第五章 フィアッカとトライトンと歴史と宝石

 神聖グランダリア帝国から西方へ国を二つ挟んだところにラストラス共和国があり、その中心近くに、大陸を支配するミラリア教の聖地ルクレツィアがある。


 九九九年前――聖暦をまったく正確なものであるとするならそういうことになる――この地にミロアという一人の少年が住んでいた。

 彼は貧しい羊飼いの子で、読み書きもできなかったし、少し目が不自由であったとも伝えられている。

 当時は現代に輪をかけて貧しい者の占める割合は多かった。どれだけ働いても彼らの暮らし向きが豊かになることはないし、それをどうすることもできないことを皆が当たり前だと考えていた。

 彼もそんな、ごく普通に貧しく、ごく普通にそのまま死んでいくことが定められている人間のはずだった。


 しかしあるとき彼は、村の外れの洞穴で迷子になる。

 その洞穴に何をしに行ったのか、なぜろくな準備もなしに奥深くまで行こうとしたのかはわからない。ともかく彼は迷い、松明一つだけを頼りに、何が生息しているかもわからない洞穴の中を出口を求めてさまよっていた。

 洞穴は複雑に入り組んでいて、正しい道への手がかりとなるものも何もなかった。村の誰も、それまでまともに中を探索したことがなかったという。その理由についても確かな記録はない。有力な説としては、村固有の民間信仰があって、彼らにとっては禁断の地だったのだ、というものがあるが、だとすればますますミロアがそのとき洞穴に向かった理由が謎になる。


 ミロアはさんざん歩き回った末に、開けた空間に辿り着く。

 周囲には二十を超える細道がムカデの足のように繋がっており、そこはまるで洞穴の核として用意された特別な場所のようだった。

 そこには地面と同じかそれ以上に平らな広い壁面があり――ミロアはそこに、びっしりと何かが刻まれているのを見た。


 彼は読み書きができなかったと前述した。

 だがこの世に文字というものがあることは彼もわかっており、だからこのとき彼は単純に、壁いっぱいに文字が書いてあると考えた。読み書きのできない自分が来てしまったことを、何か間違ったことのように感じたという。

 しかし後々になって明らかになることであるが、そこに刻まれていたのはその当時の人々が使っていた言語ではなかった。

 ――現代においても、それが何を記述したものなのかは明らかになっていない。未知の文化の遺産であると言われているが、他にそのような文化の名残と思われるものは一つも発見されていない。歴史学上、その壁だけが異質なのだ。


 ミロアは奇妙なほどその壁に惹きつけられた。

 かつて体験したことのない種類の力強さをその壁から感じたが、怖いとは思わなかった。彼はゆっくりと近づいていき、松明を持っていないほうの手をそっと壁に押し当てた。

 ――その瞬間、彼は神の言葉と出会った。


 ◆


「――いわばその瞬間に、ミロアは聖人となったのです」と伝達の壁の前でフィアッカは説明する。「彼はその一瞬のあいだに、神との対話を果たしました。この世のあるべき姿を教えられ、そのために自分が何を果たすべきなのかを教えられました。いずれも聖典に記されている通りです」


 引率してきた六人の観光客が、壁に書かれた誰にも読めない文字を見ながら、はあー、と感嘆の声を上げる。一人の婦人は少し涙ぐんでいた。きっと深い信仰を持っており、感極まったのだろう。


「いまやミラリア教は大陸全土に広がり、人々の心を導いておりますが、すべてはここから始まったものなのです。もしそのときミロアが洞穴に迷い込まなかったら? もしこの壁に触れることがなかったら? ……そのような疑問を持つこともできるでしょうが、法王庁の公式な見解はこうです――それらすべては神の思し召しであり、すべては必然であったのだと。だからミロアも、その日洞穴に入った理由を語らなかったのでしょう。それは人の動機で説明できるものではなかったのです」


