第七章 マレーネと罪の結晶
エルグランの空は、雨を予想しにくい。
青空の向こうから黒い雲が迫ってくるのであればそれはすぐに気がつくし、到来する時間までだいたい掴めるものだが、この町ではそれは灰色に紛れてそっとやって来る。
絶えずしっかり空を注視していなければ見過ごしてしまう。
例えばなけなしの光と風で少しでも早く乾かそうと洗濯物を外に干したのなら、それを取り込むまでのあいだは常に空の微妙な変化に気を配っていなければならないのだ。
そういった苦労をお互い少しでも和らげるために、エルグランの民のあいだでは、やがて来る雨に真っ先に気づいた者がそれを周囲に呼びかけることが習わしになっている。
マレーネの経営する下宿舎の周辺では、彼女がその呼びかけをする役割を担うことが多かった。
彼女が頻繁に空の様子を確かめる人間であったかというと、そうではない。
ただ不思議と彼女には、遠からず訪れる雨を事前に察知することができたのだ。
彼女はそれをいつも「雨の匂いがする」と表現していた。曖昧な言い方だが、こういうことは実績がものを言う。
彼女がそう告げるとき、外を見ると必ずこちらに迫ってくる黒雲を認めることができた。雨を知る女として、マレーネは周辺の者達から圧倒的な信頼を得ていた。
今日も同じことが起きた。
夕食の材料を買い出しに市場へ出かけているとき、マレーネはふと雨の匂いを感じ取ったのだ。
手に持って吟味していた野菜を見つめたまま、彼女は目の前に座る店主に向かってぼそりと言った。
「あー……これは降るね」
「そうかい?」
「うん。ちょっと待ってね」
マレーネは言い、空がよく見える場所まで少し歩き、灰色の天をぐるりと一回り見渡す。
とある方角に陰があるのを彼女は見つけた。じっと目を凝らす――それは少しずつ着実にこちらに近づいている。
彼女は店に戻って店主に告げる。「日が暮れる前に降ってくるよ。たぶん結構な降り方をするんじゃないかな」
「なら、それまでに店じまいだな」と店主は言い、凝りをほぐすように首を回した。「教えてくれた礼に、おまけするよ。さっきのやつ、持っていきな」
「本当? ありが――」マレーネは言いかけて、店先に並んだ野菜の群に視線を移し、ゆっくりと眉間にしわを寄せていった。「……さっきのやつが一番良かったんだけど、私どこに置いたっけ?」
◆
マレーネは市場から戻ると、辺りに住む者達に遠からず雨になることを告げ、それから屋上に干してあった洗濯物を取り込み、生乾きのそれらを仕方なくそのまま畳んでいった。
広間にでも干したいところだが、いちおう飛び入りの客が来るかもしれないから美観を損ねるわけにはいかない。
そしてあれやこれやと片づけをして、そろそろ夕食の仕込みに入ろうかというところで雨音が聞こえてきた。予想通りだ。雨脚はあっという間に強まっていった。
ざあっという音を耳にしながら、マレーネはいつものように遊びに出かけた息子のことを考えた。
――あの子が傘を持って遊びに行くわけはないし。夜にならないと止みそうにないし。
これはずぶ濡れか。マレーネは苦笑した。
問題は、普通に帰ってくるかどうかである。雨が降ったら外遊びは禁止、遊んでいる最中に降ってきたらまっすぐに帰ってくること。そう言い聞かせてあるのだが、果たしてその通りにするかどうか。
まっすぐ帰ってくるなら風邪を引くこともないだろうが、もし雨の中で我を忘れてはしゃぎ回ったりしたら――その可能性は十分にある――あるいは後で熱を出すこともあるかもしれない。
その面倒を見る手間まで想像して、マレーネはふう、と小さく溜め息をついた。いまさらながら、親をやっていくのは楽なことではない。
からんからん、と出入り口の扉がベルを鳴らした。
マレーネは厨房を出て、確認に向かう。息子か、住人か、あるいは客か。
怪しい人物だったらどうしようという不安は、長年この仕事をやっているが常につきまとう。何しろ女手一つでやっている下宿舎なのだ。
屈強な門番でも雇えば安心なのかもしれないが、そんな余裕はない。……その気になればねだる相手はいるのだが、その気になる予定はまったくない。
