第九章 キゲイロと信仰の頂

 単調な音を刻みながらずっと変わらず歩を進めていた馬車が、唐突に止まった。

 その中に腰かけていた法王キゲイロ三世は、護衛達の表情がその瞬間に一変するのを見た。

 自分も常に様々な覚悟を決めて行動しているが、彼らの覚悟はそれを上回るかもしれない。良きにつけ悪しきにつけ、彼らはその職務についている最中、生きながらにしてすでに命を捨てている。

 護るべき対象――つまり自分だ――のためなら、一切の躊躇なく自らの命も他の護衛の命も使い果たしてみせるだろう。

 それは紛れもなく勇敢なことであるが、しかし両手放しでそう称えてしまってよいものなのだろうかと、キゲイロは護られる人生の中で常々考えている。


 護衛の一人が扉を開けて外に顔を出し、様子を確かめる。

 ……どうやら一見して事の次第を把握することができたようで、すぐに頭を引っ込めると、特に表情を変えずにキゲイロのほうを向いて言った。

「崖崩れのようです」

「ほう」とキゲイロはやや飄々とした面持ちで言った。「音はしませんでしたな。崩れたのはいまではないということですか。先頭の方々に問題がなければよいのですが。馬が大きな石を踏んでしまったり」

「特に騒いでいる様子はないので、純粋に立ち往生のようですね」


 少しすると、先頭のほうから伝令のものと思しき駆け足が聞こえてきた。

 その音がキゲイロのいる馬車の脇で止まると当時に、窓の外にシュケル王国の兵装が映る。こんこんと扉を叩く音。

 護衛が再び扉を開くと、その伝令は先ほど護衛が言ったのと同じことを、より詳細に説明した。

「ご報告します。この先で崖崩れが起きておりまして、これ以上この道を進めない状態であります」

「ここは一本道なのですか?」

「はい。従って迂回しなければなりませんが、かなりの遠回りになります。エルグランに到着するのは一日遅れるものと思われます」


「一日ですか」とキゲイロは言い、ふむ、と考える素振りを見せる。だが実際には特にいま何かを考えたわけではなかった。「一日なら問題はありませんな。そのために余裕を持って出立したわけですから。……して、迂回路はもう決まっているのですか?」

 はい、と伝令は答える。過剰なほどきびきびしている。「その途中に村がありまして、今夜はそこで一泊することになるとのことです」

「その村の方々にご迷惑をおかけすることになりますね」

「法王猊下をお迎えすることを拒む者は、このシュケルの領地にはおりません」


 伝令は即答した。その答は明らかに彼が伝えるよう命じられたものではなく、彼自身の裁量で発せられたものだ。しかしシュケル王国の兵であれば、誰であれキゲイロにいまのように呟かれたら同じことを答えるだろう。