「他にも、壁に触れた者は大勢いるのですよね?」と中年の男性観光客が問う。

「はい。いまではこのように、壁に触れることは禁止されておりますが、過去にはそのような決めごとはなく、ここに来る者は誰でも触れることができました。しかし神の言葉を受け取れた者は他に誰もいません。ミロアが存命だった頃、彼に反感を持つ者がここに来て壁に触れ、何事も起きないことを指して、彼を詐欺師呼ばわりしたこともあるそうです。皆から一笑に付されて終わったようですが……」

「いつの時代にもそういう人間がいるのねえ」と涙ぐんでいた婦人が言った。


「本来ならば皆様にも自由に触れて戴くのがよいと思うのですが、近代のルクレツィアは、時の流れと共に姿が移り変わっていくことと、古く貴重なものを遺すことのあいだでせめぎ合っておりまして。その一環で、この伝達の壁も触れることを禁止させて戴いております。どうかご理解下さいますようお願い致します」

「仕方のないことだね」と年老いた観光客が頷きながら言った。「私などからすればありがたいことだよ。こうして歴史ある貴重なものを、できる限り同じかたちのまま遺す努力をしてくれるのはね」

「ありがとうございます」とフィアッカは丁寧に礼を言う。「それでは他にご質問がなければ出るとしましょう。少し休憩を挟みまして、次は古代の礼拝堂へ向かいたいと思います」


 ◆


 ラストラス共和国のとある農村に生まれたフィアッカは、幼い頃から親の手伝いをし、誰かの嫁になって一生を村で終えることを当たり前のこととして期待されていた。

 それが一変したのは、十歳のときに引退した学者が村に移り住んできて、子供達に読み書き計算を教え始めたからである。

 その学者との相性が良かったためか、生まれ持った気質のためか、フィアッカは学習にのめり込んだ。初めて本と名のつくものに書かれた一文を読めたときの感動を、彼女はいまでもよく覚えている。


 歴史に関わる仕事を意識するようになったのは、十三歳頃のことだ。

 神聖グランダリア帝国の教育制度を知ったのもその頃である。かの国では国民は皆、七歳になると初等教育舎というところに所属し、六年ほどかけて学問の基礎を学ぶとのことだった。

 自分とのあまりの境遇の違いに愕然とすると共に、もし先生が村に来なかったらそれすら知らずに一生を終えていたのだということに、怯えのようなものさえ抱いた。


 当然の成り行きとして将来のことで親と喧嘩になり、十五歳のときにフィアッカは家を飛び出し、ルクレツィアに移った。

 もちろん何のあてもなかったのだが、そのことよりずっと、村で何の花も咲かせられない時間が経過していくことのほうが怖かった。

 幸運にもとある豪商の使用人として拾われたのだが、いまにして思えば、その話に何の裏も感じずに飛びついて、そして実際に何の裏もなかったのは幸運どころではなかったなと思う。

 ともあれフィアッカはそこで真面目に働きながら独学を続けた。その時点では彼女の目標はまだ「歴史に関わる仕事」という曖昧なものであり、どこか具体的な地点に向かってまっすぐ進んでいるとは言い難いものだった。


 歴史歴史と公言しながら仕事を続けていたのが幸いしたのだろう。フィアッカの雇い主である豪商は、彼女が十九歳のときに、歴史案内人の仕事を紹介してくれた。

 歴史案内人とは、聖地たるルクレツィアに巡礼という名の観光にやって来る者達に、各所を案内し、その歴史的経緯を解説する仕事だ。紛れもなく、歴史に関わる仕事の一つである。

 使用人の仕事を円満に辞し、フィアッカはありがたく紹介された仕事に就いた。


 ――それからもう六年になる。


 このあいだにもフィアッカは独学を続け、歴史に関する理解を深めている。

 仕事を通して歴史学者や考古学者とも知り合い、半ば師事するようなかたちで知識を授かることも増えた。

 案内人の仕事は充実しているし大きな意義を感じてもいるが、彼女はそれだけで一生を終えようとは思っていない。やがては何らかの大発見に携わりたいと思っているし、もし可能ならば何かを書き残してもみたい。

