神聖灰色帝国主催聖暦一〇〇〇年記念誇大式典
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第一章 テオーリアと皇族の務め
聖暦一〇〇〇年、翠玉の月、一日――。
密偵からの報告によれば――という将軍の言葉を聞きながら、テオーリアは珍しくとっちらかってうまくまとまらない思考と格闘していた。
普段この王室会議に出席するときは、自分にできうる最高の集中をもって取り組むのが彼女の信条である。彼女は常日頃、呼吸するのと同じように自然にそれをこなすことができる。
でもなぜかこの日はそのようにはならなかった。昨日までと打って変わって暖かかったからかもしれない。今年の春は例年より肌寒い。今日になってようやく春の女神が己の役割を思い出したという風であった。
密偵、とテオーリアは思う。
いま現在、我ら神聖グランダリア帝国と明確に敵対している国は存在しない。
この大陸において、国家間の戦争は二十年間起きていない。それはこれまでの血生臭い歴史から考えれば、まさに奇跡といっていいだろう。
今年十七歳になるテオーリアは戦争を知らない。教養として様々な記録や逸話を学んできたから、それなりに語ることができるし、戦争経験者の話を理解することもできる。
でも人生の少なくない部分を戦争といううねりに翻弄されて生きてきた人々の本当のところを掴むには、やはり決定的に足りないものがある――そうテオーリアは考えている。
そこに後ろめたさのようなものを感じることもあるが、生まれを過去にずらすことができない以上、割り切るしかない。皇女である自分が担っているのは、これからのことなのだ。真に見据えるべきは、過去ではなく未来である。
未来。テオーリアが夢見る未来とは、恒久的に平和が約束された未来だ。
しかしもちろんそれが夢物語に過ぎないことは、彼女もよくわかっている。
自分がいつ死ぬかは神のみぞ知るところだが、幸運にも長生きができたとして、天からの迎えが来るまで一度も戦争を知らずにいることは恐らく不可能だろう。
しかしそれでも、できる限りあがき続けたいとテオーリアは自らに誓っている。
そのための政治。
民からすれば、いまのところ平和な毎日かもしれない。そのように見えるよう努めているのだから当然だ。
しかしその平和な毎日がどのように保たれているかということについて、テオーリアはこの王室会議の一員となることで、嫌というほど理解することとなった。
その一例が密偵だ。
敵対している国が存在しなくとも、密偵が職を失うことはない。現在も帝国は周辺国に密偵を送り、決して軽くない情報を日常的に盗んでいる。
そしてもちろん、この帝国にも他国からの密偵が送り込まれていることだろう。
裏でつばぜり合い、足を引っ張り合い、事と次第によってはそれが何か大きな騒動に発展することも辞さない。
そのようなひりひりするやりとりを様々な国と続けながら、なんとか大事には至ることなく流れてきたのが、この二十年間なのだ。奇跡の二十年という言い方はちっとも大袈裟ではない。
「密偵によれば――シュケル王国、ラストラス共和国、ダレン王国で、使途不明金の流出があったそうです」と将軍は言った。
「シュケル、ラストラス、ダレン」と大臣の一人がわらべ歌のように復唱する。「ものの見事に、式典の件に露骨な難色を示していたところばかりだな。その三国が同時にか。それはつまり、そういうことと解釈すべきなのだろうか」
そういうこと、の一言でこの場のすべての者がその意図を共有するのを、テオーリアは頼もしく思うと同時に、寂しくも思う。人は本来、こんなことに慣れるべきではない。
「式典で何かあれば、我が国の面目は丸潰れだ。それをお覚悟の上で断行された陛下に、不当なそしりを向ける輩も出てくるだろう。――将軍、他に知らせはあるか?」
「正式な議論の場で、我が国に弓を引くような決議がなされたという話は耳にしていないそうです」と将軍は淡々と説明する。この会議における彼の仕事は事実の報告であって、私見は限られた場合にしか求められない。
