第三章 レスターと夢と魔人の話

「お忙しいところ申し訳ないのですが」といつものようにレスターは声をかける。「ちょっとよろしいですか?」


 背後から唐突に声をかけられた老人は、座ったまま顔だけをくるりを後ろに向ける。そしてそこにいるいかにも当たりの柔らかそうな若い男を認めると、特に上機嫌でも不機嫌でもない中等の顔のまま、静かに言った。

「昼間から広場の椅子に座ってぼうっとしている年寄りが、忙しいように見えるかな?」

「お仕事で座っているわけでないことはもちろん察しがつきましたが――なけなしの陽の光を浴びるのも、ゆっくり心を休めるのも、大切なことだと思うんです。そういう意味を込めてのことで、ご不快になったのでしたら謝ります」

「べつに気にしとらんよ。何にせよ暇で暇で仕方のない身だ。何か用かね?」


 レスターは安堵から軽く息を吐き、老人の手前に回り込んだ。その様子をじっと観察するように、老人の顔が動く。

 華奢な体。頭の後ろで束ねられた茶色の髪。レスターはどう見ても暴力を得意とする類の人間には見えない。

 しかし見知らぬ人間に話しかけられてまったく警戒しない人間はそうそういない。彼もそれをわかっているから、話しかけるときには生来の押しの弱さを包み隠さず表に出すことにしている。これでだいぶ相手の警戒心を和らげることができる。

 どんな性質も要は使い方なのである――彼がそれを理解し自分をまるごと受け入れるようになったのは、これを始めてからのことである。


「実は僕、作家を目指しているのですが」とレスターは切り出す。「人の見る夢に興味がありまして、たくさんの人の夢の話を集めて回っているんです」

「夢」と老人はその一語をゆっくりと復唱する。「私のような老い先短い人間に訊くということは、夜に見る夢のことでいいのだろうね。昼に見る夢はさすがにもう見尽くしてしまっているからね」

「なかなか文学的なことをおっしゃいますね」レスターは感心して笑う。誰からどんなものが出てくるかまるでわからないから、人というのは面白い。「そうです、夜の夢のほうです。かつて見た昼の夢も、聞かせて戴ければそれに越したことはないのですが」


「人並みにいろいろ夢見たよ。覚えている限りでは、小さい頃に最初になりたがっていたのは軍人だったかな。だがあるとき無残な戦死体を幾つも目の当たりにすることがあって、その夢はそれでしぼんでしまった。それから冒険家になりたがったり、遠洋に出る漁師になりたがったりしたが――」

「基本的に、どこかへ出向く仕事を望まれていたのですね」

「そうだね。まあそういう少年時代だった。だが実際に行き着いたのは鍛冶屋だった。来る日も来る日も工房でトンテンカンテン、どこか遠くへ赴いて勇ましく活躍するのとは、ある意味で正反対の仕事だ」

「親御さんのお仕事を受け継いだ、とかですか?」

「いや、そういうわけではないのだが――人生、うまく説明できない流れがあるものだよ。ときとしてそれはどうあっても逆らうことができない」


 その言葉は少なからずレスターの胸をざわつかせた。

 もし自分の人生に、決して作家になれない流れが生まれたら、自分はどうなってしまうだろう。きちんと心の整理をつけて、べつのことに邁進する人生を歩むことができるのだろうか。

 ……いや、もしかしたら気づいていないだけで、流れはすでに自分を飲み込んでおり、ゆえにこうしていつまでも世に出られずにいるのかもしれないではないか。だとしたらどうする? それでも抗うか?

