24.侍女の気持ちと主人の決意

 強い雨音が聞こえる。

 温かさを感じながら目を開くと、そこは私の部屋だった。

 ベッドに寝かされているらしく、床に転がっていた時の目覚めとは雲泥の差だ。

 天井を照らす淡い橙色の光は蝋燭だろう。

 ということは、今は一体いつなのか。

 鈍く痛む頭に触れると、すぐ横から声が響いた。


「お目覚めですか」


 ゆっくりと目を向けると、黒いワンピースが見える。

 茶髪をシニョンにまとめ上げ、焦げ茶色の瞳はガラス玉のよう。

 いつも通りの無表情を浮かべたタミーが、窓を背にして座っていた。


「まずはお水を。具合の悪いところはありますか」


 コップに注いだ水を手渡され、身体を起こして少しずつ飲み込む。

 喉はからからに乾いていたようで、染みこむ水分に咳き込んでしまった。

 背中を擦ってくれる手は優しいけど、どうしてタミーがここにいるのか。


「休息日なのに、わざわざ居てくれたの?」


 窓の外は薄暗い。

 ということは、あんまり長い時間眠っていたわけじゃないのか。

 そう思っての質問は、あっさりと否定された。


「今日は休息日ではなく、翌日の夕方です。お嬢様は丸一日眠られていたのですよ」


「そんな……」


「警備隊が使用している昏倒薬は、消毒用の酒精に近いそうです。

 通常は半日も経たずに意識を取り戻すそうですが、お嬢様の体質には効きすぎたのかと」


 淡々とした報告に鈍い頭が動き始める。

 昏倒薬、警備隊、雨、丸一日……。


「……シグルドっ!!」


「いけません」


 ぴしゃりと言い切られ、起き上がりかけていた身体を押し戻される。

 長年侍女をしているタミーは、細身に見えても力が強い。


「離してタミー! 私、シグルドのところに行かなきゃ!」


「狼の末裔については、現在、領主様方が対処のための会議をしていらっしゃいます」


「対処って……!」


「捕獲か駆除、と伺っております」


 まるで動物にでも向けているような言葉に、背筋がすっと冷えた。

 同じ人間相手に、そんな扱いをしようとするだなんて。

 こんな言葉や考えを、シグルドはずっとされてきたの?

 自分が守っている相手に、正反対の気持ちを向けられてきたの?

 これから警備隊に、もっとひどいことをされてしまうの?

 私のせいだ。

 私が何も考えずに、矢の前に飛び出してしまったから。

 私が家を抜け出したのを、気付かれてしまったから。

 ううん……そうじゃない。


「私と、会ったから……」


 もっともっと前の段階から、私のせいなんだ。

 私と会っていなければ、シグルドは静かに暮らせていたはずなんだ。

 私たちを守ってくれているシグルドの生活を、私が壊してしまった。

 自分がしてしまったことの重大さが、昏倒薬以上に私の身体の自由を奪う。

 全身が震える。頭がくらくらする。目の前が、真っ暗になる。


「お嬢様は、こちらの窓から出入りしていらしたようですね。

 雨が止み次第、こちらの庭木は伐採いたします」


 タミーは再び窓の前に座り、感情のない目を向けてくる。

 ここから出ることは許さない。

 そう言われているようで、思わず唇を噛みしめた。


「お一人で防壁の外に出るような真似は、もうおやめください。

 お嬢様は領主様の娘。次代の領主様の妻となるのです。

 立場にあった、相応しい振る舞いをなさいますよう」


 淡々と続く言葉は一切揺らがない。

 自分が言っていることの意味が分かっていないのか。

 そんなわけないのに、そう思わせてしまうほどに平坦だった。


「……タミーは、それでいいの?」


「何をおっしゃっているのか、分かりません」


 膝に載せた手も動かない。

 隙きなくまとめられたシニョンも動かない。


「マーカスが……好きな人が、他の人と結婚してもいいの?」


 そう口にすると、細い眉だけがぴくっと動いた。

 すぐに無表情に戻ったけど、僅かな動揺は隠しきれていないように見えた。


「そのような誤解はおやめください。

 わたしは、マーカス様にそのような気持ちは抱いておりません」


 自分で自分の気持ちを否定するのに、冷静で居られるはずがない。

 タミーは橙色の明かりの下でも分かるくらい、顔色を変えていた。


「そんなの嘘って私は分かるから。何年一緒にいると思ってるの?」


 世話の焼ける主人だって思ってきたかもしれない。

 だけど、一緒に過ごした時間はなかったことにはならないはずだから。


「タミーは、私のこと嫌い?」


 嫌いなら嫌いでいい。

 令嬢らしくない、お転婆娘の私にうんざりしてたって仕方ない。

 少し悲しいけど、だったら嫌いな私にマーカスを取られていいのって聞けるから。

 だけどタミーはゆっくりと首を振り、ガラス玉のような目を私に向けた。


「それは、お嬢様のほうでしょう」


「嫌いなんかじゃないよ」


 はっきりと答えると、タミーはぴくりと眉を揺らす。

 こんな当たり前のことなのに、どうしてそんな反応をするんだろう?

