第3話 静子の場合
結婚して四年の間に俊二は二回の浮気をした。
初めての浮気は泣き叫んだ。
悲しくて仕方なかったけど、ひたすら謝る俊二が不憫になり許した。
二回目の浮気のときは、男はこういうものだという周りの意見に賛同した。
「しょうがないわよ。男なんてそんな物よ」
「そうなのかな」
「離婚すると大変よ」
そう言った美紀子は×が一つ付いていた。
「やっぱお金かしら」
「まあ、それだけじゃないけど、まずはそこね」
美紀子とは大学の頃からの友達で、行政書士の事務所をちょうど立ち上げたと聞いていた。
「美紀子はいいわ。自立していて」
そう言った私に、
「あなたも取ったら?資格でも」
簡単に言われ、簡単に取れると思ってしまった私は資格を取る決意をした。
久しぶりにやる勉強は楽しく二年目で試験に合格した。
「合格したわ」
最初に美紀子に伝えた。
「ほんと?おめでとう」
美紀子は自分のことのように喜んでくれた。
俊二も少し大げさに喜んでくれ、何だかうれしかった。
私は美紀子の事務所で補助者として働き始めた。
仕事が楽しくなってきたときに、俊二は三度目の浮気を始めた。
俊二の浮気は判りやすい。
まず優しくなり、俊二から匂いが消える。タバコの匂いや汗の匂いはもちろん、石鹸の匂いも、私のかすかな香水の匂いも。
初めてのときは気がつかなかったが、三回もやられればいやでも敏感になる。
「また?」
美紀子はそう言って他人事のように笑った。
「まあ、しばらくは知らない振りをするわ」
そう言いながら何だか損している気分になったので、私は出来るだけ我儘を言うことにした。
俊二は何の疑いもなく私の言うことをことごとく聞いてくれた。
そんな関係がわりかし楽しかった。
ある日、携帯を忘れた俊二に浮気相手からメールが入るまで。
単純な俊二は浮気相手の名前を会社名にしていた。
会社からメールが入ったら内容を俊二に伝えようとするのは当然なのに。
―今何してる?―
アドレスに名前と生年月日らしきものが書いてある。
私より八つ若い生年月日に腹が立った。
何だか知らない振りをしているのが馬鹿らしくなって、電話をかける。
話は終始私に優位にすすんだ。
「後で主人から最後の連絡を入れさせます」
このフレーズは我ながら気に入った。
言いたいことを言って切ると、気持ちはすっきりした。
そんな余韻に浸りながら、俊二にメールを入れる。
―携帯、家に忘れています―
―解った―
それだけ返ってきた。
少し遅れていた車庫証明の仕事を書き終えると、私は夕飯の支度をした。
何て返信させようか。
夕飯の支度を終えると、手持ち無沙汰になり俊二の受信メールを見た。
浮気相手の受信は消しているせいか一つも無かった。
―今何してる?―
もう一度そのメールを見ると今更ながらいらついた。
何だか俊二に止めを刺させるのはもったいなくなった。
―ゴメン―
私はそれだけ入れた。
なんで俊二だけ楽しんでいるのだろうか。
苛立ちは募り、私は俊二が浮気したとき、取りにに行った離婚届を箪笥から取り出した。
書類を書くのは幾分得意になった私は車庫証明と同じように離婚届を書き、判を押すと美紀子に電話をする
「どうしたの?」
突然の電話に驚きながらも出てくれた。
「私離婚する。弁護士教えて」
「しょうがないわねぇ」
美紀子はそう言ってケラケラと笑った。
十分笑った後、
「住む所とかあてはあるの?」
美紀子の素に戻った言葉で我に返る。そんなもの無かった。
実家に帰るしかないかな。そう思って、声を出そうとすると美紀子が先に言葉を出した。
「本当にしょうがないなぁ。私のところに来なさいよ」
私はどっかで美紀子に期待していたのかもしれない。だから私は美紀子に際その電話をしたのだろうか。
そしてそれは間違いではなかった。
「ありがと」
私は感謝した。
そこまで言うと、弁護士の名前と番号を教えてくれた。かりかりとボールペンの音が響く。
離婚を決めると心が開放された気分になった。重要なことを簡単に決めてしまった気がしたけれど、後悔をしない自信はある。
夕飯を食べ終え、自然と作ってしまった俊二の分にラップをし、冷蔵庫に入れ、バックに服をつめると離婚届を箪笥に入れて、携帯をテーブルの上に置いた。
「ただいま」
俊二の声に急いで椅子に座る。
まるでずっと座っていたかのように。
リビングの扉が開く。
「お帰りなさい」
静かに、だけど力強く言う。
「ただいま」
俊二の声は消えそうなほど小さく掠れていた。
視線が携帯のほうへ向けられる。
「メール返しときました」
私が言うと、俊二は携帯を手に取った。
間髪いれずに箪笥から離婚届と判を取り出す。動揺する俊二の姿が滑稽だった。
私はよく我慢した。
自分に言い聞かせる。
こんな俊二だけれども、昔は好きだった。
結婚し、子供は作らなかったけど、今となってはそれでよかったのかもしれない。
いざ本当に別れるとなると、少し不安になった。本当に生活はしていけるだろうか。また恋愛が出来るのだろうか。本当はこのまま我慢するべきなのではないか。
でも、反面今しかないとも思った。
「私ももう二十八、もう一度恋愛をするにはもう時間を無駄にしたくないの」
自分でも驚く本音が吐露された。
俊二はこの瞬間何を思っているだろうか。さっきまでどこかで楽しんでいた私の心は少ししょぼくれ始めていた。
俊二の行動を凝視していると、何か言おうとしたが、小さく首を横に振り、判に手を伸ばした。そのまま紙に判を押すとテーブルに判子を放り投げるように置いた。
判子は少しだけ転がって止まる。
「では、私はこの家を出て行きます」
自分に言い聞かせるように吐き捨てる。
「後は弁護士を通してください」
予想外に押し寄せる寂しさを振り払うように、言葉に力をこめる。
「お元気で」
足早に玄関へ向かい扉を開ける。
後ろで俊二が何か言っている。
マンションを出ると気が緩み、涙が出た。
「俊二、今までありがと」
そう言って胸いっぱい深呼吸をした。
春の匂いがする。
そんな気がした。
私は胸を張り、新しい自分を鼓舞する。
「よっしゃ」
私はずんずんと歩きながら美紀子に電話をする。
美紀子は相変わらず笑っていた。
「まあ、早くいらっしゃいよ」
「おう」
私は強く頷いた。
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