入ってきたのは、住人の一人だった。
「お帰り、レスター」マレーネは親しげに言った。「その傘、持って歩いてたの?」
「はい」とレスターは控えめに微笑む。「べつに予知していたわけではないのですが」
「今日は仕事だったっけ?」
「いえ、お休みでした。それで、ちょっと遠くまで――いつも行かないところまで出向いていたんです。もしものときのために、傘やらお金やらを」
「心配性が幸いしたってわけね」マレーネはレスターの肩をぽんぽんと叩いた。「まあでも良かったよ。あんた大雨に当たったら溶けてなくなっちゃいそうなんだもの」
「……僕、そんなに貧弱に見えますか?」
「ごめんごめん」とマレーネは笑う。「何かね、放っておけないのよ。れっきとした大人の男にこういうこと言うのも、気を悪くするかもって思うんだけどね。つい言っちゃうのよね」
レスターは少し恥ずかしそうにくしゃくしゃと頭を掻いた。こういうことを言われる根拠がそれなりに自分にあることを自覚しているのだろう。
――ふいに、遠くでごろごろという音がした。
「あ、いま雷が鳴りましたか?」レスターが扉のほうを見て言う。
「……鳴ったね」
マレーネはそう答え、一転して顔をこわばらせる。
「あまり近くに来ないでくれるといいんですけどね」レスターは言い、心配そうにマレーネを見た。「マレーネさん、本当に雷が苦手なんですね……」
「子供の頃から、どうもねえ。あとはまあ、個人的にいろいろあってね」
いろいろですか――とレスターが呟く。
作家志望の若者に対して、ちょっと思わせぶりなことを言ってしまったかなとマレーネは気にしたが、彼は特に質問を投げかけてはこなかった。気を遣ってくれたのかもしれないし、興味がなかったのかもしれない。
「とりあえず僕は部屋に引っ込みますけど、何かあったら言って下さい」
「うん、そうして。たぶん何もないから大丈夫」
「……タルカスは外に?」
「遊びに行ってる。きっと絞れるくらいになって帰ってくるだろうね」
「でも、彼は平気でしょうね。僕と違って、雨に濡れても溶けませんから」
マレーネはぷっと吹き出した。「だからごめんって。あんたのこともちゃんとした男だって認めてるよ」
「精進します――では僕はこれで」
そう言ってレスターは自室へと向かっていった。
彼がこの下宿舎に来て、今年で……四年か。
そろそろ夢が花開いてもいい頃だよね。そんなことを考えながら、マレーネはその後ろ姿を黙って見送った。
ここは人を迎え入れるところであり、同時に送り出すところでもある。ここで暮らすほとんどすべての者は、やがて自分なりの何らかのものを掴み取り、高く羽ばたいていくために、いまはじっくりと自分を磨き上げているのだ。
彼らがそれぞれの道を見つけ、胸を張って巣立っていけることを、マレーネはいつも静かに祈っている。
親しくなった相手との別れには悲しさが付きものだが、ここは途中過程の場所なのだ。将来の良き別れを願うことこそ、彼らの幸福を願うことなのである。
親みたいなものだ、とマレーネは思う。そして一人、苦笑する。いつの間に自分の人生は、こんないろいろなかたちで親を務めるものになったのだろうか。
◆
雨はなおも強くなり、そして参ったことに、雷の音もどんどん近くなってきた。
閉じた窓を水の粒が容赦なく叩きつける。そして一瞬光が見えたかと思うと、ほとんど間隔を置かずに、猛獣の咆哮とも巨大な破壊音ともとれるような音が響き渡る。
いままさに雷雲がエルグランを通り抜けようとしているところだった。風もそこそこ強く、建物のあちこちが小さな音を立てている。
自身の恐怖もさることながら、マレーネは未だ姿を見せないタルカスのことがだんだん心配になってきた。
どこまで遊びに行ったのかは定かではないが、まっすぐ帰るようにという言いつけをきちんと守る気があるならば、もうそろそろ戻ってきてもいい頃だ。
となると、この雷雨の中を駆けずり回っているのか……それとも、どこかで雨宿りでもしているのか。
後者であることを願うばかりだが、前者を否定できないことにマレーネは頭を抱えた。雷の怖さは十分に教えてきたつもりだが、いまの彼の頭からはすっかり飛んでしまっているのかもしれない。
