意図の履き違い。

誰かに、何のために仕事をしているのと言われたら、『生活のため』と答えたい。


小荒こあらさん、ここ、また間違えてますよ」

「すみません。書き換えます」

「本当にやる気あるの?」

 嫌味たらしい言葉を残して、正社員の鳥居とりいおばさんは、どこかへと去っていった。何度も繰り返されるミス。面倒臭さが、ミスを誘発させていく。


「おい、小荒! 俺が今度、プレゼンで使う資料なんだから、言われた通りに作れって言ったよな」

 目を吊り上げて、声を荒げている熊川の声が、部屋全体を包む。高圧的に、言い放って、『すみません』と繰り返した。

「分からないなら、聞いて来いよ。責任は俺が取るだからな。ふざけんなよ、仕事ぐらい、きちんとしろよ。」

 熊川は自分自身で作ればいいプレゼンの資料に、あれこれ文句を言っている。本当に、仕事を頼んでいる人への言葉なのだろうかと思ってしまう。

 いつも、コロコロと言ってることが変わっている。「言われた通りにやった」と反論したところで、「そんなこと、俺は言ってない」と逆ギレしてしている。決して、相手の立場ではなく、熊川は自分の立場を優先するような態度をとって、非などあるようでないようなものだ。小荒は、自分が言われてるわけでもないのに、頭が重くなっていく感触を味わう。

「申し訳ございません。もう一度、作り直します」

 理不尽な言葉を言われても、逆鱗に触れないように、ビクビクしている。

「熊川さん、猫山ねこやまさまがお越しになりました」

「ああ、分かった」

と呼びに来た女性を見て熊川は、資料を頼んでいた小荒を睨むように威嚇して、取引先の猫山の元に歩いて行った。


「いつも、お世話になっております」

「どうぞ、こちらに」

 熊川は、笑顔で猫山と談話をしながら、会議室に入って行った。室内に、全体にため息が漏れる。


「クマが、少しでもいなくなると助かるわ」

 隣に座っている。4つ上で、今年34歳のシングルマザーの犬養いぬかいが言った。

「熊川さんを好きな人っているんですかね」

「いないんじゃない。」

 小荒は、秒で返されて、驚いた。

「あんな人を好きになるなんて、この会社にはいないでしょうね」

 犬養は続けた。

「言葉遣い荒いですよね」

 小荒は、少し、批判的なことを言ってしまって、引け目を感じた。噂話が好きな犬養の前では、何となく批判的な言葉を控えるようにしていた。

「まあねえ…」

 犬養はそう言って、深いため息が出た。

「そこ、おしゃべりは、ほどほどにね」と女性の人の声が聞こえてきて、仕事に小荒も犬養も戻った。


 少し前に、熊川の元で働いていた女性が辞めた。その女性と熊川は、よく口論になっていた。

 辞めた女性は、口論になると、泣きながらトイレに逃げ込むように、逃げて行った。

「あいつは、俺に対して、失礼だ」と周りにいかに、自分はないも悪くないと主張するように熊川の声を聞こえてきた。

 熊川の自分の考えを押し付けて納得させたい態度に、女性は上手く対応できずにいて、上手くいかないから、泣き叫んでいるのをよく見ていた。それに、誰に相談している様子もなかった。まあ、周りは見て見ぬふりをして、誰も女性に声を掛ける人はいなかった。だから、相談する勇気も出なかったのかもしれない。熊川の上司に当たる人物も「まあ、適当にあしらえばいいから」と言って、深刻に対応する気のなかったようだった。まあ、当たり前かもしれない。誰も熊川に、的確な対応している人が、この部署には存在してなかったのも確かだ。

 女性は精神的に病んでしまったようで、仕事を辞めて行った。


 熊川は、どこか毛嫌いされていたのも事実だ。怒られないように、怒鳴られないように、上手く仕事を行っている人もいた。笑顔で、ご機嫌をとるように、対応していた。それは、熊川を尊敬しているわけでも、熊川の仕事に貢献したいわけでもない。

