第十章 前祭(前編)
前祭初日の夜明け前。エルグラン商工会議所には、客商売を生業とする者が百名を越えて集まっていた。直前の決起集会である。
商工会に属する者全員が一堂に会したわけではない。準備やその他もろもろの事情で来られなかった者もいるし、そもそもこういう顔合わせに積極的でない者もいる。
しかし夜明けを前にしてこれだけの数の人間が、損得に関係のないことで集まるのは並々ならぬ熱量の証であったし、事実皆の目はぎらぎらと燃え上がっていた。
これからの三日間、この者達は商売という名の戦をするようなものなのだ。何も剣や弓を手に取って互いの血を流し合うことばかりが戦ではない。
その熱を、エルクラークは全身で感じ取り、鼓動を高鳴らせていた。
もちろん良いことばかりを期待して浮かれるほど彼は楽観的ではない。向き合わなくてはならない数多の不安要素もまた同様に彼の頭を巡っていた。
興行として盛り上がることは約束されているが、問題はそれを捌き切ることができるかどうかだ。
寄り添う国が異なり、帝国への好悪が異なり、言語さえ異なる者達が、エルグランの民の数と同等かあるいはそれ以上に、雪崩のように押し寄せる。それで何事も起きずに終わるはずがない。どうしたって嘆かわしいことは起きるだろう。
しかしそこに諦観を持ちつつ、それを最小限に抑える努力をしなければならない。
そういったこともすべて含めて、エルクラークは高揚していたのだ。
「セフィ」と彼は傍らでいつものように佇むメイドに言った。「いよいよだな」
「はい」とセフィは落ち着いた口調でそれを受ける。「殿下は本当に素晴らしい尽力をなさってきました。その甲斐もあり、こうして皆が一致団結して、かつてない催しを実現する運びとなっております」
「余が未熟者なのは認める」とエルクラークは言う。「姉上から未だに幼い頃のままクックと呼ばれ続けているのも、愉快ではないが仕方のないところだ。皆には申し訳ないが、一人前になるにはもう少し時間を貰うことになる。……だが此度の前祭に際して、余にできることはすべてやってきた。その意味では悔いはない」
セフィは一つ大きく頷く。「殿下のお側でそのお働きを拝見させて戴きましたことを、光栄に思います」
「余は、少しは成長できたと思うか? 正直なところを申せ」
「殿下は日々、皇帝陛下にお近づきになっておられます。その上で――メイドの私ごときがこのようなことを言うのはおこがましいですが、お側でお仕えする者として発言することをお許し戴けるのであれば――殿下は此度の件で、いっそう高く雄々しく羽ばたかれたものと思っております」
「……真に受けるが、構わんか?」
「どうか私が殿下に対して正直者であることを信用なさって下さいませ」
「そうか」
エルクラークは安堵の微笑みを浮かべた。
それはまるで母親に褒められた幼子のようで、十四歳の少年の隠し切れない青臭さがあったが、そういうところが見え隠れする加減の絶妙さもまた、彼が人々を惹きつける理由の一つなのだった。
――がやがやと聞こえていた各人の雑談が、一斉に静まっていった。ウルリッドが皆の前に用意された壇上に立ったのだ。
「まだ暗いうちから、ご苦労様です」と冗談めかしてウルリッドは言った。「いつもこの時間に起きている者はまだいいが、そうでない者にはなかなかしんどいものがありますな。自分はまさしく後者なので、何でもない日だったらあくびを堪えきれないところです」
小さな笑いが商人達のあいだから聞こえてくる。
「しかし今日はやはりあくびなど出てくる気配もありません。この年寄りの血もこんな早朝とも言えないうちから沸々とたぎっております。――実のところ、この集会でいまさら皆さんに言うことはありません。仕事とは入念な準備で決まるところがあり、我々は今日までそれをたっぷりと時間をかけて行ってきました。あとはそれを本番で実行するのみです。あえてここで必要とされるものがあるとすれば……そう、激励でしょうか」
ウルリッドはそこで言葉を止め、横で聞いていたエルクラークに顔を向けた。
「ではその最初で最後の激励を、エルクラーク皇太子殿下にお願いしたいと思います。……殿下にお手間を取らせるのは心苦しいとも思ったのですが、自分はあくまで皆さんと同じ商売人の一人、どちらかと言えば皆さんと一緒に激励される側に回りたい次第でしてな」
そう言って笑いながら、ウルリッドは壇を降りていく。
代わりにエルクラークがやって来てそこに登り、その場にいる全員を一人一人確かめるように、ゆっくりと見渡した。