 キゲイロは静かに目を閉じ、少しのあいだ沈黙した。

 迷いが生じたわけではまったくない。彼は時間の許す場合には必ず、決断や了承をする際にこのように間を置くことを重んじているのだ。

 演出、と呼んでしまうと安っぽく聞こえるが、しかしそのような振る舞いが積もり積もって言葉を伝える力に大きな影響を与えることを彼は知っている。

 人は真理によってのみ心を動かされるわけではないのだ。それが美しいこと、賢いことであるかどうかはともかく。


「……わかりました」とキゲイロは言い、そっと開いた目を伝令に向けた。「ではそのような手筈でお願い致します」

 はっ――と伝令は言い、敬礼を一つ残して静かに扉を閉めた。馬車は全部で三台。これから後方の馬車に同じ旨を伝えるのだろう。


「旅らしくなりましたな。皆さんにはそのぶん気苦労をおかけしますから、楽しいと言ってしまうわけにはいきませんが」

 キゲイロは独り言としてそう口にする。護衛達にはそれが独り言であることがわかっているので、あえて反応はしない。


 しばらくして馬車が反転し、もと来た道を戻り始めた。

 迂回して、途中の村へ。到着する頃には日が暮れているだろうか。

 キゲイロは小さく祈りを捧げた。新しい道のりには新しい祈りを――彼は習慣としてそのように行動する。

 祈ることは特別なことではない。神は常に我々と共にあり、我々は常にその加護の中にあるのだ。祈ることは、その当たり前のことへの理解と感謝を示すことに他ならない。

 示しは大切だ。示されないものは往々にして、存在しないのと同じことになる。


 ◆


 村に辿り着いたのは、太陽が沈んで少し経った夜のことだった。

 伝令が断言していた通り――そしてキゲイロもわかっていた通り――村人は一行を歓迎してくれた。

 このような何もない村へ、法王猊下御自らやって来て下さるとは、とは代表して出迎えてくれた村長の言葉だ。

 何もないことはありません、こうして皆さんが日々誠実に暮らしを営んでおられるところが、なぜ何もないなどということになりましょうか、とキゲイロは村長の手を取って言った。

 それを聞いた村長が涙ぐむ。私の代で、よもやこのような――というようなことを口走ったが、その言葉は途中で立ち消えてしまった。キゲイロはその欠けた言葉から彼の想いを汲み取り、その手を強く握りしめた。


 慎ましいながらも温かい歓待を受け、村人達にちょっとした説教を聞かせる。

 それからキゲイロ一行は幾つかに分かれてそれぞれの宿となる家へと招かれた。キゲイロが二人の護衛と共に泊まることになったのは、村長の家だ。


「この辺りには、獣のたぐいは出るのでしょうか」とキゲイロは村長に訊ねた。

「少なくとも村まで出てきたことはありません」村長は答える。「山や森に入れば、そこはもちろん彼らの領分となりますが、ここはそういうことはありません」

「そうですか。実は少し外を歩きたいと思ったのですが――そのお話からすると、出ても大丈夫とみなしてよろしいようですね」


「この時間に、出歩かれるのですか?」

「普段は朝に行うのですが」とキゲイロは悪戯っぽく笑う。「今日は日の出前に出立した都合上、それをこなしていないのです。ずっと馬車の中におりましたので、なおのこと体がうずうずしていけません。そのぶんを、これから取り戻そうかと」

「獣もならず者もおりませんが、何しろ灯りもろくにない村ですから、足元が危険かもしれません。あまり遠くに行かれるのはお控え戴きたく……それと、お一人はさすがに」

「それは大丈夫です」キゲイロは言い、同じ部屋の片隅に、できる限り存在を薄くするように立ち尽くしている二人の護衛を見た。「彼らがついてきてくれますので」

 そうですか、と村長は安心したように言う。「それでは、お持ち戴く灯りを用意します。くどいようですが、くれぐれも足元にはお気をつけ下さい」


 ◆


 シュケル王国の首都マルカに、ミラリア教の中枢である法王庁がある。信仰という面において大陸全土の頂点に立つ存在であり、遥かな昔からその歴史を紡いできた。

 信徒にとって法王庁は、聖地ルクレツィアと並んで大きな意味を持つ。

 ルクレツィアを巡礼する者がいるのと同様に、法王庁を訪れる者も数知れない。

 といっても法王庁は普段、一般の民を敷地内に入れることはないので、彼らの敬虔な想いはマルカ大聖堂で神に祈りを捧げ、法王の説教を耳にすることで満たされることになる。


 シュケル王国が古くから中立国を名乗っているのは、法王庁を抱えていることと無関係ではない。

 ミロアが神の言葉を聞く以前から国境が目まぐるしく変化し続けてきたこの大陸において、シュケル王国はこの数百年のあいだ、ほとんどその影響を受けることなく国を存続させてきた。