「密偵が把握し損ねているわけでないのだとしたら、三国の一部の家臣達が組んでの、私的な行為という線が濃厚ということかな。単に大きな不正が偶然この三国で同時に起きたと考えるのは、いささかめでたすぎる」
「シュケルの線はないのではないか?」とべつの大臣が言った。「中立国という壁に自らひびを入れるような真似はすまい。それに法王を抱えている国が、法王主賓の式典で派手なことをやらかすだろうか?」
「わからんぞ。現法王を良く思っていない輩であれば、シュケルの人間であろうとも法王暗殺まで考えていることも、可能性としてなくはない」
「発覚したらとんでもないことになるぞ」
「発覚しなければいいわけでしょう。要は証拠がなければ問題ないわけです」べつの若い大臣が言った。「金の流れの不可解さもその表れではないでしょうか」
「証拠の残らない手段というと……」
「仮に目的を暗殺とするならば――自国で飼っている者を使ったりはしないでしょう。どこにも属さない暗殺者を雇うでしょうね。そういう者は口も固い。どこの国が差し向けたかなど、天地逆となってもわからないでしょう。成功するにせよ失敗するにせよ」
「目的が我が国の威信に傷をつけることにあるのなら、例え暗殺を目論んでいてそれが達成されずとも、騒動が起きただけで成功と言える」大臣は苦々しい顔を作った。「今度の式典においては、危険を感じさせることそのものを断じて封じなければならんのだ。我が国と、そして英断された陛下のお心のためにも」
皆が一斉に、最上席で沈黙を続けていた父――皇帝エルハディオ七世を仰ぐのを確認してから、テオーリアはそれに倣った。
エルハディオ七世は先ほどからずっと、腕を組み、じっと目を閉じ、皆の議論に耳を傾けていた。
彼は雄弁を好まない。吟味され磨き上げられた言葉だけが真に力を持つというのが信念であり、いついかなるときにもそれを体現している。
家臣もそれをよく理解しているから、まずは彼の前で議論を尽くし、それが区切りを迎えたところで彼の意思が口をついて出るのを待つ、という流れができあがっている。その言葉は常に重く、家臣達は皆、その一語一語を深く噛みしめることになる。
「……この首都エルグランへの入国制限はない」と皇帝は低く言った。「神聖グランダリア帝国は、聖暦一〇〇〇年を祝うにあたり、あらゆる人間を受け入れる」
大臣達が皆うなずくのを、テオーリアは複雑な思いで窺う。
それはすでに定められていることだった。式典にあたり、帝国は懐深く万民を迎え入れる。せせこましいところはひとかけらも見せたりはしない。その上で、すべてを滞りなく、一切の問題を発生させることなく成し遂げる。
今年の式典をこの国で執り行うことが決まる――否、決める前から、それが絶対の命題だった。あとはそれをいかに実現するか。知恵を絞ることが許される領域はそこから先だけだった。
しかしそれは非常に困難なことだ。善良な一個人としてエルグランにやって来るであろう人間の数は、住民の人口を上回ると試算されている。
テオーリアに言わせれば、その試算も楽観的に過ぎるものだ。式典、そしてそれに先立って開かれる三日間の前祭は、文字通り人間の坩堝と化すだろう。
その中にどれだけ紛れ込んでいるかもわからない不徳の輩の跳梁跋扈を、果たして食い止めることができるのか。
父と自分とでは式典の成功の定義が異なっていることを、テオーリアは理解している。
父の考える成功とは、式典そのものの完成に他ならない。それによる帝国の威光の顕示こそが父の興味のすべてと言っていい。
極端な言い方をするのであれば、そこにはエルグランの民と来訪者達の無事は含まれていないのだ。
だから例えば町で殺人があったとしても、父はそのことをもって威光の失墜とはみなさないだろう。
だが自分の考える成功は違う。一切の悶着なしですべてを終えるのは事実上不可能としても、市井が一定の平穏を失うことなく回り続けることもまた、成功という言葉の示すものの一部だ。