そしてたっぷりと間を置いてから口を開いた。
「余は、たかだか十四の若造である。人が生きることの何をわかっているのかと問い詰められれば、最後には答に窮するであろうし、ましてや深い経験がものを言う商いについてはまったくの素人。皆に与えることができたのは助成金などの計らいくらいのものであり、そしてそれは余の力ではない。余にできたのはせいぜい、皆の声を聞き、国の余りものを配ったことくらいだ。……だが、それを受け入れた上で、大きなことを言わせて貰いたい」
皆は黙って次の言葉を待つ。エルクラークは再び皆の顔を見渡し、続けた。
「此度の式典及び前祭は、帝国の威光をかけた祭事である。国とは統治する者によってのみ成り立つものではない。民が力強くその役割を果たしてこそ、強く逞しいものとなる。……皆の役割が何であるかは、いまさら余が口にするまでもない。ただ、その重要さについては、幾ら強調してもしすぎることはない。帝国にやって来る者達は、必ず皆のことを秤にかけるであろう。そしてそれが帝国の評判に繋がることもおおいにあるだろう。いわば皆は帝国の顔となるのだ。……だからどうか」
エルクラークはそこで言葉を止めた。そして燃えたぎる胸の内を、可能な限り穏やかな響きに込めて――こう締めくくった。
「――帝国を、よろしく頼む。以上だ」
商人達が一斉に雄叫びのような声を上げた。承諾であり、鼓舞であり、歓喜でもある雄叫びだ。
そして湧き起こる拍手。商人達は互いに顔を見合わせて言葉を交わす。やってやろうぜ、絶対成功させよう、神聖グランダリア帝国に栄光あれ――。
エルクラークはそれを見届けてから、静かに壇を降りた。そして脇に控えていたセフィの元へと戻り、ふう、と一つ息をついた。
「こんなものでよかったかな、セフィ」
「胸を打つお言葉でした」
「そうか」
エルクラークの思考は次へと向かう。
夜が明ければ、この町はかつてない活気に巻き込まれることになる。すでに前日のうちに衛士達の前でも同じように激励をしてきた。彼らは一足先に戦いを始めている。そして商人達。
これですべてが揃った。いよいよ本番だ。
――帝国にさらなる栄光を。
エルクラークは静かに目を閉じ、祈った。彼にとってもまた、戦が始まったことに他ならないのである。
◆
――その三日間、レスターはひたすらに人々の在りようを観察し続けた。
故郷を離れてエルグランにやって来たときも、いろいろと圧倒されたものである。
数多くの人間がいる。たくさんの種類の人間がいる。幅広い生き方があり、考え方がある。
レスターの故郷は決して寂れた町でも画一的に過ぎる町でもなかったはずだが、首都の大きさと広さ、深さは桁違いだった。
たくさんの本を読んで、頭では理解したつもりになっていたのだが、人は本当にたくさん生きていて、その生き方には本当に多様なかたちがあるのだ。それを思い知って、頭の中が丸ごと作り変えられたような気持ちになったのを覚えている。
しかし、そのエルグランもまた、人というものの一つの側面をかたちにした町に過ぎなかったのだ。
それを実感しないわけにはいかなかった。溢れんばかりの人、人、人。そしてそれら一人一人がみんな違う。本当に、まるっきり違う。
エルグランの中に、エルグランより大きな何かが詰め込まれたかのようだった。
レスターは決してエルグランを世界のすべてだと勘違いしていたわけではない。しかしやはり今回もまた、自分の頭の中の世界をいったん崩し、より大きく構築し直さなくてはならないようだった――こんなにも人はたくさんいて、それぞれ異なるものなのか。僕は世界を何度更新する必要があるのだろう。
そしてそれらがどうにか回っていることに感動しないわけにはいかなかった。
市場で小さな店が果物を売っている。そこに外からやって来たと思しき人物が現れて、並んだ果物の一つを手に取る。そして口にする言葉は――レスターにはまるで理解できない。どこの国で使われている言葉なのかもまったく判断がつかない。恐らくは店主にとってもそうだろう。
しかし客は言葉が通じないことをわかっているようで、店主の答を待たずに懐から革袋を取り出し、中から銅貨を一枚つまみ出す。
それを見た店主は、客が持っていたのと同じ種類の果物をもう一つ客に手渡し、それと引き換えに銅貨を受け取る。
それがどういう意味なのかを理解したのであろう客が、にこりと笑って再び異国の言葉を発し、去っていく。
ああ、とレスターは思った。通じる、というのは、とても奥の深いものなのだ。
