23.狼と人と化け物

 窓の外には人影のようなものが見え、シグルドが小さく舌打ちをした。


「黙ってここで隠れてろ」


 囁きと一緒に本棚の影に押し込まれ、手で口を覆って頷いた。

 その間にもノックは激しくなり、木の扉がギシギシと軋んでいる。

 ドンドンドンと大きな音を立てる叩き方は、普通の来客なんかじゃあり得ないだろう。

 シグルドも分かっているのか、腰の剣に手を添えながらゆっくり扉を開いた。


「誰だ」


 隙間を押し開いて入ってきたのは、揃いの革鎧と緑色のマントを付けた警備隊の人たちだった。

 全員、手には剣や弓矢を握っている。

 その中から前に出てきたのは、唯一マントに紋章の刺繍がされた人。

 鞘から抜かれた長剣を握る、マーカスだった。


「勝手に入ってくんじゃねーよ」


 マーカスはシグルドの言葉に目を向けず、部屋の中をくまなく眺めている。

 息を潜めて隠れている私には気付いていないらしい。

 後ろにいる隊員は全員武器を構えたままで、その標的はシグルドだ。

 薄暗い部屋を見回し終えたマーカスは、隊員を代表して口を開く。


「君は、教会前でクレアと一緒に居た男だな」


「さあ、なんのことだ」


「その服に見覚えがある。ここに暮らしているのか?」


「それがどうした」


 短い答えにざわめきが走った。

 その声を押し止めるように、マーカスがシグルドに剣を向ける。

 対するシグルドは動きを止めたまま、油断なく視線を返していた。


「ここが魔の森と分かって言っているのか?」


「毎日魔獣が彷徨いてる場所が、魔の森じゃなくてなんだっていうんだ」


 薄く笑うシグルドの言葉に、マーカスは眉をひそめた。

 魔の森に住んでいれば、それは魔獣と同じ。

 前に言っていた言葉は本心なのか。

 そうじゃないことを祈りながら身を固め、二人だけの会話に耳を傾ける。


「まさか存在するなんて思っていなかったが……狼の末裔、ということか」


「あの領じゃガキのおとぎ話か怪談扱いなんだろ。

 そんなもん、警備隊長ともあろう大人が信じるのか?」


「事実、ここに存在している。

 人が立ち入ることのできない魔の森で生活をしているなんて、あり得ないことだ」


「そこまで言う場所に立ち入ってくるなんて、どういう理由だ?

 あんたらの狩り場はもっと手前のはずだろ」


 今までここに来て誰かと会ったことはない。

 魔獣避けの結界のおかげで問題なかったけど、ここまで来るには大変な苦労があるんだろう。

 こんな悪天候の中、そこまでして魔の森の奥に来る理由はなんなのか。

 長剣の切っ先をシグルドに向けたまま、マーカスはゆっくりと話し出した。


「……クレアが、屋敷を抜け出したらしい。

 侍女が領内を探し回ったが見つからなかったようで、もしかしたら外に行ってしまったのではと」


「いくら令嬢でも、外出くらい放っておいてやれよ」


「ただの令嬢じゃない。領主様の娘で……オレの婚約者だ」


 その言葉に、二人の間を漂う空気が剣呑なものに変わる。

 だけど空気を感じる前に、私の胸に罪悪感が満ちあふれた。

 私のせいだ。

 タミーの頼みに、マーカスはわざわざ警備隊を率いてきてくれた。

 だけどそのせいで、シグルドの家が見つかる結果になってしまった。

 領内の人と関わらないように、魔の森の奥でひっそりと暮らしていたシグルドを。

 こんなに大勢の、狼の末裔に悪意を抱く人に見つけられてしまった。


「……見ての通りだ。女子どもが一人で辿りつける場所だと思ってんのか」


「そのようだ。しかし……君の存在を見逃すわけにはいかない」


「見逃さないって、どうするつもりだ」


 シグルドの問いに、マーカスの後ろにいた隊員たちが武器を構えた。

 剣を向け、矢をつがえ、扉の外からも狙われる。


「……やっぱ野蛮な奴」

 

