第二章 テトラと酒場の恋

 言うまでもなく、宝石亭は酒場である。

 天下の神聖グランダリア帝国、その首都エルグランに果たしてどれだけの数の酒場があるのかは定かではないが、紛れもなく宝石亭はその一つである。

 いちばん大きな酒場でもないし、いちばん小さな酒場でもないが、どちらかと言えば大きなほうに属するだろう。名前も知られているし、広さだってあるし、賑わいについても申し分ない。


 酒場である以上、当然に客は酒を飲む。飲めば当然に酔う。酔った人間ががやがやと騒ぎ立てる光景は当たり前のものであり、それを否定してしまったらそれはもはや酒場ではない。


 ……そんなことは言われるまでもなくわかっているのだが、テトラは酔っ払いというものがどうも好きになれない。

 看板娘がそんなことでどうすると説教を食らいそうだから、両親にきちんとしたかたちで話したことはないが、恐らくとうの昔に見抜かれているだろう。


 テトラはたくさんの人が楽しそうにしているのが好きだ。笑い声が好きだし、おしゃべりこそ最高の娯楽であると思っている。そして酒を飲むことも嫌いではない――彼女は酒が入るとひたすら良い気分になって、くすくすと笑いながらその場をふわふわと漂う類の人間だ。

 しかし一般的な酔っ払いの振る舞いが、彼女にはどうにもごつごつしていてしんどいのだ。

 遠慮会釈のない言葉選びや、制御を忘れた大声や、翌日の当人の記憶からそれらが儚く消えてしまっている無責任さ。

 彼女の経験でいうと、七割以上の人間が酒によって彼女の苦手な方向に変化する。人にはそういうことも必要なのだという割り切りができないまま、彼女は日々それを目の当たりにする仕事をこなしている。


 ――そしていまもまさに、その苦手を絵に起こしたような光景の主役にテトラは据えられていた。


「だからあいつが言ってる縄張りってのはなあ、あいつの縄張りじゃねえんだよ!」

 その中年の男性客は先ほどから、通りがかったテトラを捕まえて、どこかで仕入れてきたらしい憎悪の塊をひたすらにぶつけてきていた。

「あいつだけ儲けるなんてのは許さねえぞ。頭の悪いガキが毎日毎日迷惑ひっかき回してやがるくせによお」


「――そうですね」テトラは十三のときから培ってきた仕事用の笑顔を浮かべる。「皆できちんと決めごとを作って、不満の出ないように儲けなきゃですよね。二度とないかもしれない大きなお祭ですものね」

「そうだよやっぱり商売ちゃんとわかってるなあ姉ちゃんは」男は急にへらへらと笑い出す。こういう、次に何が来るかわからないでたらめさもテトラには受け入れにくいものだ。「俺は一所懸命働いてるんだよ? 世のため人のため、お国のためってなあ」

