29.治療と本心

 昨日荒らされた室内はそのままで、割れた窓には申し訳程度に木の板が置かれている。

 マーカスたちは家の外で警戒してくれるらしい。

 どうにか使えそうなベッドにシグルドを寝かせると、ノエルさんは手慣れた様子で服を破いた。


「クレアさん、手伝ってください」


 晒された肌は傷だらけで、見てると自分の身体まで痛いみたい。

 そんな勘違いを振り払い、濡れた布で傷口の周りを拭いていく。

 身体には生々しい傷だけでなく、古い傷痕もある。

 こんな戦いを一人で続けてきたと思うと、今度は勘違いじゃなく胸が痛んだ。

 消毒をし、あて布をして包帯で巻き付ける。

 矢が刺さった腕の傷は止血しかしていなかったらしい。

 適切な応急処置を済ませたノエルさんは、汚れを払った毛布をシグルドに掛けた。


「あとで領内の医者に診せましょう。満月を越えれば魔獣は沈静化します」


 マーカスたちも伝えるといい、ノエルさんは外に行ってしまった。

 一つだけ付けた蝋燭の明かりの中、私はシグルドの枕元にしゃがむ。

 繋いでいた手は、治療のためにとノエルさんが引き剥がすまで離れなかった。

 小さな傷がたくさんついた手の平は、少しだけ血がにじんでいる。

 もう一度だけ拭き取って、そっと私の手を重ねた。

 触れた肌は温かく、生きているんだって教えてくれた。


「シグルド……」


 私のこと、赤ずきんって呼んでくれたね。

 もう、呼んでくれないかもって思ったんだ。

 私は絶対離れないって思ってたけど、シグルドが許してくれるか分からなかったから。

 だけど、いいんだよね?

 赤ずきんは、狼さんと一緒に居て、いいんだよね?

 重なった手に顔を寄せ、ゆっくりと頬ずりする。

 この手を握れることが嬉しい。

 傷だらけの手が愛おしい。


「……好き」


 何度も口にしてきたけど、シグルドに伝えたことはなかったな。

 目が覚めたら伝えなきゃ。

 そう思ったら、握った手がぴくりと動いた。


「……っ、痛って……」


「シグルド!」


 すぐに立ち上がると、眉を寄せたシグルドが目を開く。

 橙色に照らされた目がまるで太陽みたいだ。

 帰ってきてくれた色が嬉しくて、思わず名前を呼んでいた。


「うるせーよ、赤ずきん」


「あっ……ごめんなさい」


 耳元で大きな声を出しちゃ駄目だよね。

 ちょっとしょんぼりした気持ちになると、繋いだままの腕を引かれた。

 誘われるようにベッドに座ると、シグルドは握った手に力を入れる。


「外、どうなった」


「魔獣はもう居ないよ。マーカスたちが外で見張っててくれてるの」


「猟師に借りを作っちまうとはな……」


 私の答えにシグルドは小さく舌打ちをした。

 嫌がっているのが丸わかりの表情さえ、今は見られて嬉しい。


「借りなんて、向こうのほうがずーっと作ってるんだから」


 ノエルさんからの話を聞いて、実際に魔の森でのことを見て。

 これでフロンティエル領は狼の末裔が守ってくれているって分かっただろう。

 そのことが嬉しくて、握った手を胸に抱く。


「ねぇ、シグルド。あのね……」


 狼の末裔のこと、ちゃんとみんな分かってくれるよ。

 そう教えようとしたのに、シグルドは私の手を強く引っ張った。


「さっきの、なんだよ」


「え?」


 さっきの、って……心当たりが多すぎてどれのことだか分からない。

 考えていると、シグルドはベッドから身体を起こしてしまった。


「わっ、まだ起きちゃ駄目だよ! ひどい怪我して……」


「自分のほうが美味しいとか言いやがって」


 ものすごく不機嫌そうな顔で吐き捨てられる。

 魔獣に言ったことがそんなに駄目だった?

 実は人の言葉が分かって、怒らせるものだったとか?