 その多くの部分が、法王庁を安定した状態に保つという目的に関係するのは間違いないだろう。

 もちろん中立国を名乗っただけでそのような平穏が得られるわけではなく、そこには歴代の王家以下、国を預かるすべての者達の並々ならぬ努力があったことは言うまでもない。

 その努力の結晶として、聖暦一〇〇〇年の現在もなお豊かな国を維持することができており、そしてそのことで、法王庁は確実に信仰を統括することを可能としてきたのである。


 ミラリア教は古くから、十年に一度、ミロアが伝達の壁に巡り合った日とされる真珠の月の一日に式典を開催している。

 開催地は大陸各国の持ち回りで、その時々の政情などを考慮して選ばれてきた。

 法王庁を開催地として固定しなかったのは、式典を定めた当時の者達が、それを休戦等の口実としてうまく活用するためだったと言われている。

 束の間でも血の流れない時と場所を作ろうとしたのだろう。それがどこまで狙い通りに機能したかは評価の分かれるところだが、ともあれ今日に至るまでそれが慣習として続いてきた。

 式典はミラリア教の最大の催しであり、その開催地は一時的に、ルクレツィア、法王庁と並ぶ第三の気高き地となる――いまもなおその重みは変わっていない。


 前回、九九〇年の式典が終わった直後から、次に行われる式典のことを皆がそわそわとした様子で語ってきた。

 何しろ、記念すべき一〇〇〇年記念の式典である。

 数字のきりの良さになど意味はなく、いずれの年も等しく尊いのだと言ってしまえばそれまでだったが、人々の自然な感情として、それは過去最高のものであるとみなされ、それにふさわしい内容であることが期待された。

 一〇〇〇年に一度の出来事に関わる機会が果たして人の一生のうちどれほどあるだろう。何としても生きてその日を迎えたい――多くの信徒がそのように考えてこの十年を過ごしてきた。もちろん夢叶うことなく死を迎えた者も無数にいたわけだが、少なくない数の人間にとって、生きる指針、発奮材料になったことも確かだった。


 誰が言い出したわけでもなく、人々はごく当たり前のこととして、こう考えていた――次の式典は当然、マルカで行われることになるだろうと。事によっては例外的に法王庁が一般に開放され、そこで法王キゲイロ三世の言葉を聞くことができるかもしれないと。

 持ち回りで開催するといっても、次回ばかりは特権が働くに違いないと、そのように考えられていた。


 しかし九九九年の始めに発表された開催地はそこではなかった。神聖グランダリア帝国の首都、エルグランが選定されたのだ。


 様々な憶測が飛び交った。

 その決定にあたって、グランダリアは法王庁に何らかの働きかけをしたのではないか。例えば多額の寄付を約束するなどして、開催地であることを買ったのではないか。

 いや、ただ純粋に持ち回りの制度を継続させた結果だろうと言う者もいた。グランダリアだからといって力づくを想像すればいいというものではないと。

 さらにそこにべつの主張が覆いかぶさる。

 今回ばかりは持ち回りを継続させるべきではなかった。マルカで開催することでもっとも多くの納得を得られたはずなのに、何を馬鹿正直にいつも通りにしたのか。

 そしてもちろん憎悪に近い言葉もあった。万年曇り空で金回りばかり良い、薄暗い金の亡者みたいなエルグランで、一〇〇〇年に一度の式典が使い潰されるなんて、ミラリア教は遠くないうちに終わってしまうのではないのか――。


 しかしどのような憶測がどのように語られようとも、決定されたものは変わらない。法王庁が開催地を変更したことはかつて一度もない。それもまた伝統だ。


 神聖グランダリア帝国は、早いうちから式典の規模を喧伝し始めた。

 式典そのものもかつてない要人の数を集める大がかりなものになるが、それに先立って開かれる前祭もまた巨大な賑わいとなるだろう。神聖グランダリア帝国はあらゆる信徒を受け入れる。エルグランはどの国のどの都市よりも幅広く大勢の者を受け入れることができる。記念すべき聖暦一〇〇〇年を飾るにふさわしい、最高の祝祭の場を用意してみせよう。