そのような自分からしてみると、父の――大陸に知らぬ者無きエルハディオ七世の思い描く式典は、あまりにも大きくあろうとし過ぎている。
父はある意味で賭けに出たのだ。聖暦一〇〇〇年という年を、皇帝という立場で生きて迎えることになったことを最高の僥倖と捉え、それをもっとも帝国が光り輝くかたちで彩ろうとしている。
そしてそれをさらに一〇〇〇年先まで語り継がせようとしている。
父の勝算は、式典の完成に目的を絞っていることにある。そこだけを重視し、持てる力をそこにのみ注ぎ込むのであれば、確かに普通の人間の悪意を押さえ込むことは可能かもしれない。そして普通でない人間の悪意の対処については――同様に普通でない人間が担うことになるわけだ。
「テオーリア」とふいに皇帝は言った。「不服か?」
テオーリアはどきりとする。胸の内に並んだ言葉を、その鋭い眼ですべて読まれたような気持ちになった。
もちろん父にそのような能力は無い。しかし式典の件に関して、自分が父のやり方に全面的に賛成でないことは、すでに周知のことなのである。それを込みで、顔から心情を洞察されたのは確かなのだろう。
「――これまでにお伝えしてきた通りです」
テオーリアはまっすぐに父の目を見つめて答える。周囲の者は、そのあまりに毅然とした態度にはらはらする向きと、またかと言わんばかりに溜め息をつく向きに分かれる。
皇帝はテオーリアと何かを天秤に乗せて測っているかのように彼女の瞳を無表情に見つめ返していたが、やがてほんの小さく口元を笑みのかたちに歪め、組んでいた腕を解いてその片方を卓に置いた。
「余の見立てでは――ただの人間は送り込まれない」
「……それは何故でしょう?」
「少数では何もできん。だが多数で暴れて我らが式典を破壊しても、我が国への視線は一方的に不利なものにはならぬ」
「なるほど」と大臣の一人が言った。「我が国の失態を明確にあげつらうためには、そうなっても仕方がなかったと大衆が思うような規模は妨げになるわけですな。大人数なら所属も明白になるでしょうからな」
「しかしそれでも確実に我が国が責任を負うことになるでしょう。強引な誘致の代償として」
強引な誘致、というところをテオーリアはわずかに強調する。
「理屈ではそうなるが」と皇帝は応える。どこか楽しそうにテオーリアには見えた。「余の勘が告げているのだ。連中はそうは動かないと。……もちろん備えはする。ただの人間については軍が押さえ込んでみせよう。だがもし余が賭けをするならば――どの国の所有物でもない、流浪の魔人が送り込まれることに賭けるであろうな」
大臣達が一斉に自分の顔色を窺うのをテオーリアは感じた。これ以上内側を読み取られるのは愉快ではなかったので、彼女はできる限り何でもないという表情を作る。
「……流浪の魔人として確認されているのは、紫雨と白蛇の二人でしたか」
「どちらも能力の子細は明らかになっておらぬ。ゆえに介入の仕方も事前にはわからぬ。それを止めるのがあ奴の役目だ――金獅子に問題はないか?」
「ありません」とテオーリアは即答した。「いつでも勅命を果たすことができるでしょう」
「それならよい」
皇帝は静かに目を閉じる。その問答の短さは自分に対する信頼を表したものなのだろうと、テオーリアは好意的に解釈する。
――式典まであと一月。
不安は山ほどある。嫌な予感は果てることがない。しかし何としても乗り越えなければならない。国賓を守り、民を守り、秩序を守らなくてはならない。そのためには自分のすべてを捧げるし――金獅子。そなたにも命を賭して貰わなくてはならない。
テオーリアの心にちくりと何かが刺さる。戦わなければ得られない安らぎというものが存在することを、彼女は頭では受け入れつつも、まだ完全には肯定できていない。
それが取り除かれるべき甘さなのか、必要な葛藤なのかも、自身ではうまく判断がつかない。
所詮はまだ成人もしていない身よ――テオーリアは自嘲的にそう考える。帝国始まって以来の才を持つ皇女と持て囃されている彼女もまた――いや、それゆえに、かもしれない――様々な壁に阻まれながら日々を生きているのだ。
◆
