第11話  ~こいつは病気だ~

8月10日。

 兄が帰ってきた。前回帰ってきたのが、俺が中学1年の時の正月だったから、およそ1年半ぶりだ。兄は変わっていなかった。家に帰って来るなり、どこかに電話をかけると、もう働いている身でありながら、母親に金をせびって出て行った。

 どこに出かけたのか。誰と会っているのか。そんなこと全く興味がなかった。ただ、家からいなくなってほっとした。なにしろ俺は世界で、いや、宇宙で一番嫌いなものが兄だからだ。動物も植物も昆虫もお化けも、寒いのも、暑いのも、英語の授業も、今まで見聞きした事、経験した事、全ての生命体、全ての物事の中で兄が一番嫌いだ。そして、それはこれからも変わらない。そう思っていた。


 兄は家庭を壊した。いや、もしかしたら、いじめる対象の俺が生まれたことで、壊れたのかもしれない。下の子が生まれて母親が下の子の面倒を見始めると、上の子は母親の愛情を取られたと思ってねたんだり、情緒不安定になったりすると、何かで読んだことがある。そういった面もあったのかもしれない。しかし、理由が何であれ、兄が家庭を壊したことに変わりはない。


 兄は昔から自分よりも弱いものだけを見つけては、いじめていた。俺が一番の被害者だと思う。俺の物は取られたり、壊されたりした。何か話しかけてくる時は、大体裏があってだまされた。殴られたり、蹴られたりは日常茶飯事だった。

 俺は自分の物を隠すようになった。気に入っている物は、特に念入りに隠す場所を幼い頭で必死に考えた。俺が何を好きだと思っているか、気に入っているかを、さとられまいと必死だった。気付かれると取り上げられ、壊されるから。


 おかげで俺は一家団欒いっかだんらんとかいうものは、テレビかマンガでしか見た記憶が無いし、兄弟愛や家族愛がテーマの作品は、違う宇宙の出来事としか思えなかった。違う宇宙の出来事だという前提があれば、どんなものでも、そのまま受け入れることが出来た。


 幼少期から兄におびえて暮らしていたような気がする。兄は気に入らないことがあるとすぐ暴れていた。幼かった俺は泣く事しか出来なかった。

 小学校低学年の時だろうか。俺は部屋のベッドの上で布団にくるまって泣いていた。そして「早く帰りたいよう。」とつぶやいていた。“帰る”ってどこに?自分の家の自分の部屋にいて、どこに“帰る”というのか。それくらいその場所に存在していることがつらい時もあった。


 兄はそのまま、不良と呼ばれる存在になった。

テレビや漫画では、「不良、ツッパリはかっこいい。」という風潮があったけれど、かっこいいのは本当に強い人だけであって、兄のような恰好だけを真似た不良もどきは、弱い者いじめしかしない、世間や親に甘えただけの、かっこ悪い連中だと思っていた。


 俺は兄を見るたびに、“こいつみたいには、絶対になりたくない。”そう思っていた。


 兄が俺に話しかけてくる内容は、ほとんどの場合、「これかっこいいだろ?」とか「これ美味うまいだろ?」というような低俗ていぞくなものばかりで、違う意見を言うと「なんで?」と聞き返された。

兄が俺に向かって言う「なんで?」は理由を聞いているのではない。

「俺に逆らうのか?」と言って威嚇しているのだ。

俺が小学校高学年になって多少なりとも、自分の考えや理由を言えるようになると、「お前は何も知らない。分かってない。馬鹿だ。」とののしられた。そして自分は理由も言わず「こっちの方がいいんだよ。」と声を荒げて、兄の意見や価値観を押し付けてきた。


 俺は、聞いてくる内容のほとんどが主観によるものなのに、人の意見を認めない人間がいること自体がおかしいと思っていた。

 兄は自分と同じ考えの人間がいることで安心したかったのだろう。よほど独りになることを、孤立することを恐れていたようだ。そして自分よりも弱い人間に、自分と同じ意見を持つことを強制してきた。俺は、それが嫌で嫌でしょうがなかった。


 ある時、兄と話をしていた俺は「あ。こいつは病気だ。言葉が通じない。日本語が通じない。頭の病気だ。」そう思った。「そして俺は医者じゃないから、この人とは関わらない方がいい。」とも思った。

 それ以来、兄とは極力関わらないようにしてきた。その前から関わらないようにはしていたのだけど、もっと距離を置くようにした。ちょうど兄も高校生になった頃で、行動範囲も広がって、家にいない時間も増えていた時期だったから、まともな時間にご飯を食べて、部屋に戻っていれば、そんなに顔を合わせることもなかった。