元気に育っていることに文句をつけるのは贅沢というものだが、元気であるがゆえに出会ってしまう不幸というのも存在する。
もし落雷なんてことがあったら――マレーネの脳裏にその発想がよぎったその瞬間。
いっそう強い光が窓を輝かせ――そしてほぼ同時に、神の裁きのような轟音が鳴り響いた。
体にぶつかる振動。思わずマレーネは小さな悲鳴を上げてしまう。
そしてそれを待ちわびていたかのように、マレーネの記憶の奥底から、消してしまいたいと何度思ったかわからない、あの日の出会いが浮かび上がってきた。雷雨と共に彼女の前に現れた、あの日のあの男の姿が。
◆
マレーネはこのエルグランで貿易商を営む夫婦のあいだに生まれた。
平民としては相当に裕福なほうであり、その意味では何らの苦労も知らずに育てられたのだが、一つだけ不満を言うことを許されるのであれば、彼女の両親、特に父親は、彼女に対して大変厳格な人物だった。
彼らはマレーネに淑女たることを強く求めた。
彼女は幼い頃から立ち居振る舞いを徹底的に仕込まれ、初等教育舎を卒業してからは、ろくに外に遊びに出ることも許されず、ひたすら花嫁修業に専念させられた。
マレーネを気品と良き妻たる資質の両立した娘に育て上げ、名高い家に嫁として送り出す――両親はそれを常に最優先に考えていたのだ。
二十歳のときに、マレーネは両親の定めた相手と結婚した。
相手の家柄は文句のつけようのないもので、両親の悲願は見事に果たされたと言える。
当のマレーネに何の不満もなかったかといえばそれは否だが、しかし逃げ出したくなるような嫌な結婚でもなかった。少なくとも事前に相手が彼女に示したものには、悪いものは一つとしてなかったのだ。容姿も言葉遣いも、態度もだ。
自由に結婚相手を選ぶことができないことはとっくの昔に覚悟していたから、その意味では、自分に許される範囲で良き道を引き当てることができたと思った。
あとは自分が努力を重ねて、幸福な家庭を築き上げればいいのだ――彼女はそれを心から誓った。
だが、それが楽観的に過ぎるものであることがわかったのは、それからすぐのことだった。
夫は結婚とほぼ同時に、態度を一変させた。
暴力を振るうようになったわけではない。暴言を吐くようになったわけでもない。
ただ、結婚前には少なくともかたちの上では見せていたはずの、マレーネへの興味をまったく示さなくなってしまったのだ。
夫はマレーネに、自らが所有する多数の物件の一つである下宿舎を任せると、彼女とはほとんど顔を合わせなくなってしまった。
二人が一緒になるのは、夫の仕事の関係でパーティーに参加するときくらいのものだった。それ以外はまるで未亡人のように一人きり。
その理由を推察できないことが、マレーネをおおいに悩ませた。何か自分に悪いところがあったのだろうかと考えようにも、悪いところを見せる機会すらないうちにこうなってしまったのだ。
奇妙であり、不気味でもあった。たまに顔を合わせたとき、夫は彼女に対して気を悪くしている素振りは一切見せなかった。つまり嫌われているのではない。ただ純粋に、彼は結婚と同時にマレーネを関心の届く範囲の外側に置いてしまったのだ。
その結果として――これこそがある意味でもっとも重要なことだったろう――二人のあいだには、たった一度しか肉体的な交わりが生まれなかった。結婚初夜のみだ。
いろいろと考えた末にマレーネが行き着いた結論は、もともと夫は結婚に――さらに言えば女というものに、興味がなかったのだろうということだった。
恐らく彼も彼で結婚について親の制約を受けていて、仕方なしに私と結婚してみせたのだ。
結婚前の彼がまがりなりにも積極的だったのは、私が結婚生活についての不満をすぐさま親に言いつけるような女かどうかを知ろうとする行動だったのだろう。そして彼はそうではないと判断したのだ。
それは正しい。現に私はこうして、親に打ち明ける気にもなれずにたった一人で悩んでいる――。
マレーネは気が遠くなりそうだった。