「いつもお疲れ様です。せめて当店にいらっしゃるあいだは、つらいことは忘れてめいっぱい楽しんで下さい」


 おう――と満足そうに男は言い、ふいにテトラの肩に手をやると、彼女の体をぐいと引き寄せた。

「だからよ、今夜はずうっと俺の隣にいてくれねえかなあ? 最近女っ気がなくて寂しい人生なのよ。姉ちゃんくらい可愛きゃ大歓迎だ」

「――お褒め戴いてとても嬉しいのですが」とあくまでも笑顔を崩さずにテトラは言う。「まことに残念ながら、仕事中ですので――」

「俺は客だぞ?」

「はい、大切なお客様です。しかし他にもたくさんのお客様がおられますので、私はきりきり働かなくてはなりません。申し訳ありません」


 その途端、男の表情がみるみる険しくなった。酒で歪んだ思考回路を通り抜けた結果、テトラの言葉は侮蔑の意味合いを持ったものに変貌し、男を直撃したらしい。

 ああ失敗した――テトラは心の中で自らに舌打ちをする。


「姉ちゃん。客の、俺が、隣に、座れって言ってんだよ」男がテトラの肩を掴む手に力を込める。軽い痛みが走った。「あんまり舐めたこと言うと、俺結構危ない奴なんだぜ?」

「お客様、大変失礼ですが」

「座れよいいから!」


 男の声は酒場全体に響き渡った。喧騒に包まれていた周囲も、さすがに二人の悶着に気づいたようで、テトラは大勢の視線が自分に集中しているのを感じた。

 こういうことは初めてではないが、やはり怖い。何とかかわしているうちに男の従業員が助け舟を入れに来てくれるのを待つしかない。

 ――そう思って、男をうまくなだめることのできる言葉を必死に探していたそのとき。


「そのへんにしておけよ、おっさん」


 真横から飄々とした若い男の声が聞こえてきた。

 ああん、と中年男が声のほうに振り向くより遥かに早く、テトラはその声の主を悟り、胸を安堵で埋め尽くす。

 ――ハキル。今夜も来てくれてたんだ。


「入るなり半端じゃねえ怒鳴り声が聞こえたから何かと思ったら、我らが看板娘が絡まれてるし」とハキルは苦笑いを浮かべて言った。「酒はいいもんだよな。嫌なことがあっても吹っ飛ばせるし、誰とでもダチになれる。……だがそれはうまく付き合った場合だ。あんたはいまどう考えても、そこのところを間違えちまってるよな」

「なんだあ、てめ――」


 ハキルを威嚇しようとした中年男だったが、その言葉を最後まで吐ききることはできなかった。彼が腰に下げた剣の柄をぽんぽんと叩いているのを目に留めたからだ。

 軍人――衛士。


「こういう場面もまあ、俺の仕事のうちなんでな?」ハキルは覗くように中年男を見る。口元にこそ笑みを浮かべていたが、瞳には射抜くような鋭さがあった。「まかり間違ってもこいつを抜かせるようなことはしないでくれよ――何と言っても酒場は楽しいところじゃなくちゃいかんからな」


 決して相手にしてはいけない者をそれと判断するだけの理性は、中年男にも残っていたらしい。

 先ほどまでの態度は泡のようにあっさりと消え去り、中年男はうつむいたまま何も言わずに椅子に座り込むと、残っていた酒をちびちびとあおり出した。初めから何もなかったことにしたいようだ。

 テトラとハキルはそれを察し、顔を見合わせて苦笑を交わす。

「んじゃ、俺も飲み食いさせてもらおうかね」と首を鳴らしながらハキルは言った。「割と本気で腹減ってるからなあ、今夜は何を食うかなあ……」


 ◆


 ハキルの注文した酒と料理を、同僚のリューリィと共に彼のもとに運ぶ。

 おお早い早い――と子供のように喜ぶハキルの顔を見て、テトラは胸がじわりと温かくなるのを感じた。勇ましい態度の合間合間に見せる彼のそういうところが、彼女には宝物のように映るのだ。


「今日は一人なのね」と卓に皿を並べながらテトラは言った。「ラリーさんとトッドさんはお仕事?」

「そう、あいつらは居残り」とハキルは冗談めかして答える。「ま、このところ散々誰かと飲んでたからな。そろそろ一人で飲むのにちょうどいい頃合いだ」

「居残りというのは、やはり式典の関係なのですか?」とリューリィが訊ねた。

「間接的にはそうだな。まあ、しばらくはそんな感じになるだろう。俺らがちゃんとしてないと、あんたみたいなちっちゃい子をちゃんと守れないからな」

「リューリィは十六だよ。背はちっちゃいけど、しっかり働いてる子にそういうのは失礼」


 テトラが怒ってみせると、ハキルは頭に手を置いて、悪い悪い、と悪びれる様子もなく言った。「リューリィちゃん可愛いから、ついそういう言い方になっちまうんだよ」

 いえ――と言ってリューリィはぺこりと頭を下げる。

 謝られたことと褒められたこと、どちらに先に対応すべきか決めあぐねて、とりあえず出てきたのが「いえ」なのだろうな――彼女の綺麗な黒髪を見ながらテトラはそんなことを考える。可愛いのはテトラも認めるところだ。