 兄が高校2年生の時、中学生一人に対して集団で暴行を加えたとかで、学校を停学になった。その話を聞いた時は、“自分より弱いものを相手に集団で。”か。いかにも兄らしい。と思った。その後、恐らく停学期間中に、自主退学という形で退学したらしい。理由は知らない。興味もなかった。俺が小学校6年生の時だ。


 高校を退学後、しばらく親に金をせびって遊んでいたようだが、ある日、叔父が来てどこかに連れて行った。普段は両親に向かって「ジジイ。」「ババア。」「死ね。」とか言っている兄が、叔父には「そうですね。」とか言っているのが聞こえてきて、なんだ?こいつ。と思ったのを覚えている。


 兄がいなくなって一週間ほど経ってから、母親から、兄は叔父の紹介で関東の工場で働き始めた。と聞いた。多分、両親が叔父に相談した結果、そういう話になったんだろう。

 叔父は百人近い社員がいる会社の社長をやっている。社交的で顔も広いようだった。付き合いのある会社を通して、兄でも働ける所を紹介してもらったのだろう。

新幹線や飛行機でしか行けないような遠くの工場を紹介されたのは、両親が、ただ厄介払いをしたかっただけかもしれないし、俺への配慮もあったのかもしれない。


 そうして兄がいなくなった後の家庭は安定したが、それまでの事や、あんな人間を育ててしまった両親に対して、俺はくすぶるやみも抱えていた。



 8月13日 昼過ぎ。 

俺は机に向かって受験勉強をしていた。「おう!ナツ。」ドアを開けながら兄が入って来た。俺が振り向くと、「車でコーヒー買いに行こうぜ。」と言った。兄の言うコーヒーとは缶コーヒーの事だ。兄の運転で、母親の軽自動車を借りて行こうという事なのは分かっていた。


 俺は、「いやだ。」とだけ言って教科書に視線を戻した。すると兄は近づいてきて、俺の腕を取って「おごってやるからよ。行こうぜ。」と言ってきた。

「は?別に飲みたくねぇよ!ひとりで行けよ。」そう言って掴まれた腕を振りほどこうとしたけど、兄は力を入れて手を放さなかった。


 俺は立ち上がった。兄との身長差は、ほとんどなくなっていた。「コーヒーくらい一人で買いに行けばいいだろ。」そう言って腕を振りほどいた。

「いいじゃん。ちょっと行くだけなんだからよ。」口では普通の言葉を言っているが、目で威嚇してくる。「ちょっとなら、なおさら一人で行けばいいだろ。」しつこい兄にいい加減頭にきていた。一触即発の空気が部屋全体を緊張させた。


「ナツも受験勉強の息抜きによ。」ふっと目つきを緩めた兄がそう言って、俺の腕をつかんできた。今度は激しく腕を振って振りほどいた。よろけた兄がぶつかった椅子が派手な音を立てて倒れた。振り返って俺を睨む兄。睨み合ったままの状態でいると、「お前ら、なにやってんだ!」と、でかい声をあげて父親が入って来た。

「うるせー!なんでもねぇよ!」兄が声を荒げて答えた。そして「覚えとけよ!」と俺にだけ聞こえるように言うと、部屋から出て行った。


 兄は15日の昼頃、仕事先に戻るために家を出た。駅までは母親が車で送る事になったようだ。結局、5日間いた兄が俺と口をきいたのはこの時だけだった。



 15日の夜は、地域の盆踊り大会で、花火も上がる。会場は織野中学校だ。中学校のグラウンドにやぐらが建って、その周りを円になって盆踊りを踊るのだ。

兄がいなくなって清々せいせいしたこともあって、俺は祭りに行くことにした。会場は通い慣れた学校だ。特に誰かに電話して誘う事はしなかった。行けば誰かに会える。そう思っていた。


 晩御飯を食べに台所に行くと、「ナツ、今日は花火を見に行くの?」母親から声をかけられた。「うん。行こうかと思ってる。」と返すと、「車で送ろうか?」と聞いてきた。俺は「え?いいよ。自転車で行く。学校、近いし。」と返した。母親は「そう。気を付けてね。」とだけ言って、晩御飯の準備に戻った。


 父親も母親も、勉強のことも、どこの高校に行く気なのかも聞いてこなかった。兄があんな風になったからなのか。俺はしっかりしているから放っておいて大丈夫だと考えていたのか。興味が無いのか。理由は分からないけど、俺のやることに意見することはあまりなかった。


 晩御飯を食べ終えると、自転車で中学校に向かった。中学校が近づくにつれて同じ方向に向かう人や自転車が増えたけど、知り合いには会わなかった。

 中学校の自転車置き場には、屋根があるからか、やぐらを組むのに使ったであろう道具や、余った板や棒、装飾品の入った木の箱なんかが置いてあった。

 幸い、俺の自転車の駐輪場所と、その周辺には物が置かれていなかった。登校日のように生徒が大勢自転車で来るわけじゃないから、どこに止めてもいいんだけど。そう思いながらも、いつもの自分の駐輪場所に止めて鍵をかけた。