深い絶望とまでは言わない。親元にいた頃と同様、食うに困ることはないし、苦痛を伴うことを強制されるわけでもない。
しかしこのままでは自分が思い描いていた「良き道」からどんどん外れていってしまう。何もどうにもならないうちに年月は流れていき、年齢ばかりが重なっていってしまう。
若さは一度失ったら決して取り戻せないものだ。それをこんな風に何にも活かすことなく腐らせてしまうのは絶対に嫌だ。
どうにかなって欲しい。誰か私を輝かせて欲しい――彼女は声なき声を上げていた。
◆
――二年後。
その日は朝起きたときからすでに雨が降っていた。町はいつも以上に薄暗く、世界中の涙を集めてきたみたいに濡れていた。
マレーネは少なからぬ憂鬱を感じていた。体調は悪くはなかったが、今日という日を良い日にできる気がまるでしない、そんな朝だった。
昼になって雨が強くなり、雷が鳴り出した。
ほら、とマレーネは思った。やはり今日はろくなことにならない日だ。神様が私にいちだんと強い意地悪をするための日なのだ。そして私はそれを甘んじて受けるしかない。どこにも逃げ場所はないのだ。いまに始まったことではないけれど――。
からんからん、と出入り口のベルが鳴るのが聞こえた。
マレーネは自虐的な思考を振り払うように立ち上がり、音のほうへ向かった。どうせなら何か面倒な用件が舞い込んではこないだろうか。こんな日はむしろ、やることがたくさんあるほうが過ごしやすい。
……そこには、ずぶ濡れになった若い男が立っていた。
灰色の髪に、青い瞳。背はそこそこ高めといったところか。恐らくはマレーネと同い年……いや、歳下。
美しい顔立ちをしているなと彼女は思った。中性的な美。かといって弱々しさは感じない。あくまでれっきとした男性としてそこにある。
それでいてどこか儚げに映った。何か大切なものを失くして深く傷つき、その埋め合わせを求めてさまよっている――そんな風に感じられた。
「……ここは、下宿舎だよな?」と男は言った。
「そうです。どのようなご用件でしょうか?」
「いま、部屋は空いているかい?」
「はい、二部屋ほど」
「そうか――じゃあ、ここに住まわせてくれねえか?」男はそう言いながら、目元にかかった濡れた前髪をかき上げる。「こんな日にこんななりで急に現れて怪しまれるかもしれねえが、とりあえずの金は持ってる。この町に来たばかりでまだ仕事はねえが、すぐに見つける。迷惑はかけない」
それなりの事情が存在することをマレーネが推測したのは言うまでもない。
明確な目的があってこの町にやって来たのか、流れ流れて辿り着いたのか、その辺りはわからなかったが、そこには自分の人生にはない種類の苦労が感じられた。
このときの彼女は、怪しむより先にまずその苦労のことを思い、気の毒に、という感想を持った。
……認めないわけにはいかないだろう。そこには少なからず、男の顔立ちや雰囲気からの安直な判断も含まれていた。
「――とりあえず、体を拭きましょう。濡れたままでは」
マレーネはそう言っていったん奥に引っ込み、手拭いを持って男のところに戻る。
そしてそれを手渡そうとしたそのとき――この日いちばんの雷が、空間を切り裂くように辺り全体に鳴り響いた。
「きゃあ!」
マレーネは思わず悲鳴を上げ、男の胸に飛び込んでしまった。
……自分がはしたない真似をしていることに意識が向いたのは、数瞬置いてからのことだった。
マレーネはいま自分がしなだれかかっているものが何なのかを思い出すと、突き押すようにしてそこから自分を引き剥がした。
「ご、ごめんなさい」
「……心配ない」と男は言い、その整った顔をゆっくりと笑顔のかたちに変えた。「雷は危険なもんだ。俺みたいに怖がらないほうがたぶんおかしい。あんたの反応が正しいんだよ。……それ、貸してくれるかい?」
男はマレーネが手に持ったままの手拭いを指差す。
「あ、はい、どうぞ」
マレーネはややぎこちない仕草でそれを差し出す。
男は――受け取るのと同時に、彼女の手を両手でぎゅっと包み込んだ。
柔らかくて大きな手。マレーネの胸がとくんと一つ脈打つ。こんな風に男に手を握られたのは初めてのことだった。夫ですら彼女にこのようなことをしたことはない。
