第12話  ~何しに来たんだ?~

8月も20日を過ぎた。

ただ暗記するだけの勉強が苦手だった俺は、少し前から英語と社会の勉強を集中的にやっていた。

“・・・こうして第二次世界大戦が開戦しました。”「・・・さよか。」参考書を読んでいた俺はこんな感想しか出てこなかった。


「はぁ。」おれは窓の外を見た。青空が広がっていた。

そしたらふと、頭に浮かんだ言葉があった。あれ?<鳴くよウグイス>って平安京だっけ?平城京だっけ?<以後よく広まるキリスト教>はいいよ。覚えやすい。語呂合わせで覚える歴史はちゃんと文になってないと、分からなくなるものだな。

確認しようと思って、教科書に手を伸ばした時、

「なつー!電話よー!」と母親の声が聞こえてきた。

階段を下りて玄関まで行くと、母親が「さきちゃん。」と言いながら受話器を渡してきた。

「咲ちゃん?」俺が疑問形で答えると、母親は黙ったままうなずいた。

咲ちゃん、フルネームは橘家咲乃たちばなや さきの。確か小学校4年生くらいまで、よく一緒に遊んでいた幼馴染の一人だ。その後は、男は男だけで、女は女だけで遊ぶことが多くなっていた。


「もしもし。」電話に出た。

「もしもし、なっちゃん?」咲ちゃんの声が聞こえた。俺はふと懐かしさを感じた。俺の事を<なっちゃん>と呼ぶのは、親戚のおばちゃんと従妹の他には、咲ちゃんだけだった。

「うん。なに?珍しいね。」

「あ。うんちょっとね。」

「ちょっとなんだよ?」

「まぁいいじゃない。それよりなっちゃん、今日は家にいる?」

「いるよ。出かける用事とかないし。」

「そっか。じゃあ、今からそっちに行ってもいい?」

「別にかまわんけど?」

「じゃあ、行くね!またね。」

「お、おう。」

ガチャン。ツーツー・・・。俺は、耳から離した受話器を、少し見つめた。そして元の位置に戻した。


台所から母親が声をかけてきた「咲ちゃん、なんだって?」

「なんか、今から来るってよ。」俺が返すと、

「そう。久しぶりだね。咲ちゃんか。」母親はつぶやきながら、棚を開けてお菓子を出し始めた。

俺は部屋に戻った。椅子に座ると、突然部屋が散らかっているのが気になって、出しっぱなしになっているものを片づけ始めた。同時に、なんだろう?何しにくるんだ?あいつ。と考えを巡らせた。


 ピンポーン!

15分ほど経っただろうか、俺がこたつ兼テーブルの上を拭いていると玄関チャイムが鳴った。

パタパタと母親が玄関に向かうスリッパの音が聞こえた。

「あら。咲ちゃん いらっしゃい。」

「こんにちは。おばさん。お久しぶりです。」咲ちゃんの声が聞こえてきた。

「なつー!咲ちゃん、来たよー。」母親が声を張り上げた。

「んー!」俺は答えて、部屋から出た。

「あらー。咲ちゃん可愛くなったねー。すっかりお嬢さんになったねー。」

「え。ああ。ありがとうございます。」母親と咲ちゃんの会話が聞こえてきた。


 階段の上から玄関を見て、俺は、ハッと息をのんだ。白い帽子を胸の前で持った白いワンピース姿の咲ちゃん。凄くきれいに見えて、映画のワンシーンのようだった。


 階段を半分まで降りて、「よう。」と咲ちゃんに声をかけると、「よう!なっちゃん。」と言って笑顔で手を挙げる咲ちゃん。

「まぁ上がれよ。」と言って手招きをすると、「うん。おじゃましまーす。」そう言って後ろ向きになって靴を揃えて上がって来た。

「咲ちゃんも勉強大変でしょ?今日は、まあ、ゆっくりしていってね。」母親がそう声をかけて、台所に向かうと、「はーい。おじゃまします。」咲ちゃんは、母親の背中に向かって答えた。


 俺は階段の中ほどで咲ちゃんを待っていた。咲ちゃんが階段を上り始めるのを見て、俺も階段を上り始めた。

二階に上がったところで咲ちゃんを待った。そして咲ちゃんが階段を上り終わると、部屋の前に行ってドアを開けた。咲ちゃんが近くまで来ると白だと思っていたワンピースには薄いブルーのストライプが入っているのが見えた。