 そこに帝国の傲慢を感じた者はたくさんいる。

 決まった経緯がどうであれ、帝国が式典を国威発揚の場にしようとしているのは間違いない。いや、どこの国にも多かれ少なかれそのような思惑は見られるのだろうが、帝国には最低限備えているべき慎みが備わっていない。神聖灰色帝国には、今回の式典を主催する資格がない――。

 そしてそれを踏まえて、度を越して物騒なことを願い出す者もいた。

 ここで何か失態があれば、逆に帝国は大恥をかくことになる。例えば要人が殺されるとか、大暴動が起きるとか。そうなれば帝国相手の交渉も、しばらくのあいだはやりやすくなるかもしれない――。


 そういったあらゆる思惑を飲み込んで、今度の式典に訪れる者の数は過去最大になることが予想された。

 帝国はそれをすべて許容できる旨を強調し続けたが、それが簡単なことでないことは少しでも知恵の働く者達にとっては明らかだった。

 帝国内部では、その実現のために上から下まで汗まみれになって奔走しているのだろう。事前に想定できるあらゆる種類の問題を洗い出し、それを一つずつ摘み取る努力をしているのだろう。それでもなお起きるかもしれない想定外の事態に対処する方法も模索しているのだろう。


 特定の立場の人間にとって、今回の式典は危険であると言えた。最悪の場合、帝国への敵意のとばっちりで命を落としかねないのだ。

 そしてもっともその危険と隣り合わせの位置にいるとされるのが、法王キゲイロ三世であった。


 ――式典の真っ最中に法王を暗殺しよう、という動きがある。

 数多くの無責任な噂の中に、そのようなものがあった。

 それは法王庁にとって、一笑に付して終えることのできないものだった。キゲイロには十分な人望があったが、それはこの世のすべての人間に愛されていることを意味するわけではない。

 彼の命と引き換えに帝国を揺らすことができるなら万々歳、と考える人間も残念ながら存在し得る。


 だからキゲイロに近しい者達の中には、式典への出席を控えるよう進言するものもいた。彼の身の安全を確保し、その上で思い上がった帝国に冷や水を浴びせてやるのだと。

 しかしキゲイロはそれをやんわりと拒絶し、式典への参加を表明したのだった。

 遥かな昔から式典に臨むことは法王の務めであるし、何より、集まってくるであろう多くの信徒が最優先であると彼は言った。保身や国家への制裁的行為は二の次であると。

 そしてキゲイロは式典の日程に合わせ、護衛を引き連れて法王庁を発ったのだった。


 ◆


 キゲイロと二人の護衛は、手持ちの灯りの他には月と星の光を頼るしかない夜の村を、目的もなく歩いている。

 護衛は男女の二人組で、半年ほど前からキゲイロにもっとも近いところで彼を護り続けている。男の名はキーン、女の名はシェーラといった。どちらも何代かにわたって法王庁に関わる仕事をしてきた家系らしい。そういったところから来る信用も、法王の護衛に就くには必要となるのだ。


「……確かに暗い夜です」とキゲイロは周囲に溶け込ませるように静かに言った。「その代わりに空がいちだんと美しく見える。真の夜とはこのようなものを指すのかもしれませんな」

「しかし夜は恐ろしいものです」キーンが低い声で言う。「悪しきものはだいたい夜に蠢き、事を成そうとします。猊下はやはり太陽に属する方であると自分は考えます」

「悪しきもの」


 キゲイロはその言葉を復唱し、遠くの山々を見据えた。

 うっそうとしているはずの木々はこの暗さでは認めることができず、まるで全体が黒い切り絵のように映る。

 かすかに狼のものらしき遠吠えが聞こえたような気がした。勇ましいようにも、哀しいようにも感じられる。


 ふと立ち止まり、キゲイロは懐から小さな袋を取り出し、それを開いた。そして中から一粒の砂糖菓子を取り出し、口に運ぶ。

「お二人も」

 そう言ってキゲイロは護衛達に袋を差し出す。二人は失礼しますと断りながらその中に手を入れ、同じように菓子を取り出すと、無表情でそれを口に入れた。

 いつものやり取りである。キゲイロは常に砂糖菓子の袋を持ち歩いていて、散歩の際に必ずそれを口にする。そして必ず護衛にも振る舞う。まるで儀式のように。


「エルグランの人々を気の毒に思います」再び歩き出し、キゲイロは満天の星空を見上げて言った。「彼らは雄々しき太陽も、このきらびやかな星空も見ることができないのですから」

