第十一章 前祭(中編)

 町外れに佇む、いまはもう動いていない古い時計塔から、リューリィは町の様子を一人静かに窺っていた。

 もちろん研ぎ澄ませていたのは目と耳だけではない。彼女は町に溢れ返る人々の気の流れを監視し続けていたのだ。

 エルグランにいるすべての人間の行動を把握できるとまではいかなかったが、少なくとも町のすべてが彼女の感覚の届く範疇であった。その中で魔人が力を使ったならば、その者がどこにいてもほぼ正確に位置を捕捉することができる。


 肘上、膝上までの、夏の村娘が着るようなひらひらとした服。しかしその髪の色と同じく、すべてが漆黒。長めの後ろ髪は首の後ろ、中程、先端の三ヶ所で束ねている。

 魔人として仕事をするときの、リューリィのいつもの恰好だ。

 そして足元は裸足。

 魔人の力で駆けるときには気を放って大地を蹴るから、靴はあってもなくても変わらない。

 彼女は裸足でいることを好んだ。故郷にいたとき、ボルギルに捕らわれていたとき――良くも悪くも、彼女は人生の下地となる時間をずっと裸足で過ごしてきたのだ。だからその状態がもっとも自然体で、もっとも力を発揮できるものであるように彼女には感じられた。


 リューリィは改めて式典のことを考える。

 ――自分だったら、法王猊下やその他の国賓の方々をどう殺すだろう?


 式典は皇城前広場で行われる。法王キゲイロ三世を始め、何人もの要人がそこで様々な演説を行う段取りになっている。

 帝国にこの上なく強い恥をかかせたいなら、そのときが狙われるはずだ。

 しかし魔人の力は多数の人の眼のあるところでは発揮できない。広場の群衆に紛れ込んだところで、魔人としてできることはない。

 当然、広場に入る前に最低限の検査は行われるから、仰々しい武器を持ち込むことも不可能だ。


 どう殺すか。

 結局のところ、魔人ごとの能力次第になるが、自分だったらたぶん、遥か遠くから持てる限りの力を込めて、目標のいる場を丸ごとすべて「薙ぎ払う」だろう、とリューリィは考える。

 しかしそういう種類の力はいまのところ彼女以外には確認されていない。他の魔人の力は彼女ほど直接的な攻撃に特化されていないようなのだ。

 だから――あくまでも推測の域を出ないが――刺客は何らかの搦め手を使ってくるはずである。そしてその仕込みを前日までに行う可能性は十分にある。


 そう考えて、この三日間ずっと、普段以上に町の気の様子に意識を傾けていたのだが、これまでのところ魔人の力が使われたことは一度も確認できなかった。

 これはつまり、相手の力は準備を必要としないものなのか、それとも――。


 ――そう思ったときだった。

 町のとある一角で、確かに魔人の力らしきものが放たれたのを、リューリィは感じ取った。


 来た――。

 リューリィは時計塔の裏に回り込み、そこから人の眼を避けるようして、多少の迂回をしながらその場所へと駆け出した。

 道を貫き、壁を蹴り、屋根から屋根へと飛び移る。

 日も暮れようとしている時間だったから、もし彼女の姿を目にする者がいても、その姿を正確に捕らえることはできなかっただろう。それは人間にはありえない速さだった。


 魔人が力を使うと、しばらくのあいだ「残り香」がある。気配を消すことはできるかもしれないが、その残り香を消すことは決してできない。

 だから一回でも力を使えば、それっきり忍んでいたとしても追跡し損なうことは決してない。逃しはしない。


 ……だが、状況はリューリィの気構えとは逆の方向へ進もうとしていた。

 魔人の力は放たれたままの状態を維持し、その主は彼女とほぼ同じ速さで移動を始めたのだ。逃げている――のでは恐らくない。


 ――私を誘っている?


