第2話 俊二の場合

 翠は精力的で、元気で我儘だった。


 言葉を求めた彼女に僕は、子守唄を歌うように何度も好きだといった。


 妻がいる自分にとって、唯の遊びのはずだった翠への思いは、いつの間にか遊びか本気かわからなくなっていた。


「100万回すきって言って」


 初めての夜そう言った彼女は確かに可愛かった。

 私はその日のうちに子守唄の代償として一つだけ約束をした。


 翠からは連絡をしない。


 妻のことは最初から翠は知っていた。翠が二番目であることも。


 翠は辛抱強くこの約束を守った。


 その日までは。


 その日、朝から会議とインターンの面倒に追われ、初めて自分のプライベート用の携帯電話を家に忘れたことに気がついたのは夕方だった。


―携帯、家に忘れています―


 社員用携帯電話にメールが届いて、私は驚いた。

 何故朝ではなく、この夕方の時間帯なのか。悪い予感しかしなかった。


―解った―


 とだけ返しておいた。


 急いで仕事を終わらせ、電車に乗りながら、仕事中には無かった焦燥感が私を襲う。


 今までやった二度の浮気は二度ともばれていた。何故またやってしまったのだろうか。今回は大丈夫だと思ったのだろうか。


 今度も許してくれるとどこかで思っていたのもしれない。


 今度やったら離婚です。


 彼女はそう言って前回許してくれた。


 ある日、会社で必要だった保険証を箪笥から取ろうとして、緑に縁取られた紙には、静子の名だけが書かれていた。前回の浮気その時にようやく反省したはずだった。


 外の景色は流れる。


 タタンタタン


 繰り返される電車の音を聞きながら、通勤快速に乗った自分を呪った。


 考えがまとまる前に電車は下りるべき駅に辿り着いたから。


「ただいま」


 返事はない。

 リビングからはわびしげな光が漏れる。

 ドアを開けると、テーブルの上には携帯だけが置いてあり、静子が座っていた。


「お帰りなさい」


 声だけが響いた。


「ただいま」


 呻くような声を絞り出す。

 自分の携帯に触れていいのか迷い、静子の顔を覗く。


「メール返しときました」


 静子の声に携帯を手に取る。

 よろしかったかしら。

 話すような視線を送る。


―ゴメン―


 飛び込んだ文字は、当然身に覚えの無いものだった。


 静子は私がメールを見るのを確認すると、箪笥から離婚届と判子を取り出した。


「私ももう二十八、もう一度恋愛をするにはもう時間を無駄にしたくないのです」


 何か言おうと思ったが、言葉は出なかった。私は諦め、黙って判を押す。


「では、私はこの家を出て行きます」


 呆けている間に、静子はあらかじめ準備されていたバックを持ち出す。


「後は弁護士を通してください」


 そう言って番号を書いた紙をテーブルの上に置くのを、私は何も出来ず、鞄を置くこともしないままただ見ていた。


「お元気で」


 そう言って玄関の扉を開けた。


「しずこ」


 静子に向かって発せられた言葉は、静子の背中に吸収されたまま戻って来ることはなかった。


 シャワーを浴び、冷蔵庫に準備されていた夕食をレンジで温め食べた。


 静子の最後の手料理を噛み締める。


 次の朝は休日だった。朝食が無いのを見て初めて、彼女が家を出たことを理解する。


 携帯が鳴って、昼間になっていることに気がついた。


 番号は身に覚えが無かったが、残されていたテーブル上にある紙を見て弁護士だと気がつく。


 一週間私は疲労した。


 その間に慰謝料などが決まった。慰謝料は当面の静子の生活費だった。静子の優しさに今更ながら気が付く。 


 静子と別れて二週間ほど経った朝、新宿駅で緑を見かけた。


 翠の隣には彼氏らしき人がいる。


―離婚しちゃったよ―


 メールを送った。別に何かを期待したわけではなかったけれど、懺悔に近いものだった。自分だけ幸せそうな翠に嫉妬したのかもしれない。


 私は会社に向かう。


 人事部にはもう伝えた。


 何となく視線の痛い日常が私を待っている。

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