「魔人の呪いと言いますが、私には神の御業のようにも感じられます」シェーラがはきはきと言った。「帝国の姿勢に対する報いなのではないかと」

「それで罪もない民までもが晴天を奪われてしまったと?」


 シェーラは沈黙する。しかし彼女は恐らく、それも仕方のないことだと言いたいのだろうとキゲイロは思った。

「……帝国はお嫌いですか?」

「……好きにはなれません」

 ふむ、とキゲイロはその返答を受け止める。


 しばらくのあいだ、三人は何も言わずに歩き続けた。

 特別な事態が起きない限り、散歩の途中で護衛の側からキゲイロに話しかけることはない。こういうときのキゲイロの頭には、いろいろなことが脈絡もなく次々と浮かんでいる。書物を手にしているときや、誰かと話しているときとはまた違った思考が巡っている。

 その時間を彼は大切にしている。すぐに役に立つとは限らないが、長い目で見れば必ず活きてくる――そう確信しているがゆえの習慣だ。


「――暗闇はどこにでもあります」とキゲイロは言った。「帝国にも、法王庁にも。もちろんその暗闇にはそれぞれの深さがあり、皆まったく同じなのだということにはなりません。しかし、光に属する自分と闇に属する相手、という絵を簡単に描けるほど、我々はくっきりとした世界に生きてはいません。そこには落とし穴がある」


 護衛達は周囲に気を配りながらそれを聞いている。話にはまだ続きがあることが彼らにはわかっている。


「かの国の皇帝エルハディオ七世は、ある意味では純粋な人物だと私は思います。彼は放蕩には目もくれずに国政に全身全霊を傾けている。国にその身を捧げている。そして賢い人物でもあります。そうでなければ大陸に二十年の平穏など到来するはずもなかった。他の誰かが彼の地位にあったならば、帝国はとっくに隣国に進軍していたかもしれません。もちろんその隣国には、シュケルも含まれます」


 護衛達は何も言わない。言いたいことはあるのかもしれないが、口は動かない。

「ただ、彼のやり方は、圧倒的な軍事力を背景に、威圧によって各国の刃を引っ込めさせるというもので――これは他国にとっては愉快ではないでしょう。エルハディオ七世はそこまで深く信用されてはいませんから」

「……当然のことかと」キーンが言った。


「そうですね。すぐ側で軍事力を高めるだけ高めておいて、これは大陸の平和のためなのだと幾ら言ってみたところで、それをそのまま飲み込む者はごく僅かでしょう。実際、私も彼の言い分を全面的に支持するわけではありません。ただ……かの国には個人的に、お若く、賢く、美しい友人がおりましてな」

 シェーラが口を開いた。「それは……テオーリア皇女殿下のことでしょうか?」

「ええ」とキゲイロは言い、目を細める。「まだ成人してはいないのですが、彼女は――聡明とはまさに彼女のためにある言葉ですな。手紙のやり取りをするようになって三年かそこらになりますか。最初の手紙を受け取った時点では、彼女はまだ十四になるかならないかだったことになる。十四といえば、私がまだ修道院にも入っていなかった歳です。にもかかわらず、それはそれは見事な手紙でした。そこには帝国の在りように関する彼女の見解が情熱的に、しかし理知的にしたためられておりました」


