第四章 ウルリッドと祝祭を支える人々

 ウルリッドがエルグラン商工会の代表に選ばれてから、今年で六年になる。ちょうど五十歳のときだった。

 自分から進んでその立場を求めたわけではないのだが、彼を推す声が多数あったためにそのような運びとなった。

 仕事に対する彼の姿勢のまっすぐさと強さは、エルグランで商売をする者達の多くが知るところだったのだ。


 代表になってから、いろいろな物事を変えてきたし、あるいは逆に変わらないよう務めてきた。

 大切なのは、皆が気持ちよく商売できることである。ものの流れと金の流れをできる限り健全でかつ速いものにすることである。

 商工会の一員として単に自分の仕事に集中していたときには持てなかった視野が広がっていくのをウルリッドは実感していた。

 町全体が一つの大きな動く絵のように見える。

 全体の構図を美しく保つにはどうすべきなのか、動きが滑らかであるには何を加え、何を並び替え、何を取り除けばよいのか――齢五十にして新たな目で町を捉え、身を捧げる毎日は当然ながら忙しくはあったが、ウルリッドはそれをおおいに楽しんでいた。髪に白髪が交じるようになる遥か前から、彼にとって仕事は最大の楽しみだったのだ。


 そんなウルリッドが代表六年めにして迎えることとなったかつてない催しが、今回の式典である。正確に言えば、その前祭である。


 その話を耳にしたときから読めていたことではあるのだが、考えなければならないこと、決めなければならないことは山積みだった。

 前祭は単にいつもの仕事をいつもよりたくさんこなせばそれで済むものではない。無数の来訪者を迎え、一時的に町のかたちそのものが変わることになる――その中での商いを細かなところまで一から詰めなければならないのだ。

 各人の思惑があり、利害関係がある。

 完璧な公平や完璧な安全を求めるのは不可能かもしれない。しかし皆の満足を最大限に引き出し、危険や不正を最小限に抑えるためにやれることはたくさんある。

 ウルリッドは文字通りに東西南北を奔走した。何と言っても人と会うことがすべての基本になるのだ。


 ここ一年ほど、ウルリッドは一線からの退き方についてしばしば考えるようになっていた。

 いくら仕事が楽しくても、自分はまだまだやれるという感触があっても、現実には肉体は順当に老いている。不老不死の存在として永遠に居座ることはできない。前の世代から受け継いだものを、今度は次の世代に託さなければならないのだ。

 きちんと動けるうちに、少しずつその準備をしておく必要がある――彼はそれを意識していた。


 そこに式典の話が持ち上がったのだ。


 ここが肝要だとウルリッドは思った。次の世代に明け渡すにあたって、ここで何か禍根のようなものを残してはいけない。

 そういったものがどれほど根深く、軽んじることのできないものなのかを、彼はよく知っている。ただ個人的に心の隅に追いやればいいだけのことや、一言の謝罪があればいいだけのことが、十年二十年の諍いを支えているなどというのはよくあることなのだ。

 商工会の代表として、それは可能な限り防がなければならない。それは町という絵に落とされた斑点のようなものだ。看過すれば、いつの日か大きな染みとなって何かを大きく妨げることになるだろう。


 まだもうしばらく働き続けるつもりでいるが、恐らく今回の前祭が、自分の代表としての最大の仕事になる――だからウルリッドは総決算のつもりで事に臨んでいる。

 時間の経つのは早く、あっという間に残り一月を切った。だが相変わらず、問題が一つ片づくたびに、新しい問題が一つ現れるような状態だ。ぎりぎりまで何らかの調整に明け暮れている自分がありありと想像できる。

 望むところだ、とウルリッドは思う。パンを粉々に千切るように、すべての問題をばらばらに解体してみせよう。


 ◆


 その日、商工会議所に姿を現したのは、一組の若い夫婦だった。つい先月このエルグランに移り住んできて、小さな土産物屋を始めたのだという。

 だがその時点ですでに彼らの地区では前祭のために与えられる助成金の分配が済んでしまっていて、彼らには前祭に対応するための準備をする資金がない――それを何とか助けては貰えないか、という相談だった。


「ふむ」ウルリッドは言い、天井を見上げる。「想定していないわけではなかったのですが、実際にそういう入れ違いのようなことが起きたのは今回初めてのことです。まあ、あなた方に泣いて貰っておしまいにするつもりはないから安心なさい。しかしどういう片のつけ方が最善か……ふむ」