「どうぞ。」と言って、咲ちゃんを先に部屋に通して、俺も部屋に入った。柑橘系のような香りの中に甘い香りが鼻腔をくすぐった。

咲ちゃんは、二、三歩部屋の中に入ると、「なっちゃんの部屋。なんか、懐かしい!」と言って帽子を置いた。俺は、なんだかドキドキしていた。

咲ちゃんは座りながら、くるりと部屋を見渡すと「変わってないね。」と言った。

俺は後ろ手でドアを閉めると、勉強机に向かって歩きながら、「まぁ変わりようがないよな。」と答えた。


 俺の部屋は多分、よくある一般的な子供部屋だ。亮太りょうた浩司こうじ坂寄さかきの部屋も、大きさや窓の位置など違いはあるけれど、置いてあるものは勉強机とベッド、本棚とこたつ。大きな家具はそれくらいであまり代わり映えはしない。

出入口のドアと窓の場所は動かないから、レイアウトはほぼ変わらないままだし、模様替えをしようと思ったこともなかった。

小学校時代からの変化と言えば、布団カバーが変わったのと、教科書や漫画、服が増えたこと、Wカセットのラジカセが新しく増えたこと、ランドセルがなくなって学生カバンになったこと、くらいか。窓から見える景色も変わってない。


 俺が椅子に腰かけると、母親がパタパタと階段を昇ってくる音が聞こえてきた。

部屋の前でスリッパの音が止まると、「なつ。ちょっと開けて。」と母親が呼びかけてきた。


 俺が立ち上がろうとすると、「あ。あたしやるよ。」と言って、咲ちゃんが先に立ち上がって、ドアを開けた。母親は、右手にお菓子とグラスが乗ったお盆、左手に麦茶のポットを持って入って来た。

両方をテーブルに置くと、「咲ちゃん、本当に可愛くなったね。ゆっくりしていってね。」と、咲ちゃんに声をかけた。「あ。はい。ありがとうございます。」咲ちゃんが返すと、母親は俺の方を向いて「なつ、母さん買い物に行くから、出かけるなら鍵かけてね。」と言った。俺は「んー分かった。」とだけ返した。


 母親が部屋から出ると、3分もしないうちに、玄関を開けて締める音、車のエンジンがかかる音、走って行く音が聞こえてきた。

その間、咲ちゃんは、何も言わないまま、麦茶を飲んだり、お菓子に手を伸ばして小さな袋をもてあそんだりしていた。俺は咲ちゃんから目が離せなかった。頬や首筋に薄く浮いた汗が光っているのを、真っ白な気持ちのまま見ていた。


 俺はなぜか緊張していた。理由は分からない。いや、本当は分かっていた。咲ちゃんは女の子から女子になっていたのだ。


 さて、これは困った。

別にケンカしたわけじゃないし、完全に友達関係がなくなったわけじゃない。普段でも学校で話したり、時折一緒に帰ったりすることだってあった。だけど、何だろう?部屋で二人きりになると、何を話していいのかわからない。私服の咲ちゃんを見るのも初めてじゃないのに。

俺は、どうしていいか分からないまま、窓の外を見た。その時、初めてセミがうるさく鳴いているのに気づいた。


「ねぇ。なっちゃん。」咲ちゃんが顔をあげた。「なに?」なんとなくほっとして俺は返事をした。

「あたしさ。」そう言ったまま、グラスに視線を移した咲ちゃんは、何か考えているようだった。


 しばらくの沈黙の後、「なっちゃん、好きな人いる?」グラスを見つめたままの咲ちゃんが口を開いた。「え?それは、その・・・」突然のことに俺はなんて答えていいか分からず、おどおどした。

「あ。美花だったよね。」俺の方に向いた咲ちゃんが自分で答えた。「あ。あぁ。まぁ・・・その・・・」俺は、はっきりしない答えを返した。

「変わらないんだね。なっちゃん一年の時からずっと美花のこと好きだったね。」俺はなんて答えていいか分からないまま。咲ちゃんを見ていた。


咲ちゃんが立ち上がって近づいて来た。机の上の教科書を手に取って「勉強してる?」と聞いた。

「ああ。まあね。」と答えると、「まぁね。とかじゃダメだよ。美花は西藤にしふじ高校に行くよ。なっちゃん、どうするの?」

「まぁそうだな。古村は西藤だろうな。」市内には高校が6校ある。その中で一番頭のいい学校が西藤高校で、織野中学校から行けるのは毎年10人前後のようだ。つまり、学年で10番以内に入らなければ、美花と同じ高校には行けないってことだ。