会議室を出て、中庭を通りがかったところで、テオーリアは背後から声をかけられた。
「姉上!」
自分をそう呼ぶのはこの世で一人しかいない。その声は、隠すつもりのまったくない好奇心と、この世でもっとも距離の近い者であるがゆえの遠慮のなさで満ち満ちている。テオーリアは苦笑しながら振り返った。
弟――皇太子エルクラークは、いつものようにお気に入りのメイドであるセフィを伴い、姉と同じ飴色の瞳を輝かせながら、軽く息を弾ませていた。テオーリアと目が合ったセフィが深々と頭を下げる。
「会議はどうでしたか?」
「……帝国に弓を引く者がいるらしいという結論に達した」テオーリアは手短に述べる。「恐らく式典を妨害するつもりだろうと」
「やはりですか」とエルクラークはいまにも身を乗り出さんばかりの調子で言った。「ここが我が国の力の見せ所ですね。他の国ならば到底不可能な、歴史に残る大きな式典にする――そうすればさらに盤石、父上の名もさらに輝くことでしょう」
「父上にはご自身の名をどうこうしようという気はないよ」そう言ってテオーリアは中庭を見つめた。「ただただ我が国をより強大にすることにのみ心を砕いておられる」
「素晴らしいことです。歴史を紐解けば、権力にあぐらをかいて堕落し、国を没落させた為政者は数知れない。父上は根本的にそのような連中とは違う生き方をしておられる」
「……我欲で動いていないところは私も尊敬している」
小さな鳥のつがいが池の縁にとまり、水をついばんでいる。ここにはよく鳥が訪れ、束の間の休息を楽しんでいく。すぐ側には食べられるものもたくさんある。彼らにはきっとここが楽園に見えているのだろう。
「……しかし、どうなのだろう。この国を強くすることに、父上は固執しすぎではないかと私は思うのだ。強いことが必要なのはわかる。しかし父上はそのためにほとんど何もかもを捧げようとしている。その中には、それ自体が意味と価値を持っているものもあるのではないかと思うのだ」
「強さを第一義としなければ、様々なものが揺らぐのではありませんか?」
テオーリアはエルクラークを見る。
彼は父を心酔している。父の考え方に心の底から共鳴しており、やがては自分がその意思を継いで立派な皇帝になるのだと公言してはばからない。
テオーリアとはわずかに二歳の違いしかないが、彼女には弟はとても無邪気で純粋な、幼い少年に見えている。良く言えば未来ある眩しい存在だが、悪く言えば、現段階では単に父親の思想をそらんじているだけの、真似事遊びをしている子供に過ぎない。
「……我が国の抱える力がこの大陸の均衡に寄与しているという考え方を否定はしないよ。実際に父上はそうやって今日も平和を維持している。しかし、そろそろそのやり方にも軋みのようなものが出てくるのではないかという気が、私はする。他国との共存共栄を望む視点を優先すべき時期にさしかかっているのでは――」
そこまで言って、テオーリアは言葉を止める。エルクラークがいささか複雑そうな顔でこちらの言葉を聞いていたからだ。
彼にとって、姉のテオーリアはこの世で父の次に尊敬している人物である。十五の誕生日と同時に王室会議の一員となった皇女など、これまでの歴史に一人もいない。
彼は冬を迎える寸前にその年齢に達するが、そのときに父が自分を議員として迎え入れることはまずないだろうということはわかっている。自分にはまだ足りないものがある。それを埋めるまでは――成人する前に必ず埋めてみせるが――自分はまだ半人前なのだ。そんな彼にとって、姉のテオーリアは性別こそ違えど、少し先を生きる手本である。
その姉と父とのあいだにある思想の違いに思いを巡らせるのは、若き皇太子にとっては難しいことなのだ。
立場としては、彼は常に父の側にある。しかし姉と対立はしたくないし、対立することがあっても、議論などしようものならほとんど何の抵抗もできずに血みどろにされてしまうだろう。
テオーリアから見て、エルクラークはまだ本腰を入れて国の在り方を語り合う存在にはなりきれていない。