 古いものを尊ぶことは、人を尊ぶことだとフィアッカは思う。

 だから埋もれて見えなくなっているものには光を当てたいし、都市開発や採掘のようなことで先人の遺産が崩されてしまうことには断固として反対したい。

 たくさん学んで、たくさん行動するのだ。きっと私はそういう風に生きるよう神様に導かれたのだ。


 ◆


 その日、フィアッカの案内人の仕事は午前のみだった。午後からはとある研究家の家に資料整理の手伝いに行く予定だったが、約束の時間まではまだだいぶある。かといって一度家に帰ってくつろぐには些か短すぎる休憩時間で、どうにも持て余してしまう風であった。

 快晴の旧市街。夏まではまだ日数があるが、この時期の太陽の強さはなかなか馬鹿にできないものがある。外を歩いているとじわりと汗をかく。

 とりあえず彼女は休憩するために行きつけの店に入った。


「いらっしゃい――ああ、フィアッカ」と店主はにこやかに言った。「仕事終わりかい? 相変わらず綺麗な髪だ。今日みたいな日はなおのこときらきらしてる」

 フィアッカはこの辺りではあまり見られない、ややくすんだ金髪と青い瞳を持っている。その髪を長く伸ばして後ろで三つ編みにしているのだが、そうしているとしばしば挨拶のように髪を褒められる。

 彼女もそれを悪いようには思っていないから、手入れを惜しまずに長い髪を維持している。そういうところの受けの良さから広がるものもあることを、彼女はルクレツィアに移り住んでから少しずつ学んでいった。


「ありがとう」とフィアッカは微笑み返す。「午後からはべつの用事があるのだけど、それまで中途半端に時間が空いてしまって。ここで時間を潰そうと思うのだけど、構わないかしら」

「大歓迎だよ。幾らでも好きなだけいてくれ。まあ、一品くらいは何か注文してくれるとありがたいがね」

「もちろんよ。でもお酒はなしね。これからまだ一仕事あるわけだから」


 小じんまりとした店で、いまにも潰れてしまいそうなのだが、なかなかどうしてしぶとく生き残っている。

 店主に聞いたところによれば、彼は二代目で、店ができたのはフィアッカが生まれるよりも前であるらしかった。

 そのあいだ、もっと華やかでいかにも儲けていそうな店が意外にもあっさり畳まれ消えていくのを尻目に、このささやかな空間は大きくも小さくもならないまま静かに続いてきたという。


 フィアッカは軽めの料理を注文し、いつも座っている席に着く。その席に特に意味があるわけではないが、何箇所か試してみた結果として、彼女はそこを自分の席とすることに決めたのだった。そして一度決めてしまうと、そこを選び続けることで居心地の良さが増していく。


 出入り口の扉が開き、新しい客が入ってくる足音がした。

 他人事ながら、自分以外にもちゃんと客がいるのだということがわかると安心する。自分一人で貸し切りのように利用するのも快適だが、店の存続を考えるならば、それなりに他の客からも稼いでいるのだということをやはり確認したくなる。

 フィアッカは何とはなしにその客の様子を耳で追っていた。特に興味があったわけではないから、思い切り気が抜けていた。


 ――だからだろう、酒とつまみを注文するその男の声を聞いたとき、フィアッカの心臓は少なからずどくんと跳ねた。

 反射的にその男性客のほうを窺う。

 ちょうど相手もこちらの存在を認めたところだった。二人は図らずしてお互いの顔を見合わせる結果となった。


 少しの沈黙。


 やがて男はカウンターから離れ、他に選択肢はないといった風にフィアッカのいる卓へと近づいてきた。

 赤の他人としてはやや近すぎる距離まで詰めると、男は静かに口を開いた。温かくも冷たくもない声がそこから発せられる。

「ここ、いいか?」

「……どうぞ」


 フィアッカも同じような温かくも冷たくもない声で答えた。男はそれを聞き届けてから、ゆっくりと彼女の真正面の椅子に腰かける。

 正しいやり取りだ。だがフィアッカには、もし自分の返答が逆であってもやはり男はそこに座っただろうという確信があった。この男にはそういうところがあるのだ。


「久しぶりだな」と男は言い、微笑みの一歩手前のような表情を浮かべた。

「そうね」とフィアッカは応じる。冷たくあしらうのは簡単だが、自分からそうするのは何かに負けたような気がしてできなかった。「実際のところは、何度か町中であなたらしき姿を見かけたことがあるのだけど。でもこの場合、その表現で正しいと思うわ――久しぶりね、トライトン」