「ありがとな」
男は手拭いを受け取って、顔と頭を簡単に拭く。それから人心地ついたという風に大きく息を吐くと、ぼうっと自分を見つめたままのマレーネに気づき、ガラス細工のように微笑んだ。
「美人さんだな。すげえ綺麗な金髪だ。あんたみたいな人がやってる下宿舎なら是非とも世話になりたいんだが……いいかね?」
「は――はい」マレーネは操られているかのようにそう答えた。「人が入る予定はありませんから、大丈夫です。案内しますのでついてきて下さい。こちらです」
マレーネは男を部屋に連れて行くために奥へと振り返る。
男に無防備な背中を晒しているのが何だかとても恥ずかしい気がして、顔が熱くなるのを感じた。そしてそのことで、大切なことを聞き忘れていることにようやく気がつき、再び男のほうを見た。
「あの、私はマレーネといいます。あなたのお名前は?」
「俺は――トライトンっていう者だ」と男は言った。「よろしく頼む、マレーネ」
◆
トライトンは掴みどころのない男だった――少なくとも当時のマレーネにはそういう人物に感じられた。
陽気でもないし陰気でもない。饒舌でもないし寡黙でもない。そして怪しげなようでいて、約束通りにすぐ仕事を見つけてきた。宝石亭という酒場の下働きだ。
ただ、明らかな点が二つだけあった。とても美しい男であることと、マレーネに対しては特に優しげに接してくることだ。
それまでのマレーネの人生において、トライトンのような男ときちんと接する機会は一度もなかった。
結婚する前は同年代の男と仲良くすることなど親が許してくれなかったし、結婚してからは有力者の妻である。
例え彼女に対して好感を持っていたとしても、それを直接にぶつけてくるような命知らずな男はどこにもいなかった。彼女もそれが当たり前だと思っていた。
しかしトライトンはそういうことをまるで意に介さなかった。
出会って間もなく、実は私は結婚しているんですと告げ、夫の立場を嫌味にならないようそれとなく伝えたのだが、そんなことはどこ吹く風といった反応だった。
彼はその後もマレーネを明らかに一人の女として扱っていたし、彼女の前ではことさらに良い男であろうと努めているように窺えた。
……マレーネが次第に彼に惹かれていったのは、様々な要素の絡み合いを考えれば、至極当然のことだったと言えるだろう。
二人が初めて肉体関係を結んだのは、暑い夏のことだった。
かつて一度夫を受け入れたことがあるだけのマレーネを、歳下のトライトンは優しく導いてくれた。
そのときはまだ痛みがあってうまく繋がることができなかったが、マレーネは初めて恋した男に生まれたままの姿を晒し、全身をくまなく愛撫されていること、それが夫ではないことに、かつて感じたことのない恍惚を感じた。
快楽と背徳感と罪悪感の混ぜものが、彼女の頭を真っ白にした。二人は汗だくになって一晩中睦み合い、お互いがもうべつべつの個体ではないことを確かめあった。
ベッドの中で、マレーネとトライトンはお互いの半生を語り合った。
トライトンのそれは、マレーネにとっては本当に悲劇的だった。戦火で両親を失い、初等教育舎を辞して孤児院へ。その孤児院で誰とも馴染むことができず、十三歳という若さでそこを飛び出し、あちこちを放浪する生活を始めたという。
悪事にも手を染めてきたと彼は告白した。自虐的な笑いがあまりにも痛々しく、マレーネは裸の胸に彼の頭を抱き寄せ、同情の涙を流した。
このとき、マレーネは二十二歳。トライトンは十九歳。
もし発覚したら世間からはどう映るのだろう、とマレーネは思った。金持ちの妻をたぶらかした流れ者の色男、という筋書きだろうか。あるいは、流れ者の色男をたぶらかした金持ちの妻、という筋書きだろうか。
でもどちらも不正解である、と彼女は言いたかった。二人は出会うべくして出会い、愛し合うべくして愛し合った。ただそれだけだ、と。
二人の関係はより強固なものになっていく。
万が一にも明るみに出るようなことがあってはならなかったから、二人でどこかへ出かけることは一切しなかったし、人目のあるところでは当たり障りのないやり取りしかしなかった。