 ――まあ、抗うだろうな。昔からの、たった一つの昼の夢なのだから。


「いまも続けておられるのですか?」

「いや、先日隠居したよ」老人は意味深に口元を曲げ、カーテンを引くように片手で広場をさあっと指した。「それで昼間からこうして、良くも悪くもゆったりと過ごしている。夢はもう夜にしか見ないが、引き換えに安らかではある。――そこに後の作家さんがやって来たというわけさ」


 レスターは照れ笑いを浮かべる。「精進します。僕にはその道しか考えられないので」

「昼の夢の話はこんなものだが、何かの足しにはなりそうかね?」

「とても興味深いお話でした。人生の先輩のお話は本当に参考になります」

「では次は夜の夢の話か」老人は言い、ふむ、と考える素振りを見せた。「歳のせいなのかはわからんが、最近は見た端から忘れてしまうなあ。悪夢にうなされて目を覚ます、なんてこともすっかりなくなった」

「昔はよくあったのですか?」

「他の人間がどのくらい悪夢を見るものかわからんから何とも言えないが、何度もあるよ。未だに覚えているものも幾つかある。……その話でいいかね?」

「はい、お願いします」


 レスターは紙とペンを構える。

 基本的には頭で覚えて自室で清書をする――その際に無意識的に自分の脚色が混ざることについては気にしていない――のだが、念には念を入れて肝心のところを書き留めておくのだ。

 それに見た目の印象の問題もある。人の話を収集しているということで拝聴する以上、紙とペンを持ち出して、細大漏らさず持って帰ろうという姿勢を見せておくことには意味があるだろう。


「あれは二十年ちょっと前だったかなあ。最後の戦争の終わりの頃だ。鍛冶屋としては稼ぎ時だったんだが世間はくたびれていてね。そしてそれを皮肉るように太陽の光はやたらじりじりと強い、そんな夏だったんだが――」


 ◆


 レスターは十五歳のときに作家になることを決意し、故郷の町に住む劇作家に個人的に師事した。

 その劇作家には弟子をとる意思はまったくなく、最初はレスターの弟子入り志願を断っていたのだが、やがて彼の熱意に根負けし、特別にそれを了承したのだった。

 レスターのこれまでの人生で、自分の内にあるものをあれほど強く表に出したことはない。すべてを天啓のように思っていたのだ。作家に憧れたことも、その劇作家の存在も。


 だがそう簡単に物事が目指す方向に進んでいくものではなく、その三年後に劇作家は病でこの世を去ってしまった。

 すでに高齢だったから仕方のないことだったかもしれないのだが、夢に向かって一心不乱だったレスターにとっては大きなつまづきだった。

 純粋に悲しかったし、俗な計算をするのであれば、師匠があと数年長く生きていたら、事と次第によってはその伝手で世の職業的創作家との繋がりを持つこともできたかもしれないのだ。

 だが結果として、レスターはまだ未熟な状態で置き去りになってしまった。


 レスターがそれでもめげなかったのは、彼の夢が確固たるものであったことに加えて、死の直前に師匠が遺してくれた言葉があったからだ。

 お前には才能がある――師匠は確かにそう言ってくれた。

 彼は死の淵に立たされたからといって急に心にもないことを言う人間ではなかったし、こと創作に関して人の才能を見誤る人間でもなかった。

 だからレスターは真正面からそれを受け止めた。師匠は間違っていない。自分はそれを証明しなければならない。


 一年の期間を置いた後、レスターは単身、首都エルグランに移り住んだ。自分の実力を測ってくれる者を広く求めてのことだ。

 図書館での雑用の仕事に就くことができたのは彼にとって幸運だった。故郷では考えられないような巨大な蔵書は彼を興奮させた。親元でぬくぬくしていた自分が、いきなり首都で自活をする――少なくない不安があったわけだが、そんなものは吹き飛んでしまった。これだけの本に囲まれて働き、それ以外の時間をひたすら物語を読み、物語を書くことに費やせるなんて、この上ない生活ではないか。


 しかしさらに一年ほどして、彼は壁にぶつかる。

 世に出る前の若造にそのような表現が許されるのであれば、彼は初めて創作的行き詰まりに遭遇したのだ。

 いまの自分に足りないものがあることは、朧げながら客観的に掴めるようになってきた。そこから一歩踏み出さなければ、人々の心に響くものを作ることはできない。しかしその一歩とは何なのか、どこにどう踏み出せばいいのか、まったく見えてこなかったのだ。