「回収してもう一回分配――ってわけにはいかないよな」と壁を背にして立ったままのハキルが言った。「皆、もう使っちまってるだろうし」

「どこの家にも残っとらんだろう。助成金にけちをつけるわけではないが、余らせるほどの大金を受け取ったわけではないからな」

「じゃあその地区の他の皆から少しずつ金を集めるか」

「それだと話が違ってくる」ウルリッドは首を振る。「このご夫婦のために寄付してやった、というような流れになってしまう。実際にはそうではないのだが、感覚的な流れはとても重要だ。それをやったら今後、お二方の肩身が狭くなる」


 ハキルは面倒臭そうにぽりぽりと頭を掻いた。「どうもそういうのが俺には性に合わないんだが、そういうものなんだろうな。じゃあ誰かが金を貸す……いやそれも違うよな。まるっきり、根本的に違う」

「借りや恩が生まれるものはできるだけ避けるべきだ。もちろん助成金だって国に対する恩が生まれると言えばそうなんだがな」


 夫婦は黙って二人のやり取りを聞いている。

 どちらも祈りを捧げるような目をしている。その心情はウルリッドには痛いほど伝わってくるし、できるだけ良いかたちで応えてやりたいと思う。

 ウルリッドは異国の生まれで、この町にやって来たのは結婚して子供が生まれ、さらに両親を戦火で失ってからのことだ。

 どん底に近い状態から、人にも運にも恵まれてここまでやって来られた。いまはあの頃の自分のような人間を支える側だ。


「他に良い案がなければ、商工会の剰余金から出す、ということなるのかな。幾ら余ってるのかは知らんけど」とハキルが言った。

「そういうことになるが、そこにも問題がないわけじゃない。まず、俺の一存ではもちろん決められん。きちんと決議を採る必要がある」

 いまこの商工会議所にいるのは、この部屋にいるウルリッドと若夫婦とハキルの他には、隣の部屋で書類仕事をしている男女三名ほどだけだ。剰余金の使途を決める会議を開くには、残念ながら九割九部の人間が不足している。


「それと、こういう前例を作っていいのか、ということも考えなくちゃならん――」そこでウルリッドは言葉を止め、若夫婦のほうを見る。「ああ、いや、あまり不安に思わず聞いて戴きたいのですが、組織の金の新しい使い道を作るというのはなかなか大きなことでしてな。例えばこういうことがあと百件ないとも限らんわけです。そこまでの剰余金はないから、その場合は商工会が自ら不公平を作ってしまうことになる――考え過ぎと思われるかもしれませんが、代表としてはこういうところに気を配らなくてはいけませんでな」


 はあ、という弱気な声を若夫婦の夫のほうが出した。他に反応のしようがない立場を、ウルリッドはよくわかっているつもりだ。

「それでも最終的にはそこから出すしかないんだろ?」ハキルがやや急かすように言った。「見捨てる選択肢はないもんな」

「ない」とウルリッドは断言する。「やはり決議を採ることになりますな。なあに大丈夫、お二方の事情をきちんと説明すれば、必要な賛成票は確実に集まるでしょう。今日明日中というわけにはいきませんが、できるだけ早くに――」

 そのときだった。


「その必要はない」


 開かれたままの出入り口のほうから、若い男の声がした。

 ウルリッドと若夫婦、そしてハキルは、ほぼ同時にその声のほうに顔を向ける。

 顔色が変わったのはウルリッドとハキルの二人で、若夫婦は意味するところを理解できていないようだった。

「殿下」

 ウルリッドが口にし、立ち上がる。ハキルも壁から背を離して直立不動の姿勢になる。それらを受けて若夫婦が、少しの時間を置いた後、椅子から腰を上げて背筋をぴんと張った。


 ――エルクラークは勝ち気な笑みを浮かべながら、部屋に足を踏み入れる。

 続いて二人の従者が静かに入ってきた。一人は彼直属の近衛兵。もう一人はメイドのセフィだ。


「話は聞かせて貰った」とエルクラークは言った。

「ふむ」と面白そうにウルリッドは言った。「部屋の外でずっと聞いておられたのですか?」

「そういうことだ。盗み聞きのようで品が悪かったかもしれぬが、聞き捨てならない話であるようだったのでな」

「どのあたりから聞いておられたので?」

「助成金がたいした額ではない、というあたりからだ」


 ウルリッドは半ば冗談めかして困ったような苦笑いを作り、ハキルはくっくっと声を立てて笑う。

 二人共、エルクラークとこのようなかたちで相対するのは初めてのことではない。この国の皇太子は、このように町中に出向き、民のあいだに頻繁に顔を出すことでよく知られているのだ。