「そういうものの言い方が全然変わってねえ」と男――トライトンは今度こそはっきりと笑った。「元気そうで何よりだ。結構気にしてたんだぜ? ちゃんとやってるかどうかってな」


「どこまで信じたらいいのかしら」フィアッカはこれをいった表情を作らずに言う。「いまのいままで私のことなんて記憶のいちばん片隅に追いやられていたのではないかしら。それに、ちゃんとやっているかどうかが問題になるのは、絶対にあなたのほうよ。私のほうこそ気になっていたわ。ちゃんと食べて、ちゃんと眠っているの?」

「子供か俺は」

「自制の利かないところは子供みたいなものよ。あれから少しは成長したというのなら安心できるのだけど」

「まあ、ぼちぼちってことにしておくよ。いずれにせよ、俺は俺だ」


 フィアッカの料理と一緒に、男の酒とつまみが運ばれてきた。二人の会話はいったんそこで途切れる。

 フィアッカが料理に手をつけるのを見届けてから、トライトンは酒をグラスに注いで半分ほど勢い良く飲んだ。

 ……その仕草は昔とまったく変わっていない。確かにトライトンはトライトンだ。フィアッカはほんの少しだけ懐かしさを覚えたことに、悔しさのようなものを抱く。


「仕事も順調そうだな」トライトンは独り言のように言った。「きっとあの頃よりずっと板についているんだろうな。といっても俺はお前が仕事しているところを、そういえば見たことがねえんだが」

「順調と言っていいわね」

「……男はできたのか?」

「……ええ」


 フィアッカが小さく答えると、トライトンは酒をぐいっとあおり、つまみをひょいと口に放り込んだ。

「それも何よりだな。お前に言うだけじゃなくて、相手の男にもそう言ってやりたいね。あの頃言ったことをお世辞みたいに思ってるかもしれんから改めて言うが、お前を抱くってことは男にとって本当に幸運なことなんだぜ」


「……そういうのやめてくれる?」フィアッカはことさら静かに言う。

「満足のいく抱かれ方はしてるか? 腹の底から鳴けてるなら大変結構だが」

 その質問に答える代わりに、フィアッカは黙ってゆっくりと料理の続きを楽しんでみせた。

 繰り返すようだが、冷たくあしらうのは簡単である。しかしいまトライトンはまさにそれを引き出すべくからかってきているのだ。

 乗ったら負けである――べつに何の勝負をしているわけでもないのだが。


「あなたの仕事はどうなの?」とフィアッカは訊ねた。「また何か後ろ暗い仕事をしているのではないでしょうね」

「どう思う?」

「――まっとうに働いていると思いたいわね。これは私の願望」

「他人や法律がどう思うかはわからねえが」そこで言葉を止め、トライトンはグラスをすっかり空にする。「俺はいま、ちょっとした貴重品の売り買いに関わってる。まあ要するに、売り方をわかってねえ奴から買って、買い方をわかってねえか、あるいは直接買うわけにはいかねえ事情のある奴に売る仕事だ」


 その言い方で、非合法か少なくともそのすれすれのことをやっていることは容易に推察することができた。

 ……相変わらずなのか。フィアッカは顔に出さないまま落胆する。

 それにしても――貴重品。ルクレツィアで扱われる貴重品と言えば、何と言っても。

「……ネフェルマリン?」


 フィアッカはじっとトライトンの目を見た。彼は肯定も否定もしないまま、グラスに酒を注ぎ、間を置かずに飲み干す。

 肯定、とフィアッカは受け止めた。


「最近、ネフェルマリンの採掘場がどんどん拡大されているの。採掘量を増やすという判断のようなのだけど、そのことで町のかたちはどんどん変わっていくことになる。古いものがどんどん追いやられていく」

