外はたぶん晴れている
マシンマン
第1話 翠の場合
「ねえ、100万回好きって言って」
そう言った私に、その日寝るまでずっと俊二は好きだと言ってくれた。
「その跳ねてカールがかった睫毛が好き」
「その大きく輝く目が好き」
「その遠慮がちな小さな鼻が好き」
「この枝分かれした前髪が好き」
「この少し大きめな額が好き」
私を見ながら、時には触れながら、ゆったりと降り積もる言葉に包まれるような温もりを感じ、私は安らかに眠った。
初めての俊二との夜はそうやって深く眠りの世界に滑り落ちた。
朝の早い俊二は、私が起きるころには顔を洗い、トーストとハムエッグ、牛乳だけの朝食を終え、歯を磨き、白いシャツを着てズボンをはき、ネクタイを締めていた。私は寝たふりをしながらその始終を眺めた。
スーツの上着を着るところで俊二は私が起きていることに気がついた。
「おはよう」
「おはよう」
この瞬間が私は好きだった。
スーツ姿の俊二にパジャマ姿ぼさぼさの髪型で挨拶を返すのは、何だか恥ずかしかったけど。
「まだ寝てていいのに」
俊二はそう言って私を子供扱いするように頭を撫でた。
「昨日は何回好きって言ってくれたの?」
「128回」
俊二はそう言って微笑んだ。多分嘘であろう数字を、それでもちゃんと答えてくれた事に私は喜ぶ。そして、
「じゃあ、100万回言うのに100年はかかっちゃうね」
「そうだね」
俊二はどんな意地悪にも優しく答えたけれど、どんなに本気で言っても、冗談として捕らえた。
冗談じゃないのに。
「じゃあ、行ってきます」
俊二は笑顔を残したままそう言った。
幸せな言の葉は一年かけて一万ほど積み重ねられたところで焚き火のように燃やされて灰になった。
私は一週間ほど泣き崩れ、天気予報による一週間の降水量に負けないほどの涙を流し、その後三日間カラオケで失恋の歌を歌い、観測史上最大の渇きが喉を痛めさせた。
俊二に奥さんがいることは知っていた。
奥さんのことを愛していることも知っていた。
だから私に限りなく優しかったし、だからこそ私も約束通り自分からは連絡をしなかった。
たった一度を除いて。
―今何してる?―
手持ち無沙汰で送ってしまった六文字のメールに五分と間を置かず掛かってきた俊二の携帯番号。
「俊二」
と弾んだ声で出た。だけど、携帯から聞こえた声は俊二の物ではなかった。
「お世話になっております。俊二の妻です」
落ち着いた声に私はゾクッと背中から張り詰めるものを感じ、足元からは恐怖が駆け上がった。俊二の携帯に何と登録してあるかは解らなかったが、何にせよ、自分の名前と生年月日をloveで結んだ私のマヌケなメールアドレスは、修二の奥さんに情報を与え、私を裸にした。
鼓動は小太鼓を鳴らすように早くなり、頭の中は買いたての自由帳のように真っ白だった。
心音に反比例して時は一秒一秒大太鼓を鳴らすようにゆっくりと重く流れた。
「潮時じゃないかしら」
沈黙を終えて先に声を出したのは俊二の奥さんの方だった。その声は落ち着き払い、まるで槍が降ってこようと微動だにしないのではないかと思わせた。
そう思った瞬間、私の敗北は決定した。いや、付き合った時点で奥さんには負けていた。ただそれでもあえて言うならば、迂闊にもメールを送ってしまった事によって敗北に気づかされたのだ。
相手の言葉にただ私はうんうんと頷いた。
まるでお母さんに怒られている子供みたいだと思いながら。
「後で主人から最後の連絡を入れさせます」
そう言って切れた携帯を握り締めたままぼんやりと窓を眺めた。窓ガラスは情けない私の姿をかすかに反射させ、暗い闇が向こう側に見えるだけだった。
手元に鳴る携帯電話で我に返ると、いつの間にか点けていたテレビは、九時からのお笑い番組がやっていた。
奥さんの電話が切れてから二時間経っていた。
その間に洗濯は畳まれ、部屋は綺麗に片付かれていた。
「わたしがやったのか」
独り言のように呟き、携帯に視線を落とす。
受信メールは俊二からだった。
―ゴメン―
たった三文字のカタカナでこの恋は終わった。
その日は何が何だか解らないまま、半身浴で風呂に入り出来るだけ汗を出すと、隅々まで身体を洗った。足や手の指先はもちろん、髪の先に至るまできれいに洗った。
風呂から出、一人でテレビを見ながらレトルトのカレーを食べると涙が溢れ、ぼたぼたとボタン飴のような涙が零れた。
この日から方舟を沈めるほどの涙を流した。
俊二と別れてから十日後、彼氏が田舎から帰ってきた。
―ただいま―
ミキオからのメールに急いで電話をかける。
「ミキオ会いたかったよ」
「俺もだよ」
「今から会えない?」
「うん、じゃあ、一時間後に」
私はミキオの事を愛しく思う。付き合って二年、きっと私たちの関係はミキオだから続いている。
ミキオの旅疲れを気にすることなく、私はミキオの優しさに甘える。一時間後に来たミキオに私は三日間満たされ、大学の春休みはこうして終わった。
ミキオと大学に向かう途中の新宿駅で向うから懐かしい顔が歩いてきた。
俊二だった。
私はミキオに寄り添い出来るだけ顔を見ないようにした。どうか気がつきませんようにと願いながら。私にはミキオがいて、ミキオのことが好きで。
今の私にとってそれが全てだった。
携帯が鳴った。
俊二からのメール。
―離婚しちゃったよ―
一瞬地面が揺れる。
だれから?
ミキオはおはようとでも言うように聞いてきた。
「サチから。今日大学休むって」
私はとっさに共通の友達の名前を使い笑顔で答える。ミキオはそうか。と言ってさっきまで話していた話に戻る。
私はほっとし、ミキオの腕を引っ張る。
「ねえ、私たちも大学サボって携帯買いに行かない?」
「ああ、そっか。お前の携帯もう4年も使っているもんな」
ミキオの笑顔は爽やかだ。全てが許されるほどに。
私は後ろの喧騒を振り返らずにミキオと共に新宿駅から外に出た。
雲ひとつない空。完全に昇り終える前の太陽が人ごみを照らす。
大丈夫。私にはミキオがいる。
外は思ったより晴れていた。
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