 だから敬意こそ払いはするが、無用な緊張はしなくなっている。


「では、そもそもの話からご説明致しましょうか?」

「いや」とエルクラークは遮る。「ある程度の察しはつく。間違っていたら遠慮なく言ってくれて構わないが――そこの二人、夫婦かな、が助成金を受け取れていない、といった話ではないのか?」

「――おっしゃる通りです。この者達はエルグランにやって来たばかりで、助成金を受け取り損ねてしまったのです」

「それなら話は早い」エルクラークは羽のように軽く言った。「その者達のために国費から捻出しよう」

「……よろしいのですか」

「構わぬ。そなた先ほど、同様の例が百あったら商工会の剰余金では賄えんと言ったな。その点も国費なら心配無用だ。百の例には百の追加助成金で応じよう」


 エルクラークは全員をぐるりを見てから、さらに続ける。

「此度の式典は我が帝国にとって最優先となる祭事だ。国威のためにも出すべきものは一切惜しまぬ方向で進んでいる。余にもそれなりの裁量が与えられている。愚にもつかぬことで金を使い込んで天を仰ぐ身勝手者ならともかく、不運にも得るべきものを得られなかった者に手を差し伸べるのは当然の処置だ。な、セフィ?」

 はい、とセフィは静かに答える。


「というわけだ」エルクラークは若夫婦に向けてにっと笑った。「即刻手配させるから、明日またここに来るがいい。そのときに手渡そう」

 ありがとうございます――若夫婦は揃って深々と何度も頭を下げる。

「気にするな、あるべきものをあるべきかたちに直しただけだ」


 エルクラークが何でもないことのようにそう言ってのけるのを、ウルリッドは感心しながら眺めていた。

 これでこの新参者の若夫婦は、この国に対して強い好感を抱くだろう。忠誠心に近いものも生まれたかもしれない。

 それは国を、皇家を支える糧だ。それを助成金程度の金で手に入れることができたのだから、これはエルクラークの側にすれば格安の買い物である。


 この若き皇太子殿下はしかし、そういう計算だけで動いたわけではないだろう。かといって安易に感情的に肩入れしたのとも違う。そのあたりの按配がなかなか堂に入っている。

 これは才覚と呼んで差し支えないものだろう。

 現皇帝陛下とは趣が異なるが、きっとこの方は良き君主になる――ウルリッドはそう予感する。そのときにまだ自分が生きているかどうかは定かではないが。


「そういうわけだ」とエルクラークはウルリッドに言った。「話を横取りしたようで済まなかったが、これでこの件における商工会の仕事は、金の受け渡しだけになった。構わぬな?」

「はい。殿下自らご解決して戴き、まことにありたがく思うと同時に、商工会の代表として恥じ入る次第でございます」

「式典までに同様の相談が舞い込んだら、すべて皇城に持ってこい。そのすべてに同様の対処をしよう」

 かしこまりました――とウルリッドは頭を下げる。

「では、余はもう行くとする。皆、式典の成功のためにぜひとも各々の役割をまっとうしてくれ。それでは、またな」


 ◆


「良いところで殿下がいらして、助かったな」とハキルは言い、熱い茶を一口飲んだ。

「まったくだ。ますます皇城に足を向けて眠れん」

 ウルリッドは自分の肩を揉みほぐす。単に今回の問題が片づいただけでなく、同様の相談をすべて国に丸投げしてよいという許可を得たことが大きかった。

 その達成感にともなう疲労感が、ハキルと二人きりになると同時にどっと押し寄せてきた。こういうところに歳というのは顕著に出るものだな――ウルリッドは嫌々ながらもそれを認める。


 ウルリッドはハキルのことを生まれたときから知っている。彼の父親は役所に勤めており、彼が生まれる前からウルリッドは仕事の関係で親しくしているのだ。

 何かと面倒を見てきたと言えば大袈裟だが、小遣いをやったことなら数知れない。

 ウルリッドには二人の息子がいて、ハキルとは幼い頃よく遊んでいた。かつてハキルに、お前は俺の三男坊のようなものだと言ってやったこともある。ハキルのほうは複雑な顔をしていたが。