「何もねえ鉱山だぜ?」

「それでも、昔のかたちを保った地形であることには変わりはないし、そこに何が眠っていないとも限らないでしょう? ネフェルマリンの採掘は過去を消し去ってしまうの」

「そいつを俺に言われても、どうしようもねえな」トライトンはつまみを口にする。「俺はべつにそういうことを決める仕事をしてるわけじゃねえ。そういうのはどこかのお偉方に言ってやれ。俺はもっと下の下のほうであれこれやってるんだ」


 それ自体は正論であるから、フィアッカは特に何も言い返さなかった。

 代わりにトライトンの言う仕事の内容を想像してみた。

 恐らく、採掘場の現場監督に金を握らせて出入りし、そのままならば国が買い取ってしまうような原石を作業員から買いつけ、それをどこかの金を持った好事家に売るのだろう。あるいは研磨の依頼にまで関わっているのかもしれない。


 当然ながら違法行為だ。ネフェルマリンは特別だから、なおさらに。

 しかしもちろん、ここでトライトンに何を言っても、彼は足を洗うことはすまい。あれからまだ変わっていないというのなら、もうこの人は一生変わらないのだろう。


 会話が止まり、二人は黙ってお互いの料理と酒を口に運び続けた。

 フィアッカはもうこれ以上いまのトライトンについて知りたいとは思わなかったし、トライトンのほうも何か訊きたそうな素振りは見せなかった。

 先に注文の品を空にしたのはトライトンのほうだった。彼は昔から酒を飲むときは短い時間で一気に飲むのだ。


「……じゃあ、俺はもう行くぜ」そう言ってトライトンは立ち上がる。

「体には気をつけてね」

 自分の料理から目を離さないままフィアッカは言った。過去となった人間に贈る、本心からの言葉だった。

「そうするよ」と頭上からトライトンの笑いの混じった声が聞こえた。「体が資本だ。逆に言えば体さえまともなら何とかなる。俺はそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくよ――じゃあお前も元気でな、フィアッカ」


 ◆


 聖地案内人の仕事を初めて一年が経った二十歳のある日、フィアッカはトライトンに出会った。

 そのときは違う店だったが、やはり同じように、フィアッカが食事をしている席にトライトンがやって来て、座っていいかと訊ねてきたのだ。

 彼女は多少面食らいながらも了承した。いまにして思えば若さゆえの安易な判断だと思うのだが、彼の整った綺麗な顔立ちと、どこか儚げな雰囲気に、少なからず心が踊ったのだ。


 世の恋人達がそうであるように、二人はそれをきっかけに頻繁に会話を交わすようになり、一月も経たないうちに恋仲と呼ぶ以外にない間柄になった。

 激しく燃え上がるような恋であったことを、フィアッカは認めざるを得ない。少なくとも彼女がトライトンを求める情熱は並大抵のものではなかった。

 二人は同じ部屋で暮らしていた。仕事で彼と一緒にいられない時間がたまらなく苦痛で、帰るなりまるで彼から生命力を分けて貰うかのように彼にべったりとくっついて離れず、眠ることも忘れて体を重ねた。

 休みの日には昼も夜もなくひたすら交わり続け、一日中生まれたままの姿で、食事もろくに摂らないこともしょっちゅうだった。

 明らかに生活が崩れていた、とフィアッカは当時を思い返す。初めての恋に歯止めがかからなかったのだ。


 それが落ち着き始めたのは、残念ながら自力で理性を取り戻したからではない。トライトンの仕事に、いろいろと胡散臭いものがあることを知るようになったからだ。

 違法賭博の仕切りや禁制品の売買――それらはフィアッカが嫌悪する闇の世界に属するものであり、愛する人がそのような世界に足を突っ込んでいることに、彼女は恐怖に近い感情を持った。


 フィアッカは再三に渡ってトライトンに説得を試みた。もっと陽の当たるまっとうな仕事で生活を成り立たせるべきだと。闇に関わっていたら、いつか闇に食われて取り返しのつかないことになってしまうと。