 知らずに言ったことだけど、それで迷惑をかけていたのかもしれない。

 だけど、そんなのは私の思い違いだったらしい。


「……俺以外に食われていいのかよ」


 シグルドは私に視線を合わせ、ぼそりと呟く。

 まるでふて腐れているかのような声に、胸がきゅうっと痛くなった。

 魔獣に食べられるのなんて嫌。だって、私は……。


「食べられるなら、シグルドがいい」


 狼さんに食べられるなら、きっと幸せになれるから。

 私の答えを聞いたシグルドは、包帯まみれの腕で私を抱き寄せた。

 包み込む素肌は温かくて、ローブ越しでない温度に浸りそうになる。

 だけどそれより前に、間近で見上げた薄い唇が開かれた。


「言われなくても、食ってやる」


 目の前の囁きは、耳より先に肌に届く。

 熱い吐息が頬を熱くさせ、重なった唇に呼吸が止まった。

 手を握りしめて、身体を抱きしめて、唇を押しつける。

 血の匂いと、味がする。

 噛み付くようなキスは、本当に食べられてしまいそうで怖くなる。

 だけどシグルドになら、何をされても構わない。

 傷の残る背中に腕を回し、繰り返されるキスを受け入れた。 


「シグルド……私、シグルドが好き、大好き……」


「知ってる」


 キスの合間の告白に、シグルドは薄い唇で小さく笑った。

 抱きしめた身体から胸の鼓動が伝わってくる。

 私と同じ速さだから、私と同じ気持ちでいてくれるかな。

 撫でるようなキスの後、少しだけ離れて顔を合わせる。

 顔が赤いのは蝋燭のせい? それとも……。


「シグルドは? 私のこと……」


「今すぐ全部食っちまいたいくらい、好きだ」


 質問の途中ではっきりと言い、強く強く抱きしめられる。

 私の顔が肩に押しつけられて、シグルドの顔が見えなくなってしまった。

 甘い木の香りをかき消す、強い酒精の匂い。

 残った血の臭いに胸が苦しくなってしまう。

 無事で、よかった。

 好きな人と一緒に居られて、本当によかった。


「シグルドなら、いくらでも食べていいんだよ?」


「……自覚ねーのが一番たち悪いんだよ、この馬鹿ずきん」


 そんな言い合いだって幸せだ。

 頬がぽわぽわ、胸がどきどき、首がそわそわ。

 何度も感じた感覚が嬉しくて、肩から顔を離してシグルドを見上げた。


「お前……その首、どうした」


 上を向いたことで見えてしまったらしい。

 手当てをする暇もなかった傷は、もう血も止まっているだろう。

 動かしたせいか、乾いた血がぱきりと崩れる感覚がした。


「えっと……お父さんたちに話を聞いてもらいたくて、自分で」


「……はぁ?」


「でもほら、全然平気だよ! それよりシグルドのほうが」


「自分でとか、馬鹿だろ」


 うぅ……そうかもしれないけど、あの時はそれしか浮かばなかったんだから。

 つい口を尖らせてしまうと、シグルドはもう一度、私の顔を自分の肩に押しつけた。

 ぐりぐりされると痛いのに。文句を言おうとしたら、頭の上から低い声がした。


「俺に黙って傷つくな」


 もっとひどい怪我をしているのに、こんな些細な傷に怒るなんて。

 強く抱きしめられると、なんだかとっても切なくなった。


「ねぇ、シグルド。私、もっとキスしたい」


「お前なぁ……」


 困ったように眉を寄せられるけど、とっても嬉しかったから。

 そらした目線を引き戻すように、繋いだ手に頬ずりをした。


「ねぇ、しよ?」


「……っ、この、馬鹿っ! 怪我人を興奮させんな!」


「えーっ、なんで!?」


 抱きしめてくれていたのに一気に距離を取られ、繋いだ手も振り払おうとされてしまった。

 だけどそれは絶対に嫌だから、ぎゅうっと強く握りしめる。

 そんな風に私たちが騒いでいる間に、ノエルさんが戻ってきたらしい。

 隙を突いてシグルドに抱きつくと、ノエルさんの楽しそうな声が響いた。


「おやおや、積極的で」


「ノエルっ、お前も止めろよ!」


「いえいえ、神は男女の仲を応援するものです」


 手を組み合わせてお祈りをするノエルさんに、がみがみ怒るシグルド。

 前にもあった光景を繰り返せることに、いつもの関係に戻れたんだって実感が湧いてきた。


「君たちはどこからそんな元気が出てくるんだ?」


 扉から覗き込むマーカスもあきれ顔だ。

 目尻の下がった優しい顔立ちは、いつものお兄ちゃんみたいなものだった。


「猟師も、幼馴染みの教育くらいしとけよ!」


「あいにくクレアはお転婆娘でね。苦労することだろう」


「くそっ……離れろ馬鹿ずきんっ!」


「いーやっ! 絶対離さないんだから!」


 そんな風に騒いで過ごし、休息を取っていたら朝日が昇ってきた。

 みんな傷だらけで、泥だらけで、だけどちゃんと無事に生きてる。

 満月の戦いはこれで終わり。

 それぞれ身支度をして、荒れ地の中を通る小道を進んだ。

 今日は一人の帰り道じゃない。

 マーカスたちの警備隊。ノエルさん。そして……。


「ねぇ、シグルド。手繋いでいい?」


「駄目って言っても繋ぐんだろ」


 そう言って、シグルドは手を出してくれた。

 傷だらけの手は、強くて大きくて、優しくて温かい。

 柔らかい日差しの中、細い小道をみんなで歩いた。

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