「……式典もだんだん現実味が出てきたな」ハキルがゆらゆらと揺れる茶の面を眺めながら言った。「どこも忙しなさが増してきたし、景気の良い話ばかりじゃなく、悪い――というか胡散臭いというか、そんな噂みたいのも出回り始めてる」

「俺も幾つか聞いているよ。といっても俺は、自分の器で何とかできるものしか相手にしないがな」

「あんたはそれで正解だよ。ただ俺のほうの正解は、得体の知れないものもいちおうは気にしておかなくちゃならん。相手が何者であれとにかく町を守る、って仕事だからな」

「……魔人の噂のことを言ってるのか?」


 ウルリッドがそう訊ねると、ハキルは目を見合わせてきた。

「やっぱ聞いてたか」

「そりゃあ俺も一庶民だからな。世間知らずではいられない。相手にはしていないが、かといって聞いた端から忘れていくほど器用でもない」

「ま、覚えなきゃならんことはすぐ忘れて、忘れたいものはいつまでも覚えているのがお約束ってやつだよな」

「くれぐれも、魔人をひとくくりにはしないことだ」ウルリッドは静かに目を閉じる。「黒羽は黒羽、他の魔人は他の魔人だ。そこを混同すると、道を見失うかもしれんぞ」


 ハキルは茶の残りを一気にあおった。そして静かにカップを置く。その無音をもって、己が冷静でいることを示そうとするかのように。

「そこはきちんと区別しているつもりだよ。ただ、被害者はできる限り出したくない――それがいつもよりほんの少ーし、強くなっちまうな」


 ハキルの父方の祖父母は、黒羽の仕業とされる事故で命を落としている。

 後になって考えてみれば、あとほんのわずかで終戦だったのだ。その事故に巻き込まれさえしなければ、彼らはもうしばらくは生き永らえていたことだろう。

 しかし現実にはそうはならず、そのせいでハキルは彼らの顔を覚えていない。ハキルが三歳のときの事故だ。


「無茶はするなよ」とウルリッドは言い、しかしその言葉が響くのを諦めているという風にため息をついた。「――と言っても、無茶も給金のうちと言うのだろうがな」

「そういうこと。俺だってできれば平穏無事に人生を送りたいが、軍に入った以上、場合によっては命より優先させなきゃならんものもできる。そのときはそのようにする。ただまあ、自分で勝手にそういう風にはしないよ。それは安心してくれ」


 ふむ――とウルリッドは言い、すっかり冷めた自分の茶にようやく口をつけた。

 人は年寄りから先に死んでいくべきだ。年寄りなら死んでもいいというわけではないが、それがまともな順序というものだ。

 しかし不運な事故や病でそれが狂うことがある。あれほど痛ましいものは他にない。そしてウルリッドはよく覚えている。戦争はその順序を大きく狂わせるものだ。これからを担うべき若者がたくさん死に、まだ何も世の中を知らない子供がたくさん死んでいった。彼らの命にはどんな意味があったのだろう。


 どんな戦争にもその火種となる出来事がある。そしてそれは、およそ権力の及ぶところ、いついかなるときにも起きうるものだ。ましてや今度の式典は、その格好の舞台となり得るものである。

 その意味では、ハキルが担っているのは、戦争へと繋がる火種を事前にもみ消すことであると言える。多くの死を回避することに他ならない、重要な任務だ。

 そこには命を懸けるだけの価値がある――と強い目で主張されたら、ウルリッドにはそれを否定することはできない。誰かがそれをやらなければならないのだ。


「……死ぬなよ」とウルリッドは低く言った。

「死なねえよ。それよりあんたこそ、働き詰めで倒れたりするなよ。俺としてはむしろそっちのほうが可能性が高そうで心配だ」

「まあ、孫の花嫁姿を見るまでは生きていたいものだが、どうだろうな」

「そこは生きるって言い切ってくれよ」

 ハキルは笑う。ウルリッドもそれに応じるようにふっと小さく笑った。


 生きるというのはなかなかに難しい。自分で自分を懸命に繋ごうとするだけでは足りず、他の何者か――それは人であったり、誰にも制御のできない趨勢であったりする――に生かされる必要もある。両方が揃わなければ、願いはきちんとは果たされない。

 どうだろうな、とウルリッドは思う。神ならばすべてが見えておられるのだろうか。

 世の中はこれから、どんな風に回っていくのだろうか。

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