 やがて力の発信源がどこへ向かおうとしているのかをリューリィは特定する。

 それは偶然なのかそれとも意味があるのか、彼女の因縁の場所だった。

 ――旧ボルギル邸。ボルギル男爵が投獄され死亡してから、一家は離散し、屋敷だけが現在に至るまで放置されている。魔人はその廃墟に向かって突き進んでいたのだ。

 そして力はそこで途絶えた。代わりに残り香を察知しながら後を追いかけ、幾らか遅れてからリューリィもその場所へと辿り着いた。


 ……屋敷の外観に対して思うところは特になかった。

 この場所を外から目にするのは、連れてこられたときと救出されたときに続いて、これが僅か三度めなのだから。ただ、幽閉されていたあの部屋を見たら、それなりに感情は揺れるかもしれない。


 名前のわからない草が伸び放題になった庭を通り抜け、扉を開ける。いかにも棄てられた場所という、気に障る音がした。

 中は暗い。エルグランでなかったらあるいは月や星の明かりがどこかから入り込むのかもしれないが、この町にはそれが期待できない。だから夕暮れの廃墟はとても暗かった。

 しかしリューリィにとっては――そして同じく相手にとっても――光が足りないことはあまり関係なかった。力を開放しているときは夜目が効くし、拠り所になるのは気である。


 魔人の残り香は――上階から漂ってくる。

 リューリィが意を決し、階段を上がろうとしたまさにそのとき。


 物陰から派手な音を立て、何者かが彼女めがけて飛びかかってきた。それも一人ではなく、べつべつのところから全部で――五人。

 少なからずリューリィは不意を突かれた。魔人は上にいる。そしてこの部屋には人の気は感じられなかった。となるとこの者達は、気配を消せる相当の手練か、さもなくば――。


 リューリィはいちばん最初に飛びかかってきた者に蹴りで応戦し、吹き飛ばす。

 殺すのは仕方のない場合に限ると決めていたから、力は抑えていたのだが――蹴りが相手に当たる瞬間、大きな違和感を覚えた。

 想定していたよりも力が出ていない。


 考える間もなく二人め、三人めと相まみえる。

 対処すべく身構えたとき、その者達の姿からリューリィは答を得た。

 首にかけている、そして手首に巻きつけている麻縄のようなものに、ごつごつとした石が幾つか結びつけられている。魔人として、その意味するところには瞬時に思い至ることができた。

 ネフェルマリンだ。どうやら原石のままで研磨もしていないようだが、魔人に対する効果にはまったく影響はない。


 この者達の戦闘能力とは関係なく――囲まれたら力を発揮できなくなってしまう。

 いや、そればかりか、もし幾つかの石に直接触れるようなことがあったら、身動きすることさえできなくなってしまう。


 ネフェルマリンに触れないように相手を蹴散らしながら、リューリィは判断する。

 この人達は戦闘の専門家ではない。でもどういうわけか、普通の人より体が強くなっている。……これが魔人の能力?

 いずれにせよ、相手にするよりは、直接上にいる魔人を叩いてしまったほうがいい。魔人の意識を奪ってしまえば、あとはどうにかなるはずだ。


 リューリィは五人全員を吹き飛ばしたところで、一目散に階段を駆け上がった。二階。そして三階――残り香にどんどん近づいているのがわかる。

 そしてとある部屋の扉を開くと……その奥に、長い白髪を左右で束ねた少女が待ち構えていた。カーテンは開け放たれており、窓から外が見える。しかしやはり部屋は暗い。


「結構どきどきしたでしょー?」とその少女はからかうように笑って言った。「ネフェルマリンにだけはお目にかかりたくないもんねえ、お互い」

「あなたが――刺客ですね?」

「当たり。って、まあ外しようもないか。そういうお前は、噂の金獅子――」


 それを聞き終わるより前に、リューリィは相手の足をめがけて――空間を、引っ掻いた。

 リューリィの手先から、弓のようなかたちをした黄金に輝く光が、相手めがけて放たれる。

 白髪の少女は慌てて跳躍し、その光を避ける。

 ……光は少女の向こう側の壁を大きな破壊音と共に砕き、その奥へと消えていった。


「……黄金の爪」と少女は呟いた。「凄いね。気を振り絞って守りを固めてても、あれじゃあ簡単に手足持っていかれる。わかりやすい能力だ……って」

 少女の言葉を待つことなく、リューリィは突進する。能力の正体ははっきりしないが、何であれ目の前の戦闘に全力を発揮することを求められているうちは、発動することもできないはずだ。