「じゃあ私達は行くけど、ごゆっくり――」

 テトラがそう言って立ち去ろうとしたとき、リューリィがそそくさと彼女の隣につき、小声で諭すように切り出した。

「テトラさんはしばらくハキルさんの相手をしてあげて下さい」

「え?」

「さっき助けて戴いたでしょう? お仕事で作った借りは、お仕事で早めに返したほうがいいと思います」

「でも結構お客様入ってるし、私がこんなところにいるのってどうなのかな」

「さっきのハキルさんのご活躍を、他のお客様も見ているから平気でしょう。私達で何とかなりますから、テトラさんはぜひハキルさんと」


 リューリィは顔を間近に寄せたままにこりと微笑んだ。借りがどうのこうのというのは彼女の方便で、要は彼とのことを応援されているのだろうとテトラは理解する。

 ……それならちょっとだけ、それに甘えさせて貰おうかな。

「わかった。ありがとうね」

 テトラのその言葉を聞くと、リューリィは満足そうに一つうなずいて、客のいなくなった卓に向かい、残された皿を重ね始めた。


「相談事はおしまいか?」

 ハキルがからかうように言った。どう見ても、いま二人が女同士で何をやり取りしたのか、ひとかけらの想像すらできていない。

 それがあまりにテトラの予想していた通りの反応だったので、彼女は思わず小さく吹き出してしまった。


「うん、おしまい」と言ってテトラはハキルの隣に立つ。「これから忙しくなるのね」

「ああ」料理に豪快に手をつけながらハキルは答える。下品にならないぎりぎりの豪快さが彼らしい食べ方だ。「でもやりがいはある。生きているあいだに戦争以外のことでこれだけ盛り上がることなんて、そうそう無いんじゃないかと思うしな」

「戦争だけは嫌。普通に生活していたい」

「そりゃまあ起きないに越したことはない。ただ、軍に入るとき柄にもなく歴史の猛勉強をしていて思ったけどな、戦争しているときとしていないとき、どっちが普通なのかは俺にはわからん。そんでもって、俺達はたまたま平和っぽい時代に育ったが、歴史的に見ればこれだけ戦争がないのは明らかに普通じゃないんだ。だから軍もなくならないし、俺はその稼ぎでこうして晩飯食って酒も飲める」


 そう言われるとテトラは困ってしまう。理屈はどうあれ、とにかくこの生活がずっと続いて欲しいのである。それだけだ。


「でもハキルの仕事は衛士だから……それって私みたいな庶民からしてみると、特別にあったかいものに思える」テトラは慎重に言葉を探す。「ほとんどの軍人さんって、その、言ってしまえば戦争するためにいるわけじゃない? でもハキルは町の平和を守る人だもの。私にとっては、その違いはとても大きいの」

「いざ何かあったら、俺も戦地に駆り出されるかもしれないぜ? 急に最前線に配属されたりしてな――まあ極端な喩えだが」

「それは……」

 嫌だ。そんなことにだけは断じてなって欲しくない。


「そんな本気で暗くならんでくれよ」ハキルはテトラの顔色を窺い、愉快そうに笑った。「俺だってそういうのは望みじゃない。目標とは正反対だしな」

「……皇女殿下の近衛兵になるんだものね」

「そう。あの方は只者じゃない。将来婿をとってこの国に残られるのか、どこかに嫁に行かれるのか知らないが、ぜひ側で仕事をしてみたいね。皇帝陛下はもちろん偉大だが、俺はあの方こそ我が帝国の顔だと思ってる」