それが余計に二人の恋を燃え上がらせた。
夜になると、昼のそっけなさを埋め合わせるかのように二人は濃密にお互いを貪り合った。
後々考えれば恐ろしいことなのだが、マレーネはトライトンの種を受け止めることをまったく躊躇していなかった。いま子供ができたら、夫には確実に浮気を悟られる――そんなことは考えるまでもないことだったのだが、彼女は止まれなかったのだ。
トライトンがそれで満たされるのであれば全然構わなかったし、彼女自身も、トライトンのすべてを受け止めることにこの上ない悦びを抱いていた。
その交わりは次第に過激になっていった。
始めのうちは交わる場所はマレーネの部屋と決めていたのだが、二人はより強い刺激を求め始めた。
他の住人が寝静まったあと、裸のまま広間まで行き、そこで愛し合ったことは数知れない。
極めつけは、珍しく夫が下宿舎を訪れた日のことだ。
隣の部屋で帳簿等の確認をしている夫を尻目に、マレーネは部屋の扉を開け放ったままトライトンと行為に及んだ。トライトンも熱くなっており、マレーネは普段より激しく突き上げられ、声を殺しきることができずに中途半端な絶叫を何度となく発した。
もしかしたら夫は気づいていた可能性もある。気づいていた上で、興味が湧かなかったのかもしれない。
何にせよ彼女は他ならぬ自分自身に驚いていた。まさか自分がこんなことを楽しむことのできる女だったなんて、トライトンと出会うまでは想像することすらできなかったのだ。
――そんな生活が一年ほど続いたあるとき、マレーネの運命は急転する。
仕事で遠出をしている最中の夫が――乗っている馬車ごと崖から落下して死亡した、との報が彼女の元に届いたのだ。
そのときの彼女はもちろん驚愕したわけだが、悲しみの代わりに抱いたのは、これは自分のせいなのか? という発想だった。
自分のしでかした罪に対する罰が、何らかのかたちでねじれて夫を直撃してしまったのではないか――彼女はそういう風に考え、混乱したのだ。
そしてそこに、さらなる出来事が重なった。
身ごもっていることがわかったのだ。
言うまでもなく、トライトンとの子である。夫と交わったのは初夜の一度限りだ。そして他の男とは一切接触していない。
周囲の人間はマレーネに同情すると共に、このような言葉をかけた――旦那さんのことは非常に残念だ。それについては言葉もない。だが不幸中の幸いというべきか、彼はあなたに未来を託していった。あなたのお腹にいる子は、彼の忘れ形見だ。是非とも元気な子を産んで、誰に対しても誇れる立派な大人に育て上げて欲しい。あなたにはそれができる。
……マレーネがそのような言葉を受けて、どれほど罪悪感に押しつぶされそうになったか。
彼女は自分の頭の中がぐちゃぐちゃになってしまったように感じた。どうすればいいのかわからない。何もしなければ物事は自然と流れていき、自分は母親になることになる。でも生まれてくる子供を見れば、すべてわかってしまうのではないか? そのとき自分はどう言い繕えばいいのだろう? いや、そもそも言い繕うことが正しいのだろうか? すべてを告白するのが正しい道なのではないだろうか――。
トライトンはそんなマレーネに対して、怯えるな、俺が何とか良い方法を考える、と言い続けた。
それはとても曖昧で、他人が聞けば口先だけのものであることはすぐわかっただったろうが、そのときのマレーネにとっては唯一の拠り所であった。
彼女は哀れにもその曖昧な言葉にすがるしかなかった。トライトンが何か良い方法を考えてくれる。トライトンが――。
――そのトライトンが、それからほどなくして姿を消す。勤め先の宝石亭から、大金を持ち逃げして。
今度こそマレーネの側に立つ者は一人もいなくなってしまった。
いや、正確に言えば皆がマレーネに同情的であり味方であったのだが、その者達を裏切ってしまったマレーネは、実質的に一人きりだった。
何を言うべきで何を黙っているべきなのか、ひたすらに悩み苦しむあいだにも、胎内の赤子は着々と大きくなっていく。