 キゲイロは振り返り、二人の護衛と交互に顔を見合わせた。

「……猊下は」とシェーラは探るように言った。「皇女殿下を通して、帝国にある程度の信頼を置いているのですね?」

「彼女が将来どのような道を行くのか、私にはわかりません」キゲイロは答える代わりに話を進める。「しかし個人的な希望を言うのであれば――彼女には是非、帝国に残ってその手腕を振るって戴きたいですな。後々国を継ぐのは皇太子殿下ですが、そこに彼女がいるのといないのとでは、恐らく帝国のかたちは大きく違ってきます。……国を割ることなく皇帝を御することができるのは、この世に彼女をおいて他におりますまい」


 また山のほうから遠吠えらしきものが聞こえてきた。

 その音は夜の澄んだ空気に薄められて急速に小さくなっていき、程なくして完全に溶けて消えてしまった。

 キゲイロは音楽を鑑賞するようにその顛末を聞き届け、それから星空を見た。

 夜。暗闇。悪しきもの。しかし夜の美しさというものも、やはりある。キゲイロは胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。それから護衛達を見る。


「戻りましょうか」とキゲイロは言い、染み込ませるように時間をかけて微笑んだ。「夜は深くて長いものです。それと上手に付き合うことで、良き明日を迎えることができる。……村の方々に心からの感謝を。そして我々の旅が無事に幸福へと繋がっていくことを、神に祈りましょう」


 ◆


 ――同じ夜。神聖グランダリア帝国の首都、エルグラン。

 その皇城の中庭。

「……弟は張り切っているよ」とテオーリアは苦笑しながら言った。「何事かあるたびにあからさまに張り切るところはあるが、今回の張り切りようは特別だ。まるで前祭のすべてを自分に任されたかのように、城下を動き回っている」

「皇太子殿下は民に深く愛されておいでです」と金獅子は跪いたまま言った。「一連のご活躍は必ずや大きな結果となって現れることでしょう」

「この一年で、その辺りを実感できるようになったか?」


 草木を見つめていたテオーリアが、その顔を金獅子に向ける。金獅子は彼女の目をまっすぐに見つめ返した。

「おっしゃる通りです。皇城にいるだけでは、皇太子殿下のそういったお力を十全に理解することはできませんでした――少なくとも私には」

「そういう意味でも、余の与えた試練が見事にはまったと受け取って構わないかな」テオーリアは楽しそうにくすくすと笑う。

「はい。殿下のご慧眼には本当に敬服致しております。再三口にするようで恐縮ですが、私は自分に足りないものがまったく見えておりませんでした。そのことで皇太子殿下の大きな力を見過ごしていたのだと思うと、恐ろしくなります。知恵の至らぬ者は、あらゆることをその身で体験しなくてはいけないのですね」


「またそのようなことを言う」テオーリアはわざとらしい呆れ顔を作ってみせる。「そなたのような者が謙虚に過ぎるのは、美徳を越えて嫌味ととられかねないから気をつけよと、言ってきただろう?」

「しかし本心です。殿下がこの皇城の生活の中のみで理解しておられたことを、私が一部でも理解するのにこれだけの経験が必要でした。身の程を知る思いです」

「身の程、身の程とそなたは言うが……いや、まあいい」


 諦めたようにテオーリアは言い、髪をかき上げた。

 金獅子はいつもこのような具合だ。慢心せず自らを戒めるのは大切なことだし、テオーリアはそれを決して欠かすことのない金獅子を好ましく思う。

 しかしそれと同じくらい、自信というものも大切だ。

 金獅子には必要なことはすべて身につけさせたつもりだし、本人もそれはわかっていると思うのだが、少なくともテオーリアを前にしたとき、そのことについての自信が振る舞いに表れることは一切ない。

 恐らくものを学ぶ速さを、向上心の強さが上回っているのだろう――そうテオーリアは解釈しているが、もう少し自分自身を誇る時間があってもよいのではないかと思う。

 本人にそれを言ったこともあるのだが、いまいち手応えが感じられなかった。


 ……まあ、人それぞれなのかもしれないが。この件に関するテオーリアの思考は、いつも仕方なしにそこに着地する。

 そして意識を本件に戻す。


「いよいよ明日から前祭なわけだが」とテオーリアは表情を引き締めて言った。「もうすでに町は普段とは違う動きを見せている。衛士達は夜回りの体制を強めているし、異国からの来訪者も激増している。……それも直に感じてきたな?」