 ベッドからゆっくりと起き上がり、身体ごとタミーのほうを向いた。


「そりゃあ、タミーは厳しいし、頑固だし、融通きかないし、遊び心とか持ってないし……」


「嫌いにならない要素が見当たりませんが」


 ぴしゃりとした言葉。

 だけどいつものような鋭さはなくて、怖いと思うこともない。


「でも、タミーの言うことは間違ってないもん。私の我が儘だってことも分かってる。

 そんな私をきちんと叱ってくれるんだから、嫌いになんてならないよ」


 私を立派な令嬢に育てる。

 それが侍女と家庭教師であるタミーの役目だ。

 でも、私にとってはそれだけじゃない。


「私にとって、タミーはお姉ちゃんだから」


「姉……ですか?」


 戸惑ったような声に、ほんの少しだけ恥ずかしくなる。

 居たことのない存在だけど、お姉ちゃんってきっとこういうものなんだろうなって思ってた。

 しっかり者で厳しくて、駄目なところは叱ってくれる。

 だけど優しいところもあって、頼りにしちゃったりもするんだ。


「ずーっと一緒に暮らしてるんだもん。タミーは私にとって家族同然だよ」


 子どもの頃からずっと、誰よりも長い時間一緒に過ごしてきた。

 そんなタミーが家族じゃなくてなんだっていうんだ。

 小さな揺らぎが消えないうちに、私は伝えたいことを口にした。


「家族には、幸せになってもらいたい。だから、タミーには諦めてほしくない」


 我が儘ばっかりで困らせている私が言っても、説得力はないかもしれない。

 でも、そう思っているのは本当だから。

 窓を背にしたタミーを見つめていると、細い息が吐かれた。

 いつも模範的な作法のタミーなりの、ため息だったのかもしれない。


「……わたしは、事故で両親を亡くしました」


 雨音に紛れて、小さな声が響く。

 タミーがこの家に来たのは私が十歳の時。

 まだ十二歳で、子どもといっていい歳だったはずだ。


「親は些細な商いで生活していたため、大した資産もありませんでした。

 本来でしたら、そこでわたしは朽ちていてもおかしくなかったのです」


 小さな領地であるフロンティエル領は、都市部と違って身寄りのない子どもの居場所は少ない。

 保守的な性質の領民が多いからこそ、そういう立場に陥る子が少ないからだ。


「そんなわたしを、領主様は引き取ってくださいました。

 一人娘の侍女になるようにと、教育まで受けさせていただきました。

 これは、わたしが生涯をかけてお返しすべき恩なのです」


「だからって、タミーの気持ちを死なせていいわけないよ」


「領主様に不義理をいたすわけにはまいりません。

 そして……マーカス様も、こうするのが正しいのだと、仰っていました。

 わたしごときが、マーカス様に釣り合うわけもございません。立場が、違うのです」


 細い息と共に、タミーの顔に無表情が戻った。

 ここにも、立場に縛られている人が居た。

 領主の娘の私。狼の末裔のシグルド。警備隊長のマーカス。

 そして、大人にならざるを得なかった侍女のタミー。

 みんなみんな、立場、立場って。

 立場に相応しい生き方をしろっていうなら、どうして人は気持ちなんかを持っているんだ。

 気持ちに従えない生き方なんて、そんなの生きてる意味がない。


「釣り合うかどうかを考えられるほど、弱い気持ちなの?」


 今度はタミーの無表情が動くことはなく、そのことが少し寂しく感じる。

 好きって気持ちは、そんなに弱いものじゃない。

 姿を見たくて、声を聞きたくて、肌に触れたくて、相手に触れられたい。

 押さえきれない欲求に突き動かされて、形振りかまっていられない。

 初めて知った気持ちは大切で、愛しくて、宝物だ。

 この気持ちを貫くためだったら……私はどんなことだってする。


「私は、諦めないよ」


 この気持ちを捨てることなんてできない。

 絶対に変えられない決意を固め、痛む頭を振ってベッドを下りた。


「私はシグルドが……狼の末裔が好きなの。

 タミーのマーカスへの気持ちより、よっぽど強いんだから」


「フロンティエル領の領主様の娘と、狼の末裔が結ばれるなど……不可能です」


 タミーの言葉は、この領地において覆らない評価だろう。

 だけど私はそうは思いたくない。

 水を飲み干して、窓の外を見る。

 薄暗い空からは大粒の雨が降っていて、到底外に出る天気じゃない。

 

「……本当はね、私、捨てられちゃったの。こんな面倒くさそうな女はいらないって」


 本心だったのか、見せかけだったのかは分からない。

 だけど事実、シグルドは私を突き放し、マーカスに寄越した。


「でもね……私は手放すつもりはないんだ。私は、好きな人のいいなりになんてならない」


 シグルドは言ってた。

 私以外の意識なんてどうでもいい。私だけが知ってればいいって。

 だけど私は、私だけが知っているだけじゃ許せない。

 シグルドが悪意に晒されるのなんて許せない。

 そのために、私は私で勝手に動くんだ。

 シグルドのためじゃなくて、私のために。


「タミー、服を出して。お父さんに話しに行く」


 薄くて繊細な布でできた寝衣じゃ、私の気持ちに従った動きに耐えられないだろう。

 その場で脱ぎ捨て、現れた肌をさっと眺める。

 傷一つない身体。いつも誰かが守ってくれたからこその身体だ。


「黙って外に行ったりしないから。ちゃんと、領主様を説得するから」


 頑なに椅子から下りないタミーを振り返り、笑ってみせる。

 せめて自信満々に見えるようにしてみたけど、子どもっぽい顔じゃ迫力はないかな。


「ねぇ、タミー。もしも私がシグルドと結ばれたら、タミーも自分の気持ちを大事にしてくれる?」


「……そのような奇跡が起きたのなら、そういたしましょう」


 細い息を吐いたタミーは、そう言って立ち上がってくれた。

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