気持ちの沈みから病に倒れなかっただけでも儲けものだった。事がどう運ぶにせよ、子供だけはしっかり守りたかったから。
……結局、誰に何を言い出すこともできないまま、マレーネは赤子を出産する。
幸いなことに――と言うべきだろう――生まれてきたのは男の子で、マレーネにそっくりの目鼻立ちと、金髪に青い瞳を持っていた。
少なくともその見た目で父親について疑いを持つ者は誰もいなかった。
その流れが、なし崩し的にマレーネに決断をさせた。
このままでいよう。神様は許してくれないかもしれないし、いつか自分には天罰が下るかもしれない。
でも子供のためにも無用な混乱は招かないほうがいいし、何より――もしこう主張することが許されるのなら――私はこの子と二人、穏やかに生きていきたい。
マレーネは夫の財産のうち下宿舎だけを受け継ぎ、それ以外を彼の両親や仕事上の相棒達に引き渡す。
そして子供をタルカスと名づけ、下宿舎でこれまで通りの生活を営み始めた。
両親は再婚を勧めてきたが、彼女は耳を貸そうとはしなかった。
もう二度と男に関わらない、と誓うわけではない。しかし当面は、よく知らぬ相手と結婚することも、ひとときの衝動のままに恋に走ることも必要ないと思った。自分にはタルカスがいる。とりあえずそれで十分だ。
――そして八年の歳月が流れた。
◆
天罰、とマレーネは思う。もし私に対する天罰が、私の命を奪うことではなくて、私の周囲の人間の命を奪うものであるのなら――。
夫の次に……息子?
また一つ雷が強く鳴る。マレーネの心臓は二重の意味で跳ね上がった。その轟音と、この上なく不吉な発想と。
探しに行こうか――マレーネがそう思ったとき。
からんからん、と呑気なベルの音がした。
マレーネが出入り口を確認する。
そこには勝手知ったる二人がいて、軽く息を弾ませながらびしょ濡れのまま笑い合っていた。鉄砲玉のような息子と、現在の下宿舎でもっとも可愛らしい住人。
「リューリィ」とマレーネは言った。「その子と鉢合わせしたの?」
「私は図書館に行っていたのですが」と黒髪の先から水滴をぽたぽたと垂らしながらリューリィは答える。「帰ろうとしたら、出入り口のところで彼が雨宿りしていたのです。それで、二人でしばらく止むのを待っていたのですが、止むどころか強くなる一方で……。じゃあ濡れて帰ろうかということで、このようなことになりました」
「雷、危なかったんじゃないの?」
「たぶん大丈夫だろうと話し合ったのですが――確かに危険はあったかもしれません。息子さんも一緒なのに、無責任な決断をしたかもしれません。申し訳ありません」
「リューリィは悪くないよ」とタルカスが庇う。「雷なんて全然怖くなかったし!」
はあー、とマレーネはいろいろな感情のこもった溜め息をつく。やはりこの子の頭からは、これまでさんざん覚え込ませてきたはずの知識が飛んでいる。
「まあとにかく、二人共お帰りなさい。……ところで何で裸足なの?」
見れば、リューリィもタルカスも、自分の靴を手に持って裸足で突っ立っている。
「その、彼が靴の中がぐしょぐしょで気持ち悪い、裸足になりたい、というものですから」
「あんたも付き合ったわけね?」
「はい。裸足でいるのは私も好きなので」
「怪我とかしなくて何よりだけどね。とにかく着替えよう。間違っても風邪なんか引くんじゃないよ」
◆
着替えて落ち着いた二人に、マレーネは厨房で紅茶と手製の菓子を振る舞う。
タルカスはがつがつと、リューリィはさくさくと菓子をつまんでいった。まるで違う種族みたいだ。
「仕事のほうは順調なの?」とマレーネはリューリィに訊ねた。「ここに来たのと同時に始めたんだよね。じゃあもう一年は経ってるのか。頭で考えずにきびきび動けるようになってくる頃かな?」
「そうですね、わからないことに出くわすことはほとんどなくなりました」リューリィはそう答えてから紅茶を一口飲む。「お客さんの相手をするお仕事をしたことがなかったので、最初は大変でしたが、お陰様で」
「前祭はどうするのかな。宝石亭はずっと忙しくなりそうだけど、三日間全部出るわけじゃないよね。騒ぎを楽しむ日もちゃんと用意してある?」
