だからいま、互いに互いの気配はわからない状況だ。
ということは、相手に気づいているのはウチのほうだけということか……?
そう思った直後。その者は毅然とした少女の声で言った。
「そこにいるのはわかっています。出てきて下さい――白蛇」
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