20.狼の末裔と警備隊長
「シグルドっ、待って!」
いつもだったら呆れた顔して待ってくれるのに、歩く速度はまったく変わらない。
だから私は全力で走って、ようやく届いた背中にしがみついた。
体当たりにも近い衝撃はなんなく受け止められ、ようやく脚が止まってくれた。
「なんだよ」
機嫌の悪い声。
突き放すような言い方に、私の身体がびくんと震えた。
「離れろ」
「いやっ!」
低く響いた声に間髪入れず断る。
だって、今離れたら、ずっと離れてしまいそうだから。
シグルドは小さくため息を付き、中指をこめかみに押し当てた。
「ねぇ、シグルド……全部、聞いてたの?」
「……何も」
「嘘っ! 聞いてなかったら、シグルドはこんな風にしないもん!」
前を見たまま、視線すらこっちに向けてくれない。
口ごもるような話し方だって初めてだ。
聞かれちゃったんだ……。
どうしていいか分からないでいると、後ろから二つの足音が付いてきた。
「クレア、どうしたんだ?」
しがみついたまま後ろを見ると、マーカスが訝しげな視線を送っていた。
灰色のローブに帽子を被ったシグルドは、明らかに領外から来たと分かるだろう。
ノエルさんはシグルドに声をかけるべきか悩んでいるのかもしれない。
私たちを見て戸惑ったような顔をしていた。
「君は誰だ?」
マーカスの鋭い声に、ようやくシグルドが顔を向けた。
真っ黒な髪と帽子に遮られて、琥珀色の瞳が見えない。
「答える筋合いなんかねーだろ」
「オレはこの領の警備隊員だ。不審者を調べる義務がある」
マーカスは私服の時でも短剣を持っている。
右手が短剣に近付くのを見て、私はシグルドに強くしがみついた。
シグルドに剣なんて向けさせない。
そんな私を見て、マーカスは眉を寄せていた。
「……ああ、そういやあんたの顔は見たことがある。ここの猟師の頭だったか」
「シグルドっ!」
まるで嘲笑うかのような言い方に、思わず声を出してしまった。
そういえばシグルドってば、警備隊のことをそんな風に呼んでいたっけ。
ノエルさんも注意していたのに、本人を前にしても改める気はないらしい。
この領内では領民は尊敬を、そして隊員は誇りを持っている。
警備隊長であるマーカスはその気持ちも強く、一気に機嫌が悪くなるのを感じた。
「侮辱と受け取っていいのか?」
「魔獣を狩って飯の種にしてんだ、ただの事実だろ」
「警備隊はこのフロンティエル領を、ひいてはイストワール王国を守っている。取り消してもらおう」
「嫌だと言ったら?」
シグルドの挑発的な言葉に、マーカスの手が短剣へを握った。
まだ鞘から抜かれてはいないけど、そんなの時間の問題だ。
睨み合う二人の緊張感はビリビリとしていて、何かのきっかけですぐに動いてしまうだろう。
「マーカス待って、シグルドは……」
「クレア、その男から離れるんだ」
初めて聞くマーカスの冷たい声に背中がぞくりとする。
だけどここで引くわけにはいかない。
震える唇を噛みしめながら、一層強くしがみついた。
「警備隊には不審者の捕縛と、場合によっては処分も許されている。
即刻この領から出ていけ。でなければ……」
シャリっと金属が擦れる音がして短剣が抜かれた。
刀身は曇り空からにじむ弱い光でさえ、威圧的な光に変える。
剣なんて鞘に入ったものしか見たことがない。
私の肘から先までよりも短いというのに、向けられただけで脚がすくんでしまった。
「これくらいで剣を抜くなんて、ずいぶんと野蛮な猟師だな」
「黙れ」
鼻で笑うように言うシグルドに緊張は見られない。
だけど剣を向けている側のマーカスは緊張している。
多分、感じているんだろう。シグルドが纏う異様な雰囲気を。
不機嫌とか怒っているとか、そういうのとは違う、実体を持った空気。
まるで魔獣を前にした時のような圧迫感は息苦しさすら感じる。
だけどそんな空気は、小さな吐息に吹き飛ばされた。
「……言われなくても、こんな場所に長居しようなんて思わねーよ」
一気に弛緩した空気の中、シグルドは一人で歩きだす。
しがみついていたはずの指からは力が抜けていて、気付けばその場で座り込んでしまった。
「クレア!」
駆け寄ってきたマーカスではなく、離れていくシグルドに手を伸ばす。
だけど灰色の背中は一瞬たりとも止まらず、どんどん遠ざかってしまう。
追いかけたいのに立ち上がれない。
呼び止めたいのに声が出ない。
無意識のうちに呼吸を止めていたことに気付き、慌てて空気を吸い込んだ。
「しぐ、るど……」
胸いっぱいの空気と一緒に、呼べなかった名前を吐き出す。
だけど呼んだ相手が振り返ってくれることなんてない。
だって、当たり前だ。
私はシグルドに嘘をついていたんだから。
角を折れた背中は完全に見えなくなり、上げようとしていた手が地面に落ちた。
「少し、魔力にあてられてしまったようですね。僕が追いかけます」
「ノエルさん……」
「大丈夫ですよ。これでも彼とは長い付き合いですからね」
薄く笑ったノエルさんが小走りに追いかけ、見えなくなる。
元から人の少ない場所で、私はマーカスと取り残されてしまった。
短剣を鞘に戻したマーカスは、私のすぐ横でしゃがみ込んだ。
すでに冷たい雰囲気はまるでなく、すっかりいつもの穏やかな顔をしている。
「あの男とは、どういう関係?」
優しい声の質問に、小さく首を振る。
マーカスは領外の人を受け入れないし、狼の末裔のことも信じてくれない。
だから、言う必要なんてないんだから。
「誰とも知れない相手と関わっちゃいけないよ。領主様が心配する。もちろんオレもだ」
ゆったりとした口調は、小さな頃から聞いているものだ。
昔からお転婆娘と言われてきた私を、大人に代わって諭している時のもの。
「クレアを傷つける相手なんて忘れるべきだ。
たとえ今は辛くても、今だけだ。時間が過ぎれば傷は癒える」
傷つけられてなんてない。
シグルドと一緒に居られないのに、辛い気持ちがなくなるはずなんてない。
「……オレが支えるから。これからの生涯、クレアが傷つくことがないように」
差し伸べられた手を見て、顔を見上げる。
そこに感じられるのは、親しみと慈しみだ。
恋の気持ちは欠片もなく、優しさからの行動でしかない。
欲しいのは、この手じゃない。
土のついた膝を上げ、自分の力で立ち上がった。
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