「はい」

「もう一度繰り返しておく。そなたに与えられた任務は、恐らくは式典のまさにその最中に要人を狙うと思われる刺客を食い止めることだ。前祭の最中に動きがあるかもしれない。もしそれを察知したら然るべき対処をせよ。――それ以外の物事には関わるな。町で何かしらの揉め事が起きても、そのことに首を突っ込むのはそなたの仕事ではない」

「はい」


「そして刺客だが、父上のおっしゃるところによれば――いまでは余の見解でもあるが――その刺客は魔人である可能性が高い。そなたは魔人と相まみえたことはないはずだが、それを承知の上で、そなたには単独で刺客を退けることが求められている」

「光栄の至りです」

「光栄か……」

 テオーリアはほんの僅か物悲しげに微笑む。

 金獅子は気遣っているのだ。そびえ立つ高い壁のような命令を、当たり前のように下さなければならない自分のことを。


「何事もなかったように式典をまっとうすることが第一義だ。事を荒立てることは避けなければならない。すべては民の知り得ぬ闇の中で済まされなければならない。……そしてある意味ではこれが厄介な点だが、相手が魔人であるならば、殺害することは許されない。そなたと、そしてそなたの与するこの神聖グランダリア帝国に呪いがかかるからだ」


 テオーリアは空を見る。どこにも星はない。この中庭から星というものを見た経験は、テオーリアには一度としてない。彼女の立場からすれば、星は宝石よりも貴重品なのだ。


「その場合は生かしたまま捕らえよ。洗脳の後、我が国の戦力として活用することになるだろう。……こういった魔人の処遇をそなたに言って聞かせることは避けたいのだが、余にはどうすることもできないことなので、許して欲しい」

「私ごときに許しを請わないで下さい。殿下は正しいことをおっしゃっているだけです。我が帝国に害を為す者であるならば、そのような処遇をしないわけにはまいりません」

「余計に気を遣わせたか――いまの言葉は忘れてくれ。単なる計画として受け止めよ」

 はい――金獅子が頭を垂れる。


「すべてはそなた一人に任せることだが、万が一のことがあったら――わかっているな?」

「承知しております。そのようなことがないよう万全を尽くしますが、万が一の場合にはお力をお借りすることをためらいません。無用な意地は殿下を害するものと理解しております」

「うむ。余にとってはそこがいちばんわかって欲しいところなので、そう言ってくれると少しは安心できる」


 テオーリアは金獅子の瞳を見つめる。

 綺麗な瞳だ。しかしこの瞳は自分の命令によって数多の血生臭い光景を映してきたのだ。

 できれば金獅子には、それらを帳消しにするほどの美しいものをたくさんその瞳に焼きつけて欲しいと思う。それは金獅子のためというより、自分の我が儘なのかもしれないが。


「……式典が終わって少ししたら、余は十七歳になる。またそなたより一つ歳上になるな」

「はい」

「無事に式典が終わったなら、例年同様、誕生会が催される。まあ良い意味で忙しい一日になるわけだが――今年は一つ、そなたに願いたいことがある」

「何なりと」

「その日の夜だけでいい。二人きりで、出会った頃のように時を過ごしてみたい」


 金獅子は意外そうな顔をした。しかしそれは間もなく無表情に戻り――やがてほんの少しだけ照れを含んだ微笑みに変化していった。

「――お望みとあらば」

「うむ」

 テオーリアは隠すことなく同じような微笑みを返し――そして友に向かって言った。

「すべては式典を成功させてこそだ。そなたに託す――頼んだぞ、リューリィ」

「はい」

 金獅子は――リューリィは、まっすぐにテオーリアを見つめたまま短く答えた。


 ◆


 ――そして賑やかな朝が来る。

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