 ハキルが皇女テオーリアの話をするときにとても嬉しそうにするのが、テトラには少しだけ複雑だった。

 彼の皇女への熱意が恋心などではないことは百も承知だったが、それでもつい、自分と皇女を女として頭の中で比べてしまうのだ。

 ……自分には勝ち目などまるでない。見た目も中身も、文字通り住む世界が違いすぎる。


「ま、目標は目標、もしもの危機はもしもの危機。とりあえず当座、重要なのは式典だ」

 ハキルは言い、ぐいと酒をあおった。強い酒なのだが、それ以上に彼のほうが酒に強く、相当飲んでもそれがほとんど言動に表れることはない。それもまたテトラが彼を気に入っている理由の一つだ。


「商売する人にとっては、前祭のほうがおおごとなのだけど……何だか凄いことになりそう」

「祭なんだから浮かれてなんぼだが、全員が全員、最初から最後まで浮かれっぱなしになってるわけにはいかん。いろいろ気を引き締めなきゃならんこともあるわな」

「やっぱり、一時的に治安は悪くなるのかな」

「そうならないようにできる限りのことはするが、それでも現実問題として、揉め事がまったく増えないってわけにはいかないだろうな」ハキルの顔が引き締まる。「といっても、単なる一般人が喧嘩する、盗むなんてのは、どちらかといえばたいしたことじゃない。問題は、この国に喧嘩を売ろうとしている奴らが紛れ込む可能性だな」

「それは――戦争を起こそうとしてるってこと?」

「そこまで行かずとも、この国に大恥をかかせようって動機もあり得るわな。そういう連中はもしかしたら、もうすでにこの国に入り込んでいるのかもしれない。例えば、こういう店に下働きとして潜り込んだりな。不審な人物がいたら、すぐに教えてくれよ。人を疑ってギスギスするのは好きじゃないだろうが、何事も早め早めに動くのが肝心だからな」

「うん。……いまのところそういう人はいない。ほら、うちは昔、事件があったから、人を選ぶのは慎重なの」

「ああ、そういえばそんなこと言ってたっけな」


 まだテトラが客の前に出る仕事をしていなかった頃、宝石亭の金が従業員の一人に持ち逃げされたことがある。

 金貨一枚二枚というようなケチな盗みではなく、金庫を破られ、中身をすっかり持っていかれたのだ。

 あのときは本当に宝石亭存続の危機だったとテトラは両親から聞かされている。金策に奔走し、何とか最悪の事態は避けられたものの、まともな経営に戻すのに二、三年かかったとのことだった。


 それ以来、宝石亭は従業員を信頼の置ける者の紹介でしか雇わなくなった。

 ことさらに人の身分をどうこう言うのは両親も本望ではないから、必要以上の詮索はしない。だが紹介によることにだけはこだわる。大切な店を二度と同じ危険に晒さないためにはどうしても必要なことだった。

 例えば先ほどのリューリィも、エルグランの出身ではないらしく、どのように育ったのかも具体的には聞かされていない。

 だが彼女を紹介してくれたのは、この町に根を張って長年に渡り評判の高い仕事をしている男で、両親とも顔なじみだ。それをもって両親は彼女を信頼し、雇っているわけである。

 この段取りはあの事件以降、欠かしていない。


「どこもこの店くらい注意してくれたら、いろいろと心強いんだが……まあでも、何の保証もできない流れ者にもそれなりの働く機会がなきゃ、それはそれで物騒になるしな。難しいところだ」

「この国を嫌いな人って――やっぱりいるんだよね」

「そりゃあいる、山ほどいる」ハキルは韻を踏むように言った。「この国の後ろ盾でいろいろやってる人間は大勢いるわけだが、そりゃつまり、この国のせいで思うように身動きが取れない人間も大勢いるってことだ。あとは何と言っても国だな。我が国ののさばり具合が面白くないっていう周辺国は幾つもあるだろう。表向きは友好的でもな」

