21.ノエルとシグルド
教会の周りは住宅街が広がり、商店街と違い道を歩く姿は少ない。
ノエルは家と家の間の道を覗き込み、何度目かに目的の後ろ姿を見つけた。
灰色のローブに帽子をかぶり、目立つ容姿を隠した男。
影に紛れるように歩く姿は、他人が目にしたらすぐに踵を返すだろう。
「こんなところで何をしているんですか」
声をかけても脚は止まらない。
ため息を付いたノエルは、自分も影の道に入り込む。
「いくら魔力が高まってしまう時期だとしても、あなたらしくもない」
満月が近付くと魔獣が活性化するというのは、一部では知られる事実だ。
しかしそれが魔術師にまで及ぶとは思われておらず、影響のある人間は少ない。
些細な魔法しか使えない魔術師と違い、狼の末裔にとって月は大きな存在だった。
「クレアさん、あなたの魔力にあてられてしまいましたよ。
僕やマーカスさんと違って、彼女は魔術師や魔獣に触れてこなかったんですから」
その名前を耳にした途端、動き続けていた脚がぴたりと止まる。
外界からできる限り隔離されてきた令嬢だ。
不慣れな存在に順応できているはずもない。
しかし彼女が衝撃を受けたのは、おそらく魔力だけではないだろう。
「お前は、知ってたのか」
返ってきた声は、低く暗い。
普段から明るいとは言いがたい態度だが、今日はいつにもまして沈鬱な様子だった。
「さてさて、どれに関してでしょう?」
それはクレアの立場についてか、それとも……。
本意を探ろうとした質問に、シグルドはこちらに顔を向けた。
国内でも珍しい琥珀色の瞳は、影の中でも存在感を失わない。
「……猟師のことだよ」
頼りない声に、ノエルの心中には複雑な気持ちが浮かぶ。
他人への興味は喜ばしいが、不遇な立場は難しい。
「マーカスさんとの婚約については、前回あなたが来たあとに知りました」
小さな舌打ちをし、苛立ちを隠すように腕を組む。
揺れる視線は不安定で、シグルドの気持ちをそのまま表していた。
「彼女が望んだ婚約ではありません。
今日だって、婚約解消のための相談に来ていたんです」
「さあ、どうだか」
「無駄な強がりはやめておきなさい。
さすがのあなたでも、彼女の気持ちは分かっているでしょう?」
たとえ口に出していないとしても、素直な気持ちからの行動は隠せるものではない。
僅かに身体を揺らしたシグルドを見て、ノエルはやれやれと肩をすくめた。
「あなたも大概分かりやすい人ですね」
「……うるせーよ」
「せっかく出会えた花畑の少女を手放してしまうんですか?」
「そんなの、お前が勝手に言ってるだけだろ」
教会にある大きな薔薇窓には、花に囲まれた金髪の少女が描かれている。
領内では珍しい色だが、遥か昔に作られたものとクレアに関係はないだろう。
それでもノエルは、シグルドがそれに目を向けていたことに何かの縁を感じていた。
孤独な狼の末裔が、架空の少女に目を奪われる。
それは羨望だったのかもしれない。
けれど暗示でもあったのかもしれない。
「せっかく思い合っているんです。その気持ちは大切にするべきですよ」
ようやく芽生えた感情を枯らしていいとは思えない。
しかしシグルドは大きく息を吐き、零すように呟いた。
「……立場ってのは、変えられねーだろ」
狼の末裔と領主の娘。
この領内において絶対に近付くはずのない存在が、誰も知らないところで交わっていた。
ただの牧師である自分が二人のために何ができるのか。
クレアに言ったように、よそ者に厳しいこの領内でできることなどほとんどない。
ノエルは狭い空を見上げ、眼鏡の向こうに思考を巡らせた。
「この領と狼の末裔について、できるだけ調べてきます。大教会まで行けば何か得られるでしょう」
「必要ねーよ。ただの無駄足になる」
吐き捨てるような言葉は諦めからだろう。
しかし、秘密の逢瀬を重ねて育った感情は慈しむべきだ。
自分の理念に従い、強情な狼に背を向けた。
「しばらく教会を空けますが、どうか妙なことは起こさないでくださいね」
「俺はいつも通り、魔の森で魔獣を退治するだけだ」
それだけで済めばいいが。
内心の不安を隠し、ノエルは教会へと脚を進める。
互いに望まない婚約者たちはもう帰ってしまっただろうか。
教会という場所柄、数多くの恋人たちを目にしてきたが、あの二人はまるで違う。
シグルドに思いを寄せるクレアはもちろんだが、マーカスにもその片鱗はなかった。
「いやはや……ままならないものですね」
ノエルは神の御言葉を心で唱え、旅の準備を始めた。
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