 トライトンはそのたびに反省してみせた。フィアッカの主張するまっとうな仕事に就くと約束してみせた。

 しかしそれは口先だけのものであるか、あるいは実際に行動したとしても長続きしないものだった。

 まるで巨大な力に引き寄せられるかのように、気がつけばトライトンはやはり何らかの後ろ暗いことで金を得る日々に戻ってしまっていたのだ。


 始めのうちはトライトンへの一途な想いから熱心に説き伏せていたフィアッカだったが、だんだんとトライトンのそれが生来の自制の利かなさ、意志の弱さによるものであり、どれだけ言っても効き目はないのだと理解するようになった。

 そしてそのような理解を得ると、あれだけ熱く燃え上がっていた彼への恋心が、少しずつ冷めていくのを彼女は感じるようになった。

 そしてある日、彼と交わっていて初めて、最後まで我を忘れることができなかったとき、彼女の中で決定的な何かがぷつんと途切れた。


 別れ話を切り出したのはもちろんフィアッカからである。二人は一年ほどで、再び赤の他人となったのだった。初めての恋はそのようにして幕を閉じた。


 それからフィアッカは規律正しい生活を取り戻し、しばらくは仕事にのみ邁進する日々を送った。

 トライトンとの一年間は、一種の気の病に侵されていたのだと考えることにした。

 その真っ只中にいたときには微塵も考えなかったことだが、トライトンとあれだけ考えなしに数限りなく交わって、子供を孕むことがなかったのは神の思し召しだったと彼女は思う。

 子供は嫌いではないが、もしあの頃にそのようなことがあったら、きっと自分はトライトンから離れることができず、彼と共に行ってはいけないところに引きずり込まれていただろう。


 三年が経った後、ようやくフィアッカは新しい恋人を作った。今度の恋人は敬虔な信徒で、生活のすべてがとても穏やかな好青年だった。

 彼女はそんな彼の、常に優しく灯るかがり火のようなところを心の底から愛している。彼は時には甘える対象であり、時には敬意をもって共に高みを目指す戦友でもある。

 この歳になって、私はようやく自分を成長させる恋ができるようになったのだとフィアッカは思う。

 結婚を前提として交際しているのだが、彼には一年待って欲しいと伝えている。一年というのは、トライトンと恋仲だった期間だ。

 彼女はどうしても同じだけの期間、様子を見たかった。一年経って、それでも何も問題がないようであれば、きっと今度は永遠にうまくやっていけるだろうと、そう考えたのだ。


 その一年が、そろそろ過ぎようとしている。


 フィアッカの中に、後ろめたさを感じることが一つだけある。

 いまの彼――セシルという名だ――とのあいだに何の不満もない。しかし、自分の人生でもっとも激しい悦びは何だったかと問われたら――それはトライトンとの情熱的な交わりだったと答えなければ嘘になる。セシルはそのようにフィアッカを愛する類の男ではないのだ。


「満足のいく抱かれ方はしてるか? 腹の底から鳴けてるなら大変結構だが」

 そうトライトンは言った。

 正直、フィアッカは複雑な気持ちになった。自分がいちばん腹の底から鳴いたのは――悔しいが、トライトンに抱かれていたときなのだから。


 そういう比較をしてしまう自分に、フィアッカは嫌悪感を覚える。

 こんなことを裏で考えながら、セシルに何食わぬ顔を見せるのは恥ずべき行為だと思う。もっときちんと過去を振り切らなくてはならない。

 今度、セシルは式典を見に行きたいと言っている。フィアッカも休暇をとって、二人で神聖グランダリア帝国までちょっとした旅行に出る予定だ。

 そこで古い自分を洗い流そう、とフィアッカは考えている。そして綺麗な心身となって、セシルと二人で歩んでいくのだ。聖地ルクレツィアでの、神と人間の足跡を追う人生を。


 ◆


 取り引きの相手と現物を交換する場面において、トライトンが習慣にしていることがある。

 あえて約束の時間が過ぎるまで遠くから様子を見て、相手が約束通りの人数――よほどの例外を除き、一人を要求する――であることを確認してから、さも用事があって遅れたという風にその場に姿を見せるのだ。