「話が大きくてピンと来ないけど……嫌われるのは良い気持ちじゃないよね」

「まあ、だからこそ神聖灰色帝国なんて呼び方があるわけだ」


 神聖灰色帝国。それはここ神聖グランダリア帝国の首都エルグランが、この二十年間ずっと晴天を知らず、灰色の空の下にあることを揶揄したものだが、同時に様々な分野において帝国の在り方に後ろ暗い何かを見出そうとする者達の合言葉にもなっている。


「確かに空は灰色かもしれないけど――」

「腹が立つというより、鬱陶しいな」とハキルは料理をつつきながら言った。「その呼び方をする奴らは、正面切ってこの国に挑もうって奴らじゃない。何もできない鬱憤を陰口で晴らしているだけか、良くてもせいぜい当てこすりしかできない奴らが好むんだ。周りに蝿が飛び回っているみたいに感じるな」

「……そういう人達が、何かをやるかもしれないのね?」

「そういうことだ。神聖灰色帝国主催の式典なんざ壊してしまえ、ってところだろう」

「なんで皆、仲良くできないのかな」

「難しいことは学者様に任せるとして、俺なりの言い方をするなら、百人が欲しがるものが、この世に百個用意されてるわけじゃないからだな。大事なものはいつだって足りないんだ。だから奪い合いになるし、そうなれば恨みつらみも出てくる。それは広がるし、代々引き継がれていく。そういうのの繰り返しだろ」


 テトラにはうまく掴むことのできない仕組みだ。

 でも自分がそれをうまく掴めないのは、きっと自分が人や環境に恵まれていて、あまり広い世の中を知らないからなのだろうと彼女は思う。

 どうやら世界というのは、なくてはならないものが幾つか欠けているところらしい。なぜ神様は世界をそのようなものになさったのだろう。信心が足りないせいか、テトラにはそれもよくわからない。


「……大丈夫、何とかなるよ」いろいろ湧いてくる不安を脇に追いやるように、テトラはそう言って笑った。そこには仕事用の笑顔とは決定的に違う色がある。「町の皆で協力して、ハキル達に守って貰えば、きっと乗り越えられる」

「任された」とハキルは微笑み返す。しかし目だけは真剣だ。「商売人は商売でどんと盛り上げてくれ。あとは俺達が何としてでも守ってやる。それがお互いの役割ってやつだ。それをまっとうするのが国に貢献することでもある」

「うん」

 テトラは頷いた。本当は国への貢献にはあまり興味がなかったのだけれども。


 ◆


 日記をつけるのが、テトラの昔からの習慣だ。

 つけ始めてからこれまで、一日も欠かしたことがないのは彼女の小さな小さな誇りである。風邪で高熱を出して寝込んでいた日も、一言「すごくだるい」とだけ書き記した。

 すでに数冊にわたるそれは、彼女の人生の一部を鮮やかに切り取ったものになっている――誰にも見せることのない、自分だけの歴史書だ。

 たまに彼女はそれを読み返す。適当に一冊手に取ってぱらぱらとめくり、この日にこんなことがあったのかと驚いてみたりするのだ。


 そんな彼女の日記帳にハキルが登場するのは、二年前からだ。

 彼は二年前のある日、初めて客として宝石亭を訪れた。そのときは先輩に連れられての来訪だった――これは日記にも書いてあるし、記憶にもはっきりと残っていることだ。


 ほとんど一目惚れだった。

 長身に強い瞳、遠目には細身に見えるが、近づいてみると鍛えられているのがよくわかる体。そしてやや浅黒い肌(それは太陽の光に乏しい現在のエルグランの民の価値観では、ことさらに逞しく映る)。

 ついぼうっと見とれてしまって、彼に対する最初の接客はお世辞にも洗練されたものではなくなってしまったが、彼はそのとき店をとても気に入ってくれたらしい。

 それから彼は常連客となり、いろいろな仲間――同期のラリーとトッドであることが多かったが――を連れて頻繁に顔を見せてくれるようになった。


 テトラがハキルに対して、従業員としての規律を崩してくだけた言葉を使うようになったのは、彼からの要望だった。

 あるとき彼は突然こう言ってきたのだ。俺のことはお客様じゃなくてハキルって呼んでくれよ。俺もあんたのことテトラって呼ぶからさ。あと言葉遣いも普通なのがいい。何ていうかさ、ここでは殻みたいなもんは全部取っ払って過ごしたいんだよ。駄目かね?