 校舎の横の自転車置き場から出て、ぶらぶらと歩き始めた。校舎の前と反対側のグラウンドの隅には食べ物や飲み物を売っているところがあったけれど、お祭りによくあるテキヤではなくて、全部白いテントの屋根に○○自治会とか、○○商工会議所とか書いてある地元の団体だった。ちらりと奥を覗くと、おじさんやおばさんが集まって話しているだけで、あまり商売をする気は無いようだった。


 グラウンドの真ん中に組まれた5m位の高さのやぐらの上では、マイクを持った女性が何かを話していた。

そして、音楽がかかると、やぐらの周りに並んでいた揃いの和服姿の婦人会のおばさん達が真面目に踊りはじめた。他の人達はその外側に円を作って、婦人会の人達の踊りを見様見真似で覚えながら踊っていた。

 ぼんやり見ていると、参加する人が徐々に増えてきて、踊っている人の作る円が二重、三重になって入り乱れて始めた。


 よし。俺も踊って来るかな。そう思って歩き始めた時、「おー!ナツゥ」と呼ぶ声が聞こえてきた。

振り向くと亮太りょうた浩司こうじが駆け寄ってきた。

「おー!」「おー!」「おー!」俺達は意味もなくハイタッチ。

「一人で来たのか?」浩司が聞いてきた。「一人。一人。寂しいもんだよ。」と答えると、「なんか久しぶりだな。」亮太が言う。

「そうだな。なんたって受験生!だからなー。」“受験生”に力を込めて言うと、

「そりゃそうだ!」亮太が答える。俺達は笑った。


「そうだ!ナツ。古村ふるむら見たか?」亮太が聞いてきた。「いや。見てないけど?」答えると、亮太と浩司が目を合わせる。

浩司が俺の肩に手を置いて「いや。ナツ君、それはまずいよ。」と、真顔だけど口元はニヤけたまま言った。そして「なっ!」と言って亮太の方を見て言う。

亮太も「そうそう。まずい。まずい。」と相槌を打つ。

「なんなの?お前ら。なに?古村が来てるの?」と聞くと、「来てるよ~!」と亮太が答えた。そして、「よし。探しに行こう!」と言って俺の手を引っ張った。


 中学校はそんなに広いわけじゃないけど、割と人は集まっていた。それに相手も動いているのだ。俺達は30分ほどうろうろして、やっと美花を見つけた。


 見つけた瞬間、俺はただ心を奪われて立ちすくんだ。美花みか浴衣ゆかたを着ていた。白地にピンクの柄。柄の色より赤っぽい帯。美花の色白の顔、むすんだ黒い髪。俺の視界は美花以外のものは、黒くぼんやりとしたものとしか映さなかった。


 亮太が肩を叩いて言った。「ナツ、いつまで見とれてるんだよ。」「は?見とれてねぇし。」言い返したけど、どれくらい時間が経ったのか分かってなかった。


「いや。しかし。マジで古村、かわいいな。」浩司が言うと

「お前には優子ちゃんがいるだろ。」亮太が返す

「かわいいと思うのと、好きとは違うだろ。」浩司が反論する。

「好きだから、かわいいと思うんじゃねぇの?いや、かわいいから好きになるのか?」亮太が自問自答し始めた。


「はいはい!おしまい!おしまい!」俺は、亮太と浩司の肩を抱いて割って入った。「あちぃよ。ナツ。くっつくなよ。」浩司が俺の腕を振りほどいた。「かわいいから好き?好きだからかわいい?」亮太はうつむいてまだぶつぶつ言っていた。俺は亮太の肩を抱いたまま「踊りに行こうぜ。」と言って櫓の方に向かって歩き始めた。


「なぁ。お前ら、古村が浴衣で来てたの知ってたの?」二人に向かって聞くと、

「おう。見たからな。」「知ってたよ。」と返ってきた。

「そうか。だから、にやにやしてたのか。なんか隠してると思ったんだよ。」

「まーな。」亮太が答える。

「でも、いいもの見たな。ありがと。」俺はなぜか素直になって言った。

「お礼とかいいから、あとでアイスおごれよ。」浩司が笑って言った。


それから、花火が終わるまで俺達は三人でいて、はしゃいでいた。

家に帰ってきて一人になると、浴衣姿の美花が浮かんできた。


寝る前になって、美花と一緒に誰かいたのだろうか?同級生なら気付くはずだけど?ふとそんな疑問が浮かんだ。亮太と浩司も何も言ってなかった。

美花の家は少し遠いし、花火が終わったのは午後9時頃だ。親に車で連れてきてもらったのだろう。だから、多分一緒にいたのは親だな。そう考えると合点がいった。

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