 それはトライトンの慎重さの表れだった。万が一にも、こちらの用意したものだけ奪われるようなことがあってはならない。

 さらに言えば、口封じのために命を奪われる危険だってあるのだ。トライトンは一匹狼だったから、相手が複数であることには徹底して敏感だった。


 町外れのとある廃屋の庭が、今回の約束の場所である。

  トライトンは約束の時間よりかなり早くやって来て廃屋に入り、庭を窺うことのできる場所で相手を待った。

 相手が事前の約束通りに行動していることを確認したら、裏から回り込んで一言、遅れて申し訳ない、と謝罪して現物を引き渡し、金を受け取る。いつもの段取りだ。


 ――ほぼ約束通りの時間と思しき頃合いに、一人の人物が、かつてはそれなりに洒落ていたのであろう門を通り抜け、庭に入ってくるのが見えた。

 真っ白い髪で、灰色の瞳をした少女。判別するのは容易だった。間違いなく、依頼者と同一人物である。そして他に人の姿も、気配もない。


 トライトンにとって、自分に仕事を依頼してくる人間が何者であるかはまったくどうでもいいことだ。

 好奇心が湧くこともないし、相手だって大抵の場合において詮索されたくないだろう。

 だから感情を伴わない単なる識別として、彼は依頼者の姿と声、名前を聞いたなら名前を記憶した。

 記憶すること自体は仕事上重要なことだから、決して怠らない。しかしそれは文字通りただ記憶するだけであり、純粋に照合のためにしか使われることはなかった。


 ただ、まれに風変わりな依頼者というものもいる。そんなときは、興味とまではいかないまでも、ほう、くらいの感想は抱く。

 今回の依頼者もそんな人物だった。

 恐らく二十歳には達していないであろう少女。どういう伝手で自分の元に辿り着いたのかもさっぱり読めなかったし、どのような立場の人間なのかもまるで察しがつかなかった。

 そして依頼の仕方もそれなりに変わっていた。

 求められたのは、できる限り多くの大型のネフェルマリン。

 しかしあれほど多くの前金を、こちらが何も言い出さないうちから惜しみなく払う依頼者は珍しかった。まるで、金の価値をわかっていない人間が戯れにばら撒いているかのようにも感じられた。

 そのことでトライトンは逆に警戒したが、依頼を受けない手はなかった。これを果たせば、当分は金に困ることはない。


 しばらく待っても他に誰もやって来ないことを確認してから、トライトンは物音を立てないように廃屋から出て、予定していた通りに何食わぬ顔で裏から回り込み、正門から庭へと入っていく。

「遅れて申し訳ない」といつものようにトライトンは言った。

「女を待たせる男は悪い男だって言うねー」と少女はどこか影のある笑みと共に言った。「おまけに結構美形だし、これはなかなかの罪深さを感じるぞ」

「……褒められたのかな」

「そういうところもだ」少女は歌うように言い、続ける。「そういえば名乗ってなかったっけねー。ウチはキロ。今後ともよろしくと言いたいところだけど、まあウチらに今後があるかどうかはわからないね」

「俺としては、長くお付き合いさせて貰いたいところだな。あんたの金払いの良さは最高だ」

「んー」


 意味ありげにキロは目を閉じる。それから少しの間を置いて、突然夢から覚めたようにトライトンをじっと見つめた。睨んでいるわけではなかったが、そこはかとない冷たさがその瞳には宿っていた。


「じゃあ取り引きの時間。……どれくらい集まった?」

「そのことなんだが――」トライトンは用意していた言葉を頭から引っ張り出す。「数はなかなか集まったと思う。それは喜んでくれ。ただ、手に入れるのに思ったより元手がかかっちまってな。これが計算外だった」


 キロの瞳の冷たさが、彼女の顔全体に広がっていくのをトライトンは観察する。

 気分の良い話として受け取られないのは百も承知だ。しかしこの客からはもっと取れる――そう直感したから、トライトンははったりをかけることを計画したのだった。大丈夫、ばれる隙はどこにもない。