彼は大通りの脇に陣取り、長いあいだ人々が行き交うのを眺めた。
どこか目的地に向かっているのが明らかである者と、歩くことそのものを目的としているのであろう者がいて、ゆっくり歩いている者と急いでいる者がいて、一人でいる者とそうでない者がいた。
いちばん大所帯だったのは九人組で、赤ん坊から老人まで一通りが揃っていた。一族でやってきたのだろう。
そしてそんな人々でごった返している中を、たびたび馬車が通っていった。普段より人が多いぶん、どの馬車も速度を落とし、慎重に人を縫うようにして進んでいく。レスターの目の前で四度ほど、周囲の喧騒に馬が怯んで立ち上がるということがあったが、幸いにも大事には至らなかった。
馴染みの広場でもレスターは熱心に人々の様子を追いかけた。
広場の中央には噴水があり、その大きさと作り込みの細かさは大陸でも屈指とされている。
その存在にすっかり慣れているレスターには、噴水の周りに集まる者達のうちどれがエルグランの人間でどれがそうでないかがはっきりとわかった。
けたたましく笑いながら追いかけっこをしていた子供達はここらの住人だ。いつもの遊び場がその様相をまるで変えてしまっていることに興奮している――その気持ちがありありと伝わってきた。
そんな彼らとすれ違った若い男女は、来訪者だろう。二人で手を組んで、物珍しそうに噴水の頂上を眺めながら何事かを話し合っていた。
広場の端の少し高くなったところには、そんな様子を細大漏らさず遺そうとするかのように、大きなキャンバスに向かって熱心に絵筆を動かしている初老の男性がいた。彼も住人だろう。恐らくこの広場がこのような姿を見せることはもう二度とあるまい――とまで思っているかはともかく、この前祭の時間を格好の機会と捉えているであろうことは容易に察しがついた。同じ創作を行う者として、その心躍る感覚はよくわかる。良いものが描けますように、とレスターは小さく祈っておいた。
それからエルグラン大聖堂へも足を運んだ。
三日間毎日、時間帯を変えて様子を見に行ったのだが、入り口付近には常に人が行列を成しており、とても落ち着いて内部の雰囲気を楽しめる状況ではなさそうだった。
恐らく彼らは荷物を運び入れるように順番に中に入れられ、決められた時間のみ祈りを捧げたら、すぐに外に追い出されるのだろう。
普段なら聞くことができるはずの説教などは行わない方針であると思われた。不満の声は当然出ているのだろうが、しかしそれ以外にこの人数を何とかする手段があるとも思えない。信徒達の寛容さに託すしかないところだろう。
違う意味でレスターが気の毒に思ったのは、日頃からこの大聖堂に通うことを日課にしている、敬虔なエルグランの信徒達だった。
彼らからすると、いつもの静謐な祈りを式典に妨げられたようなものなのだ。
その胸中は複雑であろうとレスターは想像し、どうか落ち着くべきところに気持ちが落ち着きますように、とやはり小さく祈っておいた。
――人間の渦。
かつてない活気。すれ違ったりぶつかったりを無数に繰り返す特別な日。
レスターの頭に、ある着想が浮かんだ。
そうだ、祝祭だ。
どこか架空の国の架空の町を舞台にした、祝祭についての物語はどうだろう。そこには同じ出来事に対して様々な立場をとる人々がいて、彼らの生き様が虹のように多彩な色を放つのだ。
物語は彼らのあいだを鳥のように飛び回り、光と闇を映し出し、そしてそこから一つの大きな問題を浮かび上がらせる。その問題が最終的に物語の主題となり、祝祭の締めくくりと共に解決される。
……うん。悪くない。
でもちょっとこの式典に似すぎているかな。細かいところをいろいろ変えないと、ただの観察記録と変わらない扱いを受けてしまうかもしれない。
それには――浮かび上がる問題をできるだけ大きくするのが良いか。それが起きたらせっかくの平穏が壊れてしまい、多くの民が厳しい暮らしを余儀なくされるような大問題を軸とするのだ。
そしてそれに立ち向かう神聖なるもの――。
そこまで考えて、ふとレスターの頭に不謹慎な発想が浮かんだ。
もし現実の式典でも大問題が起きてしまったら、この解決策もいまいち弱いものになってしまうかな、と。
いやいや、とレスターは苦笑しながら首を振る。
そういう不吉なことを考えては駄目だ。それに考えたところで、自分のような平民にできることなど何もない。
帝国の優秀な衛士や要人の護衛、皇家の近衛兵などが、護るべきものを護ってくれることを願い、この貴重な時間を享受することが、いま自分にできるすべてだ。