 テトラはそれを聞いたとき、嬉しいような怖いような、何とも判断のつかない感情で頭の中をぐちゃぐちゃにさせていたが――その「ぐちゃぐちゃ」の詳細は日記に長々と書かれている――表向きにはできる限りの平静を装ってそれを了承した。

 それ以後、宝石亭にやって来る客の中でただ一人、ハキルに対してだけは友人に対してそうするように接してきた。

 その距離の近さはテトラの心を踊らせたが、しかしそれからかなりの時間が経過した現在も、テトラは彼に想いを伝えるには至っていない。べつの言い方をするなら、彼を振り向かせるにも至っていない。

 つまりは、二人の関係はまったく進展していない。


 現実的な話として、テトラは宝石亭の後継ぎとなる婿をとることを期待されている。両親にはテトラとその夫以外の誰かに店を継がせる気はまったくない。

 その意向を尊重し従うのであれば、軍人として生涯をまっとうすることをすでに決めているハキルとは結ばれない定めにある。

 しかしテトラは迷っている。たとえ両親に逆らってでも、宝石亭を捨てて、愛する者と一緒になる道もあるのではないか。自分の人生には、軍人の妻としての道だってきちんと用意されているのではないか――。

 そしてそこまで考えて、テトラは自虐的になってしまうのだ。何一つ進展させようともしていないのに、よくそこまで夢ばかり膨らませられるものだ、と。これも何度となく日記に登場するくだりである。


 ……でもそろそろ、そんな状態をおしまいにするべきだ。


 いま、テトラはある決意をしている。今年の前祭の最後の日は、ハキルの誕生日だ。自分より三年早い生まれだから、その日彼は二十三歳になる。

 その日、思いきって私の気持ちを伝えよう――それがここ半月ほど、テトラの頭の中と日記の多くを占めている関心事だ。


 もちろん不安はある。鼻で笑って罵られることはないだろうが――そんなことをする人だったら好きになっていない――受け入れて貰えるかどうかはべつの問題だ。

 自分がある程度以上に慕われていることはわかっているが、それが男女の仲に繋がるものであるかどうかは、ハキルの態度からは見えてこない。いや、あるいは自分の察しが特別に悪いせいかもしれないのだが、とにかくやってみなければわからない。

 正直、こわい。


 でももう決めたことだ。これこそが私にとっての式典のもっとも大きな意味なのだ――。


 テトラは今日もその思いの丈を日記に綴る。

 それは自分の在りようの忠実な記録であると同時に、自ら逃げ場を塞ぎ、退路を断つための行為でもあった。

 これだけ話を膨らませておいて、まさか何もせずに当日を無為に過ごして終えるなんて記録は残さないよね――そういう問いかけであり、ある意味での脅しだ。


 頑張れ、私――。

 その一文で今日の日記を締め、テトラはぱたんと日記帳を閉じる。そして一つ大きく伸びをした。

 書いただけで何かを少し成し遂げたような気になってしまうのが、この習慣の最大の罠だ。それだけは注意しよう。そういつものように自分に言い聞かせる。


 当日、町は大騒ぎだろう。自分がそれに励まされるか、あるいは逆にそのせいで萎縮してしまうかはテトラには読めなかったが、最高の舞台であることは確かだと思う。

 私のいままででいちばん大きな恋。絶対に成就させたい恋。それが実るかどうかの大勝負。


 私はやり遂げます。だからどうか、何事もなくその日を迎えられますように。

 テトラは神にそう祈った。都合よく願いを聞き届けてもらうには少し日頃の信心が足りないかもしれないと、一抹の不安を感じながら。

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