 そうやって、上手くこなすことで、熊川に、怒られないように、適当に仕事をこなすテクニックに身に着けていってやり過ごしていたのだ。

 そういう人に限って熊川に気にいられる。ただ、それを誰も光栄と思う人はないようだった。ほとんどの人は、熊川の元を離れると、二度と関わろうとしなくなる。

 人は熊川を踏み台にして、去っていく。熊川から離れるために、やる気を起こす人。怒られて、やる気を無くして辞めていく人に分かれていく。そうやって、相手のやる気を起こしたり、失わせて、誰からも慕われない人間が生産されて、偽りが生まれる。

「ちょっと、小荒さん。昨日、この企画書の書類に不備があったんだけど」

 小荒が声の方に顔を向けると、顎が二重にも三重にもなっている顔がこちらを睨んでいる。制服も張り裂けそうな猪木いのきという女性社員が仁王立ちで威嚇してくる。

「え!それ、私じゃないです。昨日、犬養さんがやっていた気がするんですが」

 弱腰で、声に力が入らない。

「昨日、犬養さんに聞いたら、小荒さんがやったって言ってだけど」

 隣の犬養をちらりと見た。そこには、こちらの様子など、お構いなしで、見て見ぬふりなを貫いている。何食わぬ顔で、席に座って、デスクワークをしている。

 その態度に、小荒は怖さが体中に充満した。責任を押し付けてきた人に、何も言えない。頼れない。無視だと引け目が前面に出てしまっている。焦るどうすればいいのだろう。頭をフル回転する。

「何やってくれてんだ」

 最悪なことに、熊川がこちらを睨んで、近づいてきて、怒鳴れた。小荒の耳が壊れるような音を鳴らすように、全身に力が入り、頭が痛くなっていく。

「申し訳ございません。」

 小荒は何も悪くわないことは分かっている。けど「犬養さんがやりました」と言った、熊川は「他人の責任するな」と声を荒げていう。なので、謝罪の言葉しか出てこなかった。これ以上は怒鳴られたくはない。だから、謝ればこの場を丸く収まると、小荒は頭をフル回転した結果だった。

 「やっと、やれよ!ホント」

 そう言って、小荒を威嚇するような目で睨んで熊川は立ち去って行った。「不備もきちんと直してね」と猪木が、書類を小荒に押し付けても行ってしまった。


「大変だね」

 声の方を確認した。隣の犬養だ。小荒は放心状態になる。その理不尽な態度に、呆れがよぎっていく。どう対処すればいいのか、答えを求めても、何も出てこないのは確かだった。 ああ、この人はこういう人だ。一度、責任を押し付けたら、押し通してくるのだ。そうやって、全責任を押し付けることに、何の罪悪感も抱くこともないのだろう。

 パソコン画面にメールが届いたことを知らせるアイコンが出てきた。犬養からだ。      メールを開けると、不備の資料を添付して、空メールで届いた。ファイルを開いて、不備が直っていることを期待した。一応、猪木から受け取った資料と見比べた。何も変わっていなかった。何を期待をしたのだろう。

 メールに少しでも謝罪の言葉をなかった。それに、なんで小荒が不備を直さないと、いけないのだろう。もう一度、犬養のデスクに目を向ける。相変わらず、何食わぬ状態で、作業を行っている。 

 トイレに誰か入って来て、手洗いのスペースで、話し始めた。

「さすがだね。小荒さん、責任転嫁するとは」

 ああ、猪木の野太い声が聞こえてきた。

「小荒って、利用しやすよね。あの子、私に逆らってこないし、ミスは押し付けとけば、熊川に目つけられずに済むから、ありがたい存在だわよ。不備も、文句も言わずにやってくれるから大助かりだわ。」