これを血肉として、やがて世の中に傑作を送り出すことこそ、自分が世の中に貢献する手段なのだ。
レスターは一つ大きく伸びをして、視野の中で息づく名も知らぬ人々に思いを馳せた。
この空間から学ぶべきことはまだたくさんある。僕の頭の中がぱんぱんになってしまうまで、さあ観察を続けよう。
人のかたちに限りがないなら、それを見つめることにも限りなんてないのだから。
◆
――三日めの夕暮れ。体力にはかなり自信のあったハキルだが、さすがに疲れを感じていることを認めないわけにはいかなかった。
おびただしい数の来訪者。
よくよく聞かされてはいたし覚悟も決めていたのだが、実際にそれを体験すると、やはりそこには想像しきれなかった過酷さがあった。
呑気に前祭を楽しんでいる一般の民ですら、その圧には多かれ少なかれ疲労感を抱くはずである。ましてや治安を維持する責務を負った衛士ともなれば、その身に降りかかるものは段違いに重かった。
昼ばかりでなく夜も衛士の活動時間であり、この三日間、ハキルはあまり眠っていなかった。衛士がどれだけいても、人手が足りるということはないのだ。
仕方のないことだが、好ましくないことも起こった。
ハキルが直接関わっただけでも、喧嘩が七件、盗みが十件(うち強盗一件)、迷子が八件、強姦未遂が一件。
聞くところによると殺人も三件報告されているらしかった。不幸中の幸いとして、いずれも犯人はすでに逮捕されているそうなのだが、痛ましさがそれで和らぐわけではない。
最後の最後まで、しっかり捌き切らなきゃな――ハキルは自分の頬をぱんと叩いた。
この巨大な怪物の大暴れのような騒ぎも、今日明日を頂点としてあとは急速に鎮まっていくはずだ。ここを乗り切ったら、満足に眠れるし、祝いの酒もたっぷり飲める。
「ハキル」と背後から声をかけられた。「休憩入れる時間だ」
ハキルは振り返る。声の主は、友人にして同期の衛士であるラリーだ。同じく睡眠を削ってこの三日間町中を奔走し、ハキルと似たような数の揉め事に携わってきたそうだ。
「ああ……もう日が暮れるか」
「短いあいだに深く眠る訓練はしてこなかったからなあ」とラリーは笑う。「すぐ寝てすぐ起きろと言われても、なかなかしんどいわな」
「俺はこれからちょっと用事がある」ハキルは首をさすりながら言った。「個人的な約束事があってな。すぐ戻るよ」
「寝るより大事なことがいまあるのか?」
「あるんだなそれが……縁があったらまた会おう」
そう言ってハキルはラリーに背を向け、さっと手を掲げて歩き去っていく。
「生きて帰れよ!」というラリーの冗談を背中に受けて、ハキルは静かに笑った。さあどうだろうなあ、人間どこでどう死ぬかわからないからなあ。
◆
待ち合わせの場所には、すでに約束の相手が立っていた。
この騒ぎの只中にあってもなお人気のない裏通り。
本来ならば違う場所にすることを勧めるところだったが、約束したときの相手の様子に必死さというか、他の選択肢を許さないという気迫があって、仕方なしに指定通りの場所で待ち合わせることを承諾したのだ。
相手は――テトラは、いかにも落ち着かないという風に空を見たり地面を見たり、着ている服のあちこちを確かめたりしていたが、やがて近づいてくるハキルを認めると、ぱあっと顔を明るくさせ……そしてその直後に、叱られる前の子供のように目をそらした。
「よっ。店は繁盛してるか? ……まあ訊くまでもないか」
「大忙しよ」とテトラは目をそらしたまま答えた。「今日の午後だけ、自由時間を貰ったの。ほら、とりあえず私、看板娘ってことになってるし、あまり休むと示しがつかないから」
「商売するのも大変だな。べつに大変さを競いたいわけじゃないが、こっちもなかなか骨が折れるよ。人は集まりゃ集まっただけ揉めるんだな。当たり前なのかもしれないが、よくよく味わわさせて貰ってる。あとはとにかく眠い」
「ハキル達のお陰で、町は何とかなってる。本当にお疲れ様」
「どういたしまして」ハキルは言い、続けた。「それで、用件っていうのは何だろうな?」
テトラはことさらにもじもじする。
いつもの彼女らしくないな、とハキルは思った。そしてそれと同時に改めて気づく。
考えてみれば、自分は仕事から離れた彼女をまったくといっていいほど知らないのだ。店に通うようになって二年ほど経つし、自分にはくだけた調子で接してくれているが、それはどこまで行っても仕事の範疇での馴染み方に過ぎない。
真の意味で一人の人間、一人の女としてのテトラという人物に――ひょっとして自分は、いま初めて相対しているのか?