「大人しく連行されるか、ここで死ぬか。どちらを選ぶべきかなんて、分かりきっているだろう」


 雷鳴が近付いてきて、張り詰めた空気を振動させる。

 鋭い矢が、ピンと張った弓から今にも飛び出してきそうだ。

 駄目……あんなの受けたらシグルドが死んじゃう。

 やめて。お願い。放たないで。

 私の祈りなんて誰にも届かず、鈍く光る矢が宙を裂いた。


「やめてっ!!」


 ひゅんっという風切り音が、とてもゆっくりに聞こえる。

 目に見えるものもいつもより遅くて、私の身体ものろのろ進む。

 マーカスの後ろから放たれた矢は、シグルドから僅かに反れていた。

 あぁ、よかった。

 そう思ったのもつかの間。

 銀の矢は、本棚の陰から飛び出した私に向かって進んでいた。

 耳に届くのは驚きの声。

 それと、伸ばした手の先に居る人の声。


「……馬鹿っ!!」


 いつも言われてきた言葉は、いつもと違った音がする。

 切羽詰まったような、悲鳴のような叫び声と共に、私の身体が強く引かれた。

 とすん、と、耳の近くで変な音がした。

 続いて感じるのは、分厚いローブの感触と、甘い木のような落ち着く匂い。

 痛いほどに抱きしめられた身体の横で、銀の矢は動きを止めていた。


「隠れてろって、言っただろーが……っ」


 ローブを縫い止めた矢からは、黒ずんだものが広がっていく。

 一体どこで止まったのか。

 回らない頭で考える前に、鉄のような臭いが鼻に届いた。


「シグルド……矢、刺さって……」


 私を覆い隠すようにするシグルドの右腕には、まっすぐな矢が刺さっていた。

 突き抜けた先端からは、ぽたりぽたりと血の滴る音がする。

 歯を噛みしめる音。浅く短い呼吸の音。

 そんな音を押しつぶすように、遠くから怒鳴り声が聞こえてくる。

 狼の末裔は一人じゃなかった。

 逃がしちゃいけない。

 ここで逃したらどうなるか。

 両方捕らえなければ。

 膝を落としたシグルドに向かって、剣と弓矢が構えられる。

 シグルドは、腰の剣に指すら触れていないのに。

 警備隊は全員で、持てる武器すべてを向けてくる。


「あんなの、ただの威嚇なのに……わざわざ姿見せやがって……っ」


「ごめ……ごめん、なさ……わたしの、せいで……」


 こんな時、どうしていいか分からない。

 耳元で擦れていく声に、何を返せばいいか分からない。

 がたがたと震える手で、ローブを握っていいのかも分からない。

 ぼろぼろ流れる涙も拭けず、ただただシグルドの顔を見上げる。

 少しの距離を開けて取り囲まれた私たちは、その場から動くことができなかった。


「観念しろ。狼の末裔」


 マーカスの冷たい声が投げつけられる。

 お願い。止めて。ひどいことしないで。

 シグルドは悪いことなんて何もしてない。

 矢を向けられるような理由なんて一つもないのに。


「やっぱり、持って生まれたものには逆らえねーか……」


 低く擦れたシグルドの声。

 何を言っているのかと聞き返す前に、不思議な音が響いた。

 何度か聞いた魔法の呪文。

 そう気付いた時には、私の身体はふわりと浮いていた。


「きゃあっ!?」


「ほら、返してやるよ」


 立ち上がったシグルドが腕を振ると、私の身体は一直線に飛んでいく。

 その先にいるのはマーカスで、ぶつかる寸前に風が弾けた。

 風の勢いで赤い頭巾が外れ、そのままマーカスの腕に支えられる。

 薄暗い中でも私の髪はよく目立つ。

 現れた金髪に、周りの人が目を見はるのが分かった。


「クレア……!?」


 一番近くで見たマーカスは、構えていた剣を下ろして私を抱きかかえた。

 待って、そうじゃない。

 どうして私の前に居るのがマーカスなの?

 どうしてシグルドじゃないの?