 犬養と猪木の声だ。2人の悪戯ぽく、いやらしい声が響く。小荒はトイレのドアから出られないでいた。天を仰ぐ。やってもいない不備を修正して、他の仕事もこなした。

 たぶん、小荒は仕事を終えて、帰ったと思われているのだろう。リュックサックが前のフックに引っかかっている。

「でも、不備くらい、自分で直せたでしょう?」

「まあ、そうなんだけど。私、あの子、嫌いなんだよね。あの弱腰、怯えている感じが、どうしても、仕事、押し付けたくなるんだよね」

「ほんと…」

 何という、不快な会話だろう。猪木は、不備をしたのが、犬養と知っておいて、小荒に、仕事をさせたのだ。なんていう、理不尽なことなのだろう。

 何で、この世の中、理不尽な生き方がまかり通っていくのだろう。小荒は、責任という重圧を勝手に押し付けられて、疲れてくる。

トイレの入り口のドアが開いて、そして、閉まる音がした。

 小荒は、この会社は誰も助けてくれないことを悟っている。でも、会社を辞めることが出来ない。生活がある。すぐに、仕事は見つかるわけがない。やっと、慣れてきた仕事を変えることにも抵抗がある。 手を洗って、鏡をみる。目の下のくまが、小荒の疲労を加速させる。仕事を継続するのは、生活があるからだろう。お金がなければ、生きていけない。他人の機嫌より、お金だ。


 「小荒、猫山さんから、メールは届いているか?」

相変わらず、熊川の高圧的な声が、社内を重苦しい雰囲気を生んでいた。

「まだです」

 小荒は、熊川と対峙している。

「やはく、送ってもらうように、連絡しろ。プレゼンは明日だからなんだぞ」

「はい」

 小荒の疲労はみるみる酷さが、増して見える。

「あの人、なんで、いつも期限を守らないんだ」

 熊川の不機嫌な態度が、いつものように、ストレスを与えてる。


部屋が開いて、苦痛な顔をして部長が入ってきた。

「どうか、されましたか?」

 朝、常務に呼び出されていた部長に、女性社員が声を掛けた。

「ああ、会議室に、熊川を呼んでくれ」

「はい、分かりました」

 女性社員が呼びに行こうとしたら、熊川がこちらに気づいて、歩いてきた。

「どうかしましたか?」

「ちょっと、話があってな。会議室に来てくれ」

「分かりました。」

 部長と熊川は、会議室へと入っていた。


 しばらくして、2人が出てきた。熊川は不服そうな顔をして、出てきた。

部長は熊川に目配せして、「わかったな」と言って、席に戻っていった。


 空気がよぎれるほど、怒っている様子の熊川が、椅子に深く腰掛けて、大きなため息をしている様子が見えた。

さらに、「明日のプレゼンがなくなった」と怒りと苛立ちが混じった声が聞こえた。


「亡くなったんだって」

 お昼から戻ってきたら、隣の犬養が言った。辞めた女性が、自殺を図り、家族が会社と熊川に請求賠償をしてきたとのことだった。

 朝の呼び出しは、このことだったんだ。これまでも、何度か、熊川に、社員からクレームがあったらしい。それを何の対応も会社はしてこなかった。

 ただ今回は、プレゼンなど、重要なポジションから、外されることは決まったらしい。ただ、辞めらせることはなかった。


 女性は立ち直ることが出来なかったようだ。精神的に病んで、行き場のない憤りが、死をまねいた。

 だた、熊川は「人の責任にしやがって」と周囲に漏らしているらしい。女性に対して、懺悔のようなものは何一つないのだろう。

 それに、働いている人たちも、「何で、死ぬかな。迷惑なんだけど」と怒っていた。当たり前なのだ。誰かが死んだところで、皆、生活がある。死者を生んでしまった会社は評判が悪くなる。人にとって、誰かの死より、自分たちの生活なんだ。

 歪んだ社会で、理不尽な環境でも人は生きるために、働くしかないのだ。


生活という仕事は息が詰まるが、辞めることが出来ないのが、人間のサガなのだろう。

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