「……一つあたりの値段を釣り上げたい、ってわけだね、人間?」

 人間、と呼ばれたのは初めてのことで、トライトンは妙な感覚に捕らわれた。しかし顔に出さないよう努める。

「釣り上げると言われると聞こえが悪くてなんだが、確かにそういうことだ。でもあんたならたぶん――」

「ウチの言い値を受け入れておいて、いまさら反故にしようと言うんだね、人間?」

「気を悪くさせたならすまんが、こっちも商売、しかもそれなりに危険を背負ってやってることなんでな。儲けを度外視ってわけには――」

「渡しなよ」


 キロは短く言い、にんまりと笑って右手を差し出した。そこには笑顔に伴うべき温度がまるで備わっていなかった。しかしそれくらいはトライトンの想定内の反応である。


「ここにはない」と彼はできるだけ淡々と言った。「悪いが持ってきてねえ。これは新しい事情からくる新しい商談だ。それが成立しないうちは危なっかしいんでな」

「――ウチはそっちが何個持ってきても買い取れるようにたんまり用意してきたけど?」

「手間はかけさせねえ。それにぼったくろうってわけでもねえ。ただ、一個あたり二割増しってことにならんかね。承諾してくれればすぐに戻って――」

「失格だ、人間」


 キロはトライトンに向けて差し出していた手のひらをくるりと反転させた。

 その刹那、キロの全身がぼうっと光ったように見えた。陽の光ともランプの灯りとも違う、熱を感じさせない白い光だ。

 トライトンがそれに疑問を抱くより早く、その光は差し出されたキロの手のひらに集まっていく。

 ――そして眩しさを感じるやや手前ほどに明るさが増したところで、そこから何かがトライトンのほうへ向けて放たれた。


 トライトンの意識は、瞬間的に見たままを追いかける。白い――紐? 綱?

 それは左右にうねりながら、彼の顔の下あたりをめがけて空中を這うようにやって来る。その先端がぱっくりと二つに割れる。まるで大きな口を開けて咬みついてこようとしているかのように見える。


 白い――蛇?


 その発想が頭をよぎるのと同時に、光はトライトンの首筋に刺さる――否、咬みつく。彼の目が一瞬大きく見開かれ、全身がぶるっと震える。

 ……トライトンはそれを最後に、自分であることを禁じられた。

「人間に付き合って取り引きしてやるのはウチの慈悲なわけで」とキロは言った。「それを踏みにじったらおしまいだ。全部おしまい」


 白い蛇が消えた。トライトンは――トライトンだった男は、何も言わずにただ突っ立っている。キロの言葉を聞いているのかどうかもわからない。

「じゃあ、ネフェルマリンのところまで案内よろしくー」キロは今度は幼い子供のように無邪気な微笑みを作った。「地味だけど、お前の人生最後の仕事なんだから、粛々と遂行するように。わかったね人間」


 トライトンだった男は一つ頷き、門に向かって歩き出す。

 キロはその後を追うように足を踏み出そうし、ふと思いついたようにそれを止めた。

 肩から下げた大きな革袋の中から、中身の詰まったずしりと重そうな小袋を取り出す。そしてそれを足下に放る。がつっという鈍い金属の音がした。

「拾った奴の総取りだ。飲み食いするなり遊ぶなり好きにするといい」

 慈悲だ――そう言い残し、今度こそキロは軽やかに歩き出した。


 ◆


 ――数日後、隣国のとある森で、トライトンは焼死体として発見される。

 身元を示すものは何もなく、周辺にも心当たりのある者はいなかったため、それがラストラス共和国のルクレツィアに住むトライトンという男であることは、最後まで明らかにならなかった。

 その事件は一時的にそのあたり一帯の酒の肴となったが、後に続く出来事もなかったことから、やがて自然と忘れ去られ、誰からも顧みられないものとなった。

 世の中には、死などそこらじゅうに転がっているのだ。

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