「……今日、誕生日だよね」
意を決したように、テトラはハキルの顔を真正面から見て言った。
「え? ああ、そうだな。いろんな人間からガキっぽいと言われ続けながら、気がつけば二十三になっちまった」
テトラには店に通い始めて間もなく、誕生日を教えてある。
単なる成り行きでそうなったのだが、彼女はそれを覚えていて、翌年には酒を一瓶奢ってくれた。
特定の客を贔屓するのはまずいんじゃないのか、とハキルは言ったのだが、テトラの回答は、これは店からの差し入れではなく自分が働いたぶんから出すものだから気にするな、というものだった。そうか、あれからもう一年になるのか。
「まずは、おめでとう。……これ」テトラはおずおずと布の包みを差し出した。「気に入らなかったらごめん」
それが自分への贈り物であることを察したハキルは、彼にしては珍しいゆったりとした動きでそれを受け取る。
開いてみていいのか――という彼の質問に対し、テトラは黙ったままこくりと頷いてみせた。
――それはペンダントだった。
質素な作りと言えばそうかもしれないが、なかなかに品のある、老若男女を問わない飾りつけ。真ん中にある小さな緑色の輝きは、恐らく翠玉だろう。月に因んだものであることは、無骨なハキルにもすぐにわかった。
「……眠気が飛んだよ」とハキルはペンダントを眺めながら言った。「今年はきつい誕生日になったもんだと、まあ愚痴りはしないまでも、朝からずっと思ってたんだ。いちおう仲間内からは一言ずつ貰ったけどな、ちゃんと祝うのは全部終わってからって空気だろ? だから――そうだな、これで今日が本当に誕生日になった気がする。ありがとうな、テトラ」
ハキルが己に可能な限り優しい微笑みを浮かべてみせると、テトラは顔を赤くしてはにかみ――それから目を閉じてすうっと一つ大きく息を吸い込んだ。
そして神から授かった言葉を告げるかのように、どこか厳かな調子で口を開いた。
「それでね、ハキル。あなたにどうしても今日、伝えたいことがあるの」
ハキルはテトラと目を合わせる。
……そこには、これまで彼女からは受け取ったことのない激しい感情が宿っていた。
彼女は人懐っこいが、簡単に自分の何もかもをさらけ出す類の人間ではない、というのがハキルの捉え方だった。それは間違ってはいないと思う。
しかしいまこのときに限るのであれば――目の前にいるのは、心の扉を力いっぱいに開け放った、一人の情熱的な女だ。
ハキルは子供ではない。そしてそれなりに女達からの評判もよく、それなりの経験も重ねてきている。
彼はこの情熱がどういう種類のものであるかを知っている。だからテトラが言葉を紡ぐより先に、すべてを理解するに至った。
「私――私ね、初めて会ったときから、ずっとあなたのことが」
――テトラがそこで一呼吸置いたのとまったく同時に。
上空から――屋根の上から?――何かが二人の真横に、まるで天からの使者のように、白く輝く何かがふわりと舞い降りた。
「はい、そこまで」
そして、二人が反射的に「それ」に視線を向けるのとまったく同時に。
二匹の白い蛇が空中をうねるように突き進み――魂を吸い尽くさんとばかりに、二人の首筋に音もなく咬みついた。
……それがどんな意味であるかを考えようとする間もなく、ハキルはハキルであることを失い、テトラはテトラであることを失った。
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