 自分の筆から出てくるものが、どれもすべて昨日の自分と同じところに留まっている。それだけがはっきりとわかり、しかしそこからより高みへと移る術がわからない――レスターはこれまでになく苦悩した。

 何より、書くことが好きではなくなりそうなのが怖かった。


 その苦悩の果てにレスターが始めたのが、他人の夢を聞いて回ることだったわけだが、それが今日に至るまで続いているのは、決して劇的な効果があったからではない。

 そもそも単なる苦し紛れの思いつきでしかなかったし、実際いまもレスターは厳然と立ち塞がる壁を乗り越えるべく試行錯誤を繰り返しているところだ。


 ただ、人の話を聞くのは充実していた。

 内気なレスターにとってそれは始めのうち大変な勇気の要ることだったのだが、慣れてくるとそこにとても豊かなものを見出すことができるようになった。

 夢を聞いて回ることで得られるのは夢の話に留まらない。多種多様な人生に触れることでもあるのだ。

 それらはいますぐに自分を高みへと引き上げるものではなかったが、いずれ壁を越えた暁には、大きな糧となって自分の創作を支えてくれるようになる――そういう風に感じられた。


 最近になって、レスターはある予感を抱いている。自分の中に、ずっと待ち望んでいた「何か」が起きそうな予感だ。

 そろそろだ、という声がどこかから聞こえてくる。

 それは根拠のない高揚なのだが、だんだんとはっきりした輪郭を持ち始めている。それを自分のものにできたとき、きっと状況は良い方向に転がっていくだろう。レスターはそう信じ、たくさんのものを読み、たくさんの話を聞き、たくさんのものを書く。

 昼の夢を我がものとするのだ。僕には必ずそれができる。


 ◆


 日が暮れる前の通りを歩いていると、目の前に二人の少年が見えた。ちょうど別れ際であったようで、お互いに手を振り合い、それから別々の方向に駆け出そうとする。

 そのうちの片方の少年とレスターの目が合う。少年は人懐っこい笑顔で叫ぶように言った。

「レスター!」

「こんばんは、タルカス」レスターは静かな笑顔を返す。「友達と遊んでいたのかな」

「そう。これからもうちょっと遊んで帰るところ」

「すぐには帰らないんだ。お母さんに叱られない?」

「たぶん大丈夫」


 タルカスの右腕の肘に小さな擦り傷があるのをレスターは見つける。

 タルカスはいつもどこかしらに小さな傷を作っている。少年の少年たる証かもしれない。しかし大きな怪我をしたのは一度も見たことがない。衝動のままに駆けずり回っているようでいながらその実、しっかりと最低限の自制を利かせているのだろうとレスターは推察する。


「レスターは仕事が終わったの?」

「いや、今日はお休みだったんだ。それでちょっと出かけてた」

「ふーん」タルカスは言い、いったん周囲の様子をくるりと見回してから、急に思い出したようにレスターに向き直ってこう続けた。「ねえ、魔人のこと知ってる?」

「――魔人?」


 あまりにも唐突な質問だったので、レスターの思考が一瞬止まる。それから我に返り、記憶の扉を開くべく折り返しその言葉を頭の中で唱えた。まじん。


「トーマが魔人ごっこをやろうって言ったんだ。でもトーマも俺も魔人のこと、よく知らなくて、ちゃんとできなかった」

「言い出しっぺのトーマ君もよく知らなかったんだ」レスターは苦笑する。「とりあえず言葉だけどこかで聞いてきたのかな」

「ねえ、知ってる?」とタルカスは繰り返した。

「会ったことはないし、専門家でもないけど、ある程度は知ってるよ」

 レスターがそう答えると、タルカスは俄然、目を輝かせた。

「じゃあ教えてよ! 明日トーマにも教えてやるんだ」


 ふむ――と小さく言いながら、レスターは顎に手を当てる。

 どこからどういう順番で説明するべきか。子供にものを教えるのは、文章を組み立てる上でもなかなか勉強になる。多くの場合において、物事の表現は徹底的に平易であるべきなのだ。