しかし一人前になろうとする弟の気概は認めているし、共にまだまだ成長したいと思う。そのあたりの匙加減を気遣うのが姉たる自分の役割なのだろうなと彼女は思う。
「お前はよく町に出ているな」とテオーリアは言った。「民の意見はどうだ? 彼らはお前に何と言っている?」
「皆、慕ってくれています。式典についても、忌憚のない意見を聞かせて欲しいと何度か問うてみましたが、歓迎する声しか耳にしたことがありません。民にとっては、前祭から式典のあとの数日までが、等しく興味の中心のようですね。そのあいだに一年遊んで暮らせる稼ぎを上げるんだと冗談を言って笑っている者もいました――な、セフィ?」
はい――とセフィはしとやかに答える。
「まあ、お前がいくら忌憚のない声を求めたところで、面と向かってお前に式典を否定する言葉をぶつける者もおらぬだろうが――民の高揚は本物、なのだろうな」
「エルグランの民はいついかなるときにも活気があります。それがこの空にも負けず町を発展させ続けている原動力なのでしょう」
二人は空を見上げる。そこには二人が生まれたときから変わらぬ、のっぺりとした灰色の曇天がある。
「……民に好かれるのは、お前の大きな武器だな」とテオーリアは空を見たまま言った。「いつかこの国を背負って立つとき、そういうところが何よりの強みになるのだと思う。くれぐれも手放さないようにな」
「具体的には、どのようにすればよいのでしょう」
「私にも簡単には言い切れないよ。でも、人を好きであることはたぶんその重要な一角だ。これからの人生、我々の前には多くの醜いものが行く手を阻もうと姿を現すのだろうが、そういうものに心を黒く染められぬよう気をつけよう――互いにな」
はい、と短くエルクラークは言った。生い茂る草木のような返事だった。
「お前はこれから、いつも通り剣術の稽古か?」
「そうです。姉上は部屋に戻られるのですか」
「うむ。読まねばならぬものと、書かねばならぬものがどちらもある。もっと速く読めて書けるようになりたいものだが、こればかりは限界があるな。いま以上に急いでも、ただの雑な行為になってしまう」
「バルジはどうしていますか。少し食欲がないようだと言っていましたが」
「心配するほどのことではないと思う。本当に少しだけ餌に口をつける勢いが弱いという話でしかない。それ以外はいつもと変わらぬ振る舞いだよ」
「改めて、姉上が羨ましいですね」とエルクラークは笑った。「母上の形見と我が国の秘剣たる金獅子、二つを飼い慣らしておられる。私にもそういうものが――」
「クック」とテオーリアは刺すように言う。「前にも言ったろう? 飼ってはいないよ。どちらも私の友だ」
エルクラークは小さく、しまった、という顔をする。「申し訳ありません。失言でした。忘れて下さい」
「いいよ。私のこだわりのようなものだ――では私は行くよ。また夕食に遅れぬようにな。どうも最近のお前は会食以外を軽んじていけない。何に勤しんでいるかはわからぬが」
「聖典の解釈書がことのほか面白いのですよ。のめり込むと区切りをつけるのが難しくなるのです」
「そうか。それ自体は良いことだ」テオーリアはゆっくりと微笑んだ。「何事も、夢中になっているときがいちばん深く身につくものだからな。伸び伸び学ぶといい――ただし夕食には遅れないように」
◆
一日の務めが終わり、ランプがひそやかに灯る部屋のベッドに体を横たえてから眠りの世界に入るまでのあいだ、テオーリアはよく昔のことを思い返す。
子供の頃の――いまも子供だが――良いことも悪いことも含めた、様々な記憶が代わる代わる浮かび上がるのだ。
今夜は亡き母の思い出が頭をよぎった。本を読んでくれたり、編み物を教えてくれたりといったことを、下々の者に任せずに自ら行うことにとてもこだわる人だった。
テオーリアが十歳になる年に病で亡くなってしまったが、その決して長いとは言えない時間の中でテオーリアが受け取ったものの大きさは計り知れない。
母はいわば太陽だった。本物の太陽の光を直に浴びることのない皇城住まいの身にとって、彼女はまさにそれに代わる、全身を心のいちばん奥底まで照らし、温めてくれる存在だった。