 慌てて元いた場所に振り返ると、シグルドからは前にも感じた異様な雰囲気が広がっていた。

 まるで魔獣を前にした時のような、圧迫感で息苦しくなる、実体を伴った空気。

 その中心にいるシグルドは、少し吊り上がった琥珀色の目をしっかりと見開いていた。


「……そんなガキでも女は女だからな、食ってやろうと攫ってきたのに」


 眉を寄せ、鼻に皺を寄せた不機嫌そうな顔。

 低くて大きな声は、威嚇しているようにも聞こえるだろう。

 警備隊にとって領主は運命共同体。娘である私も守るべき存在なんだろう。

 私を軽んじるような発言のせいで、警備隊からは殺気のようなものが漂ってきた。


「勝手に持って帰れよ。そんな面倒くさそうな女、いらねーから」


「銀の矢を受けて平気なはずがない。死にたくなかったら拘束を受けろ」


「死ぬ? 誰が?」


「君がだ、狼の末裔。その腕では剣も握れないだろう」


 ぽたぽたと滴る血は止まらず、シグルドの足元に溜まっていく。

 だけどシグルドは薄く笑って歯を見せ、凶暴な顔をしていた。


「――――――」


 再び響いた不思議な音の後に、部屋の中を風が吹き荒れた。

 シグルドを中心に巻き起こった強風は、家具をなぎ倒し、窓硝子を割る。

 目も開けられない風に武器を構えられるはずもなく、その場で必死に身体を留める。

 ようやく収まった時には、誰もが呆然とした顔で立ち尽くしていた。


「威嚇程度でそのざまか。人間風情が、俺に敵うとでも思ったか?」


 薄闇の中で立つシグルドは、圧倒的な強者なんだろう。

 大勢で取り囲んでいた警備隊は、武器を構え直す余裕すらない。


「……化け物め」


 私を抱きかかえるマーカスが、小さく呟いた。

 それは隊員に伝染していき、誰も彼もが口にする。

 狼の末裔は化け物だ。人間を狩る人狼だ。

 ぶつけられる言葉を前に、シグルドは薄い唇で弧を描いた。


「明日は満月だ。知ってるだろ? 満月の日は、狼の末裔が一番力を強める日だって」


「何をするつもりだ……!」


 マーカスの詰問に、シグルドは小さく笑う。

 その声は隊員の身を震わせるのに十分な力を持ち、怯んだ相手に投げかけた。


「魔の森に……俺の領地に、立ち入るな」

 

 琥珀色の瞳がギラリと輝く。

 そんな錯覚を受けながら、必死に腕を伸ばす。

 違う、違うの。

 狼の末裔は人間だし、人を襲ったりなんてしない。

 誰にも感謝されることなく、私たちを守ってくれている。

 分かってほしい。

 だけど止まらない涙のせいで、私の口からはまともな言葉が出てこない。

 シグルドはそんな私を一切見ることなく、冷たく言い放った。


「森から出ていけ。今なら見逃してやる」


 その言葉に、隊員たちがじりっと後ずさりをする。

 悠然とした様子で睨みつけるシグルドは、後を追うつもりはないんだろう。

 順々に外へと飛び出す隊員の後に、マーカスもそれを追った。


「待って! 下ろしてマーカス!」


「駄目だ、帰ろう」


「やだっ! シグルド、怪我してるんだよ!? お医者さんに……っ」


「いいから言うことを聞いてくれ!!」


 聞いたことのない強い声に、一瞬息が詰まる。

 だけどすぐに我に返り、強く拘束する腕からもがき出ようとする。

 シグルド。シグルド。待ってて。今行くから。

 全力で走るマーカスの腕はなかなか外れず、家がどんどん遠ざかってしまう。


「離してっ、行かせてっ! シグルドぉっ!!」


 叩いてもひっかいても、叫んでも喚いても、マーカスの脚は止まらない。

 先に行った隊員たちに追いついたところで速度を弱め、私をしっかりと抱え直す。


「この先は魔獣が出る。すまない、今だけ眠っていてくれ」


 そんな小声の謝罪のあと、私の口元に布が押しつけられた。

 強い酒精の香りを感じたと思ったら、頭がぐらりと揺れていく。

 たくさんの人が私を見下ろしている。

 曖昧になる意識の中で、前にマーカスが言っていたことを思い出した。

 ただの人間が、狼になることだってある。

 狼だなんてとんでもない。

 私の狼は、とっても強くてとっても優しい、素敵な人なんだから。

 だからここにいる人たちは、シグルドを傷つける人たちなんて……。


「みんなのほうが、化け物だよ」


 雷を呼んだ曇天は、雨まで呼び出してしまったらしい。

 顔にぽつぽつと水滴を感じながら、私の意識は遠のいていった。

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