「魔人っていうのはね、普通の人間には無い、特別な力を持った人達のことだよ」とレスターは切り出した。「生まれつきそういう力を持っているんだ」

「強いの?」

「それはわからない。いろんな力があるらしくて、全部が全部、戦ったりするためのものではないことがわかってる。例えばシュケル王国には朱月っていう魔人がいるんだけど、この人の力は、相手に命を懸けた契約をさせる力だ。あ、契約っていうのは約束のことだね。……それでその約束を破った人は、心臓が止まって死んでしまう。どこにいても、絶対に」


 レスターはタルカスの顔をまじまじと見つめ、絶対、を強調する。タルカスに怯む様子は微塵もなく、単純に興味を引かれたようだった。

「他にはどんな魔人がいるの?」

「それはよくわかってない」とレスターは即答する。「でもいろんな国が魔人を抱えていると言われてる。彼らを洗脳して、手下にしてるんだ。洗脳っていうのは……要するに、無理やりいろんなことを教えて、言うことを聞かせるってことだね」


「無理やりなの?」

「全員がそうではないだろうけど、そういうのが多いっていう噂。その他に、誰の言うことも聞かずに自由に生きている魔人もいるらしい。全部で何人くらい魔人がいるのかは誰も確かめていないのだけど、聖典にはこういうことが書かれてる――十二の闇のかけらが人の世に散らばっている、ってね。だから魔人は常にこの世に十二人いるんだ、って主張している学者さんとかがたくさんいる」

「じゃあ、友達を十三人集めて魔人ごっこしたら、嘘になっちゃうんだね」

 うーん、と小さく笑いながらレスターは腕を組む。「嘘かどうかはわからないけど、あんまりたくさん魔人が集まっているのは変かもしれないね」

「他にどんな魔人がいるのか、知りたいなあ」


 強いのがいい、とタルカスは付け加える。

 彼が求めているのは、友達との戦争ごっこのような遊びに用いるための、強力で魅力的な人物設定だ。

 しかし現実的には、魔人はそのような存在とは趣が異なるし、戦闘に適した魔人であればあるほど、一般の民の耳には入ってこない。いわゆる暗躍というやつをするからだ。

 お偉方なら何人か知っているのだろうな――と思いながら、レスターはほんの少しだけ申し訳ない気持ちになる。


「キミ達は、魔人と魔人が戦う遊びがしたいんだね?」

「うん」

「それなら二つほど、覚えておくといいことがある。これを覚えておくと、本当の魔人の戦いみたいになる」

「なに?」


「まず一つめ。魔人はね、殺されるとき、相手に――正確に言えば、相手とその味方達にだけど――呪いをかけるんだ。人間には止めようのない呪いをね」

 タルカスはいまいちわからないという顔をする。しかし良くも悪くも、この話にはあまりにも明白でわかりやすい実例がある――レスターはすっと空を指差した。


「キミが生まれたときから、ここエルグランの空はこんな風に曇りっぱなしだ。キミは晴れた空って見たことがあるかい?」

「ある!」とタルカスは溌剌と答える。「お母さんと一緒に町の外に出たときに見た。すごく青くて、ぎらぎらしたところを見ると目が痛くなった。太陽っていうんだよね」

「そう。僕が生まれ育ったのはエルグランではないから、特に珍しいとも思わないのだけど、この町にいる人にとっては青く晴れた空は決して見られないものだ。――でも二十年前まではそうじゃなかった。二十年前に何があったかは、教えて貰っているかな?」