父と母は周囲の決めごとによって結ばれた夫婦であったわけだが、昼夜問わず帝政のみに尽力し、体温らしきものを感じさせない父も、母に接するときはとても――語弊のある言い方かもしれないが、人らしかった、とテオーリアは回想する。
二人の結婚は終戦から一年後のことだ。その時点では遠からずまた戦火が燃え始めることが予想されていたはずだ。
そのような時勢において――父がそのようなことを直接語ることはまずあり得ないが、恐らくは父にとっても、母は大きな拠り所だったのではないかとテオーリアは思う。そうあって欲しいという願いを込めて、強くそう思っている。
母は生まれつきあまり健康なほうではなかったという(その体質はエルクラークが少なからず受け継いでおり、彼は熱を出しやすい)。
しかし病弱というほどでもなく、病に倒れたのは近しい者達にとっても突然の出来事だった。
もちろん考えうる限り最高の医者、最高の医療技術、最高の薬が持ち込まれたわけだが、その甲斐も虚しく、病の発覚からわずか半年で母はこの世を去ることになった。
母の臨終の瞬間に、テオーリアとエルクラークは立ち会っている。父は公務でその場には居合わせていなかった。
痩せ細った母は最後の最後、何か清々しさすら感じる、すべてを超越したような表情で二人を包み込むように見つめ、一言、何かを口にした。しかしテオーリアをはじめ、その場の誰もそれを聞き取ることはできなかった。もはや声になっていなかったのだ。そしてそのまま母は目を閉じ、眠るように息を引き取った。
母の最後の言葉を胸に刻めなかったことを、テオーリアはいまも後悔している。
母は私達に何を言い残したかったのだろう。それがどのようなものであれ、自分はしかと聞き届けるべきだったのだ。
母の言いそうなことについて、想像である程度の見当をつけることはできるが、それをすることは母の死から尊厳を奪うことに繋がるような気がするので、テオーリアはそこを空白のままにしている。それは永遠の後悔であり、永遠の問いだ。
母の死によって皇家は三人になった。それは幼いテオーリアにとって天地がひっくり返るような変化だったが、客観的には皮肉なまでに何も変わらなかった。
皇后という立場には大きな役割が伴っていたはずだが、その喪失は周囲の細心の努力によって何事もなかったかのように埋め合わされた。
父は後妻を娶ろうとはしなかった。それがどのような意図によるものなのかは、テオーリアにはわからない。その胸の内を知りたいと思ったことは幾度となくあるが、そういうことを訊ねてよいと感じさせる父ではなかった。
一つ言えるのは、父の意思決定は幼いテオーリアとエルクラークにとっては結果的に穏当なものであっただろうということだ。
ある程度の年齢になってからテオーリアはときおり想像した。もし父がすぐに後妻を娶り、自分に腹違いの弟か妹ができていたとしたら――それは温かい関係になり得る以上に、後々の火種になり得たのではないか。
父はそれを避けたかったのかもしれない。万が一にも帝国が二つに割れるようなことがあってはならないと警戒したのかもしれない。
いずれにせよ、エルハディオ七世は依然皇帝として君臨し、皇女テオーリアと皇太子エルクラークがそれを支えるという体制が続いている。
母が私的に飼っていた梟のバルジは形見としてテオーリアに与えられ、彼もまた健在だ――いまは多少、食欲が落ちているが。
――守らなければならない。そうテオーリアは自分に言い聞かせる。何を? すべてをだ。皇家を、国家を、民を、そして亡き母の名を汚さぬ娘であることを。
意識が混濁してきた。夢の世界が迎えに来たようだ。
式典まで一月。やれることはすべてやる。そしてすべてを無事に終えて一息つくことができたら、そのときこそ私は十七回目の誕生日を心から……。
……そして今夜も皇女は眠りにつく。明日の笑顔のために。
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