 少女は腰からナイフを抜き、応戦の構えを見せる。

 その懐にリューリィが飛び込み、静かだが激しい格闘戦が始まった。

 急所めがけて幾度となく繰り出される拳。相手を真っ二つに折らんとする膝。小さな竜巻のようなナイフと、それをすんでのところで躱す体捌き。

 黄金の光を放つ少女と純白の光を放つ少女は、舞い踊るかのように互いを削り合う。

 魔人の攻めは力も速さも通常人のそれを遥かに上回るが、守りもまた同様だ。従って魔人同士の戦いは、通常の戦いを極めて高速にしたような様相を呈する。


 互いにしか理解できない戦闘が続き――始めは探り合いだったものが、徐々にそれぞれの立場を把握した上での攻防に変化していく。

 格闘術の腕はほとんど変わりない。そして魔人の気による圧力はリューリィに軍配が上がるが、速度は少女のほうが勝っている。


 だがリューリィは焦りを感じていた。圧力の上回り方に比べて、速度の下回り方のほうが大きかったからだ。

 強力な攻撃も、当たらなければ意味がない。それに対して――先ほどから少女の攻撃は、致命的なものはないにせよ、少しずつリューリィに有効打を加えていた。

 それからもう一点。下の階でも感じたように、この部屋でもいつものような力が出ない。

 どこかにネフェルマリンが置かれているのか? だとしたら、現状の能力差はそのせいでもある。この少女は「それ」を知っているのか、それとも他に何らかの意図があるのか――。


 いずれにせよ、いまのこの競り合いは明らかに自分に不利だ。距離を置いて、「爪」による大打撃で戦闘不能に追い込むのが得策だろう――そう考えたリューリィは、ことさらに大袈裟な一撃を少女に向けて放ち、少女をある程度突き放すと、その反動を利用していったん後ろに飛び去った。

 今度こそ、腕か足を奪わせてもらう。


 ――だが、リューリィが必要な力を集めるよりも早く。

 少女はにいっと歪んだ笑みを浮かべ、音楽の転換を指示する指揮者のように腕を振った。

 それと同時に――背後からがたんという物音が聞こえた。

 慌ててリューリィは振り返る。両隅の物陰から、何かがリューリィめがけて飛びかかろうというところだった。先ほどの五人組とまったく同じやり口だ。


 ――この部屋にもいたのか。

 リューリィは「爪」のために集めていた力をいったん全身に戻し、その二つの人影に対応する。

 申し訳ありませんが、と彼女は考えた。非常事態です。あなた方には二度と動かないものになって戴きます。


 リューリィは二人の首から上を胴体から切り離すべく、手先の力を刃に変えて二つの人影を見据え――しかしそれを実行に移すより前に、その人影の子細を把握してしまい、驚愕のあまり目を見開いた。


 ――テトラさん。ハキルさん。


 その一瞬の迷いが、命運を分ける。

 テトラとハキルはリューリィに接触すると、明らかに普段とは異なる力で彼女を抱き締めた――いや、締めつけた。


 自分の力が急速に失われていくのをリューリィは感じた。

 二人と自分のあいだに、何かごつごつしたものがある。それが何であるのかはもはや考えるまでもない。

 リューリィは瞬間的に判断する。……恐らくは最後となるであろう力を右手に集め、二人に締めつけられたまま少女のほうへと振り返る。


「おっと、それは駄目だー」

 少女は余裕ありげに首をかしげる。

 リューリィは背後から二人に思い切り引きつけられた。もはやその力に抗うだけの力が足に入らない。

 彼女は仰向けに崩れ――そのまま前方に、すなわち天井に向かって、「爪」を放つ。その光は派手な音を立てて天井を砕き、そのまま部屋の外へと消えていった。


 床に倒されたリューリィの腹に、テトラが覆いかぶさる。

 そしてハキルがリューリィの左腕を手に取ると、自分の首から下げていたネフェルマリン付きの麻縄を外し、それで彼女の手首を縛った。

 同じようにして両の手首に巻いていたものをリューリィの足首に通し――ハキルは離れる。そしてテトラもまったく同じことをリューリィの右腕と足首に施し、立ち上がって数歩引き下がった。


 ……少女の目の前で、リューリィは両手足に封印を受け、身動きが取れなくなった。


「はい、勝負ありー」少女は歌うように言い、リューリィに近づいていく。「これでやっときちんと自己紹介ができるねー。ウチは……まあ名前は後でいいか。とにかく白蛇で通っている者だよ。いまさらだけど、初めまして、金獅子」