 うーん、とタルカスは考える。それから恐る恐る口を開く。「……戦争が終わった?」

「当たり」レスターは小さく拍手をする。「その戦争の終わり頃にね、この国に黒羽っていう魔人が襲ってきたんだ。どこの国から送られてきたのかはわからない。皇帝陛下とかは知っているのかもしれないけど、僕達庶民にはわからないことだ。で、当時の人は、その黒羽を何とかしてやっつけた」

「魔人に勝ったの?」

「そう。それで黒羽は死んだ。さっき、魔人が死ぬとどうなるって言ったっけ?」

「呪いをかける」

「それがこの空だ」レスターは再び空を指差す。「黒羽が死ぬときにかけた呪いで、このエルグランから青い空が奪われてしまった。それから二十年、この町は一日たりとも晴れたことがない。いったいこの呪いがいつ解かれるのか、もしかしたら永遠にこのままなのか、それはたぶん誰にもわかっていない」


 レスターとタルカスはほぼ同時に空を見上げた。そこにはレスターが故郷でいくらでも見ることのできた、あの突き抜けるような青は存在せず、代わりに不運を呼び込むかのような灰色が埋め尽くしている。

 この町において陽の光は貴重品だ。だから隠居した老人は広場に出向くのだし、洗濯物だって簡単には乾かない。


「……魔人を殺しちゃいけないんだね?」とタルカスは空を見たまま言った。

「そうだね。殺しちゃうと、こういうことになるからね。生きたまま捕まえて、二度と逆らわないように洗脳するのがいいのだろうね」

「その何とかっていう魔人は、強かったんでしょ?」

「黒羽ね。たぶん強かったと思うよ。そうでなかったらエルグランに攻めてくるなんてことはしないだろうから」


「そんなに強い魔人を、どうやって殺したのか――レスターは知ってる?」

「それが、二つめの知識だ」待っていたという風にレスターはにやりと笑う。「実はね、魔人には弱点があるんだよ。弱点っていう意味、わかるかな」

「知ってる。どんな弱点?」

「さっき、聖典に十二の闇のかけらと書いてあるって言ったよね。その言い方の通り、魔人の力は闇の力だ。彼らは闇の中でだけ力を使うことができる。でもここで言う闇というのは、暗いところという意味じゃないんだ。人の眼の届かないところ、という意味なんだ」


 タルカスはわずかに首をひねる。少し持って回った表現だったかもしれない。レスターはそう考えて言い直す。

「つまりね、魔人は人に視られると、力を使えなくなるんだ。一人二人ならちょっと弱くなる程度だけど、例えば何百人という人の前では、彼らはまったく力を使えない」

「視られちゃ駄目なの?」

 レスターは頷く。「しかも彼らにとって厄介なのは、視られることだけではなくて、視られ得ることでも同じ効果が表れることなんだ。つまり、何百人もの人達が皆、魔人と反対のほうを向いていたとしても、やっぱり魔人は力を使えない。そこは視られ得る空間だからね。……何となく想像できるかい?」


 タルカスはうーん、と言いながら考え込む。何百人という数の人間がいま彼の頭の中で整然と並び、その隣に、うまく想像できないなりに魔人らしきものが置かれているのだろう。


「……魔人はこっそりしてなきゃいけないの?」

「そういうことだね。魔人は強いかもしれないけど、何でもできるわけじゃない。広い戦場で軍隊に向かってたった一人で突撃して、残らずやっつけてしまう――なんてことはできないんだ。それから、さらに大きな問題がある。……キミはネフェルマリンという宝石を知っているかい?」

「ネフェ……」

「ネフェルマリン」

「知らない」

「磨くと透明に輝く綺麗な宝石なんだけど、このネフェルマリンにはね、千眼石――千個の眼の石、っていう別の名前があるんだ。どういうことか、当てられるかな?」


 謎をかけられたことを察したタルカスは、またもや考え込む。千個の眼、千個の眼――と繰り返し呟きながら、彼はじっと地面を見つめる。

 レスターは彼の反応が返ってくるのを黙って待った。ときどき二人のあいだにはこのような謎かけの時間がある。子供と接することが嫌いではないことをレスターが自覚したのは、このタルカスとの縁ができてからのことだ。