 俺は、どこの高校に行くかというのと、美花を好きだという気持ちは全然別な事だと考えていた。だから今、勉強していることも、美花と同じ高校に行きたいと思って勉強しているわけじゃなかった。

ただ漠然ばくぜんと、少しでもいい学校に行けたら。としか考えていなかった。


「なっちゃん、美花と同じ高校に行けなくていいの?」咲ちゃんが真面目な顔をして聞いてきた。

「ああ。別に。それとこれは関係ないだろ。」俺は考えていることをそのまま返した。

「え?なんで?」咲ちゃんは心底不思議そうな顔をした。

「俺は、まぁ。行けるところに行くよ。」本心だった。ただ、行ける所で一番いいところに行くよという意味ではあるが。


「ねぇ。美花のこと諦めるの?」咲ちゃんが顔を近づけてきて聞いた。

「え?なんで?同じ学校じゃないことと、諦めるってのは、違うでしょ?」俺は少し後ろに下がりながら答えた。

「違わないよ。」

少し怒ったように言う咲ちゃんを見て、俺は少しだけ分かった気がした。多分この話は平行線だ。咲ちゃんが思っていることと、俺が考えていることは、多分分かり合えない。そう思った俺は「そうかな。」とだけ答えた。

「うん。そうだよ。だからなっちゃんは、すごく勉強しなきゃ。」そう言って教科書を置いた。

「まぁそうだな。」と答えると、

「勉強、教えてあげようか?咲先生に何でも聞いて。」と言って笑った。


 実際、咲ちゃんは俺より頭がいい。学年では20番以内くらいにいつもいた。

「えー。いいよ。遠慮しとく。」俺が顔の前で手を振ると、

「あは。そうだね!」と言って笑った。

そして、「あーなんか元気出た!」そう言いながら背伸びをした。外からの光が、ワンピースに太もものシルエット映し出した。俺はまたその姿にドキッとした。

「勉強の邪魔しちゃったね。ごめんね。」咲ちゃんが手を挙げた。

俺は「いや。別にいいよ。」と答えた。


咲ちゃんが帽子を拾い上げた。

「なっちゃんはさ。本当は頭いいんだから、頑張ったら西藤高校に行けるよ。」「じゃあたし、帰るね。」と言ってドアに向かった。

俺は、こいつは何をしに来たんだ?という疑問を抱えたまま、咲ちゃんの後を追った。

階段を下りる途中も、玄関でも、咲ちゃんの甘い匂いが鼻腔をくすぐっていた。


 咲ちゃんは、靴を履くと俺に向き直って、「じゃね。ナツ君、勉強、頑張りたまえ!」そう言って敬礼みたいなポーズをした。「了解です!」俺も敬礼のポーズで答えた。「あははっはは」二人で笑った。

咲ちゃんは玄関を開けると「じゃね。」と小さく手を振った。「おー。気を付けてな。」俺も手を挙げて答えた。


 俺は 自分の部屋に戻ると、テーブルに載ったままのお菓子をトレイごと机の上に置いた。そしてお菓子を食べながら、で、あいつ何しに来たんだ?受験勉強の息抜きか?と考え始めた。まぁ<元気出た>って言ってたし、息抜きかな。それでいっか。そういう事にしておこう。と、それ以上考えるのをやめた。

部屋にはまだ、咲ちゃんの残り香が漂っていた。


 俺はまた歴史の参考書を広げた。それまでけっこう集中してやっていたので、ある程度は頭に入っていた。そしてあることに気付いた。あ。そっか。ここでこれがあったからこうなって、で、この事件が起こったのか。なるほどね。


 今まで単に年号や人、国の名前を、ただ暗記しなければならなかっただけの歴史は、苦痛でしかなかったけど、実は事情や思惑があってそうなっている。という事に気付いたのだ。流れがあるのだ。理屈があるのだ。それが分かると、なんだか歴史が面白くなってきた。

もちろん、人の名前、事件の名前、年号、覚えなきゃならないことはたくさんあるけれど、流れが分かると、単に年号と名前を丸暗記するより覚えやすくて、理解しやすかった。

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