 リューリィは動揺した頭のまま、無表情を貫く。

「……ああ、なるほど」と少女――白蛇は独り言のように言った。「その二人、お友達なんだね。道理で変な間があると思った。二人が殺されてるあいだにお前に決めの一撃をくれてやるつもりだったのに、やたら良いほうにうまく事が運んだから驚いたよ」


 人間を――操る能力か。リューリィは把握する。そしていま、私に関する二人の記憶を読み取ってみせたのか。


「恐らくお前は単独で動くんだろうと思ってたから、それに合わせた計画を立てたんだ。魔人の中でもお前はとびっきり鼻が利くって聞いてたけど、本当だったねー。ウチがお前の力を察知できたときにはもうかなり近づかれてて、そこは凄いなと思ったよ、うん」

「私を……どうするつもりなのですか?」リューリィは白蛇から目を離さずに問う。


「もちろん殺さない。呪いがかかるから」と白蛇はナイフを振りながら答える。「で、お前はいまこう思ってるんだろうね。自分を操って何かをさせる気なんじゃないか、それが今回のウチの仕事の仕方なんじゃないか、ってさ。……まあ、半分当たりで、半分外れだ。ウチはね、金獅子。今回、法王だの何だのを殺すだけじゃなくて、お前を打ち負かしに来たんだよ。もうちょっと正確に言えば、屈服させ、ウチを認めさせに来た」


 白蛇はリューリィの足元まで近づくと、顔を覗き込むようにしゃがみ込んだ。

「まず訊いておこうか。……自分が負けたことを認めるか?」

 リューリィは答えない。無表情も崩さない。その態度が白蛇の感情にどう作用するかはわからなかったが。

 ふむ、と白蛇は言う。特に答を期待していたわけではない、という風に。

「じゃあ質問を変えよう。帝国を捨てて、ウチみたいに生きる気はないか?」

「あり得ません」リューリィは即答した。


「少しは考えてから答えて欲しいんだけどねー」白蛇は苦笑し、そしてその顔のまま、氷よりも冷たい瞳をリューリィに向ける。「じゃあ、もっときちんとしたかたちで、とことんまで屈服させるしかないね。それからまた同じことを訊く」


 白蛇はリューリィに乗りかかるような姿勢を取り、これ見よがしにナイフをかざし――それからそのナイフをリューリィの服の膝下に引っかけると、それを首のところまで、まっすぐに引き裂いていった。そして思い切りその切り口を広げる。

 自分の小ぶりな乳房と、うっすらと毛の生えた陰部が白蛇の前に露わになったことを感じ、リューリィはかすかに顔を赤らめた。しかし無表情は崩さない。


「これからどんなことをされるのか、まさかわからない歳でもないよねえ?」白蛇は試すように言った。「でもね、お前が考えていることはまたまた半分当たりで半分外れ。……お前はこれから、本当に物凄いものを味わうことになる。怖がる必要はないよ。とってもとっても良いものだからね――」


 白蛇は立ち上がるとそのまま後ろ向きに歩いて距離を置き、リューリィに向けてすっと手をかざす。

 その手は徐々に光を帯び、そして一匹の白い蛇が放たれ――避けることのできないリューリィの首筋に咬みつく。


 その途端、リューリィは体に奇妙な変化を感じた。

 痛みはない。操られそうな気配も――ない。でも……これはいったい何だ。体の奥から、おかしな熱と疼きが湧いてくる。これまでに体験したことのない何かが自分の体に起きようとしている。


 白蛇は再びリューリィに近づくと、然るべき温かみを伴っていない、偽りの微笑みを称えながらその裸体に身を寄せ――左の乳房の先端を、そっと指で撫で回した。


「はぁっ――んんっ!」

 思わずリューリィは声を上げてしまう。

 それは普通の感触ではなかった。自分で自分を慰めるときにも、かつてボルギルに弄ばれたときにもあり得なかった――尋常でない快楽。

「まあ、ウチはこういうこともできるわけだ」白蛇は微笑んだまま言った。「これからたっぷり良い思いをさせてあげる。お前の頭も体もとろとろに溶かしてあげる。そしてお前に気持ち良いと言わせて、国を捨てると言わせたら――ウチの完全なる勝利だ」


 ――そして陵辱が始まった。

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