「そのあいだはべつの用件がありまして、前祭と式典の合わせて四日間は休ませて戴くことになりました」
「そうなんだ。休みはするけど、楽しめる余裕もあまりないって感じかな? 少しは暇ができるといいね」
マレーネがそう言うと、リューリィはそうですね――と応じて、また紅茶を一口飲んだ。
マレーネの淹れる紅茶を彼女はいつも絶賛してくれる。この少女ほど人の目をまっすぐに見て褒め称えてくる人物を、マレーネは他に知らない。
まだ十六とはいえ、働いて自活している身である。世間知らずというわけではない。持って生まれた純粋さなのだろうなと思うと、マレーネは目を細めてしまうのだった。世の中にはそういうものを奪おうとする物事がたくさんあるが、できればいつまでも変わらずにいて欲しい。
「マレーネさんは……というかタルカスさんは」とリューリィが言った。「前祭、いろいろ見て回るんですよね。人混みがちょっと危険そうですが」
「見るよ。危険じゃないし」タルカスが反応する。
「危険の意味わかってるのかねこの子は。人があまりたくさんいるところは、危ないから行かないよ。それから、お母さんと一緒じゃなきゃ絶対に駄目だからね。わかってる?」
「わかってる!」
タルカスは景気良く返事をする。
嘘を吐いているわけでないことは母親としてよく理解できるのだが、問題は、肝心なときにそれを忘却してしまうかもしれないことである。
朝から晩まで付きっきりというわけにはいかないが、それに近いことをしなければいけないかもしれない――マレーネは気を引き締める。
そんな親心をよそに、タルカスは勝ち誇ったようにリューリィに笑いかける。彼女もにこりと微笑み返し、それからマレーネを見て言った。
「まあ、大きなお祭ですから……あちこちから来た人達で町が溢れ返るところを見るのも、一生の思い出になるのではないかと思います」
「わかるけどね。でも私はそういう特別な日より、普通の日が輝いているほうがいいね。例えばだけどさ、お祭よりも晴れが欲しい」
「晴れ、ですか」
「そう。私が子供の頃は見られたんだけどね――まあ戦争があったあの頃に戻りたいとは思わないけど。晴れた空は良いもんだよ。気持ちもすっきりする。いまはだいたい毎日同じどんよりした空で、たまに変わるとしても今日みたいなことになる。魔人の呪いだっていうけど、そろそろ終わってもいいんじゃないかねえ。二十年は長いよね」
「私にとっては生まれる前ですから、長いというのはよくわかります……私はエルグランの生まれではないですが」
「故郷の空が懐かしくなったりする?」
リューリィは少し考えて口を開く。「少しあるかもしれません。でもこの町は好きですし、いまはこの町の空が私の空ですから」
「若いって良いねえ」マレーネは笑う。「いずれにしろ、もうすぐ大騒ぎだ。できればそのあいだは雨なんか降らないでいれくれるといいね」
「雨が降ったら、お祭に出かけちゃ駄目?」
「駄目」
マレーネにぴしゃりと言われ、タルカスは不安そうに窓の外を見る。そして小さく、降らないようにするの、どうすればいいのかな――と呟いた。
「神様にちゃんとお祈りしないといけませんね」とリューリィがタルカスに言う。
「お祈りすれば降らない?」
「お祈りがしっかり届けば、きっと降りません。……あ、でも、降りますようにとお祈りしている人もどこかにいるかもしれませんね。そうなったら競争です」
「じゃあ俺、負けないようにお祈りする!」
タルカスは力強く宣言する。そうして下さい、と微笑みながらリューリィが菓子をつまみ、さくりと歯を立てる。
私も祈ろう、とマレーネは思った。どうか悪いごたごたが起きませんように。起きてしまってもタルカスが巻き込まれるようなことがありませんように。……どうしても天罰が下されなければならないのであれば、他の誰かではなく、私自身に下されますように。
許されるのなら、このままずっとやっていけますように。
――前祭まで、あと十日を切っている。
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