 やがてタルカスは顔を上げ、レスターと目を合わせておずおずと口を開いた。

「……魔人が触ると、力が無くなっちゃうの?」

 レスターは軽く感嘆する。「すごいね。正解だよ。ある程度以上の大きさのネフェルマリンはね、まあ千個の眼というのはものの喩えだろうけど、魔人に近づけると彼らの力を封じることができるんだ。だから皇城の中の大事な部屋にはネフェルマリンがたくさん埋まっているというし、いざ魔人と戦うことになったら、普通の人間達はネフェルマリンを身につけることになる。……二十年前の戦いを詳しく知っているわけじゃないけど、黒羽もきっとそんな風にしてやられたんだと思う」


「それって買えるの?」

「うーん……大きなネフェルマリンを普通の人が手に入れるのは、かなり難しいと思う。値段が高いのもあるし、だいたいはあちこちの国とかが買ってしまうんだ。お金持ちなら持っているかもしれないけど、僕は未だに実物を見たことすらないよ」

「そっかあ」

「――とまあ、そんな具合なんだけど」とレスターは言い、肝心なところへ話を戻す。「魔人ごっこ、どんな風にする?」

「……死んじゃったら呪いなんだよね。あとは、えっと、視られても駄目で。ネフェ……ナントカで力が無くなっちゃう」

「そうそう」


 タルカスが熟考に入る。そのつもりはなかったのだが、今日は彼にいろいろ考えさせる結果となっている。

「……隠れんぼみたいな」

「そうだねえ。戦争ごっことはかなり違う感じになるよね。いま話したことをトーマ君にも教えてあげて、それから二人で、というか友達みんなで、どうやって遊ぶか決めるといいよ。くれぐれも危ないことはしないようにね」

「大丈夫!」


 タルカスはにかっと笑う。レスターはそれを受け止めると、さて――と独り言のように言いながら辺りを見渡した。

「そろそろ僕は帰るけど、キミはやっぱりもうちょっと遊んでいくの?」

「うん。でもちゃんと真っ暗になる前に帰るよ。叱られたくないし」

「お母さん、怒ると怖いもんね」

「……そんなに怖くないけど」とタルカスはためらいがちに抵抗する。「じゃあ俺、あっちで遊んでくる」

「わかった。じゃあまた」


 二人は手を振り合い、そして背を向け合う。

 レスターの背後から駆け足が聞こえ、それはあっという間に遠くに消えてしまった。振り向いても、もう彼の姿はないだろう。


 ふと、自分がタルカスと同じくらい――彼は確か今年で八歳になる――の頃を思い返してみた。

 まだ作家は目指していなかったが、そうなることが想像される程度にはおとなしい、家で何か細々としたことをやっているのを好む子供だった。

 擦り傷を作った覚えはほとんどない。走るとか登るといったこととはほとんど縁がなかった。両親はあまり厳しく叱るほうではなかったから、怖いと思ったことはない。……いろいろな面で、二人はかなり異なる人間であるように思える。


 人間は面白いな、とレスターは思う。この面白さを物語に込めることができれば、そして人間と物語の両輪が見事に噛み合ったものを書くことができれば。きっとそこには素晴らしいものが生まれるはずだ。


 さて、ともう一度レスターは呟いた。

 夕食を摂って、あの老人の悪夢を清書したら、夜中まで次の物語を考えよう。

 今度こそ本物を仕上げてみせる。それが認められれば、世に出ることができる。そのときこそ師匠の正しさは証明されるのだ。早くそうなりたい。そして人々の心を揺さぶり、世界のかたちをほんの少し変えてみたい。僕の物語で。

 レスターはぎゅっと拳を握りしめた。その手から無限の言葉が紡ぎ出され、大陸じゅうに広がっていくところを夢想しながら。

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