19.立場と気持ち
朝から真面目にお勉強をして、早めに終わらせてできた休憩時間。
タミーが部屋を出た隙に、私も急いで家を抜け出した。
今日は変装をしている暇がなかったから、古めかしくて動きづらい服のままだ。
裾を少しだけたくし上げて小走りに進み、人気の少ない場所へと辿りつく。
古くから立ち並ぶ住宅街の中、ぽっかりと開けた場所。
教会の周りに誰も居ないことを確認して、大きな扉をそっと開ける。
一番奥には、白と黒の服を着たノエルさんが立っていた。
「こんにちは、クレアさん」
お昼過ぎでも誰も居ない教会の中で、ノエルさんは穏やかに迎えてくれる。
この領内で他に見ることのない緑色の瞳は、いつ見ても優しい。
一番奥の椅子に座ると、ノエルさんは一人分の隙間を空けて座った。
今の時間は太陽が隠れているのか、薔薇窓はなんの色も落としてくれていない。
「領内では今、あなたの話で持ち切りですよ。
領主の一人娘と警備隊の隊長なら、理想的な夫婦だろうと」
ノエルさんは私の話したいことが分かっていたんだろう。
その一言が呼び水になったのか、詰まっていたはずの言葉がするりと出てきた。
「私、婚約なんてしたくない」
少しの間考えろなんて言われたけど、どんなに考えても変わることはないだろう。
私の気持ちは決まってる。だから、気持ちに逆らわないよう動きたい。
「ノエルさん、私、シグルド以外の人とそんな風になりたくない。
だから、協力してほしいの。お願いします!」
膝に手を置き頭を下げると、沈黙の後にため息が聞こえた。
ノエルさんにとって私は、よそ者に冷たくあたる領主の、ただの娘でしかないだろう。
協力する筋合いなんてないのは分かってる。
でも、シグルドのことをちゃんと知っているのは、ノエルさんしか居ないから。
期待を込めて待っていると、ノエルさんはいつもより少し硬い声を出した。
「……正直、僕がこの領内でできることは少ないです。
領外に駆け落ちでもするのでしたら、いくらでもお手伝いできるのですが……それは最後の手段ですね」
「じゃあ……!」
「神は男女の仲を応援するものです」
手を組み合わせたお祈りの仕草をしたノエルさんは、やっぱりぱちんとウインクをしてくれた。
理解してくれる人がいるだけで、ずっと重たいままだった気持ちが少しだけ軽くなる。
「それで、クレアさんとしてはどう動くつもりですか?」
「好きな人がいるって、言おうと思ってる」
領主であるお父さんを相手に、小細工なんて通用しないと思う。
だから正直に、まっすぐに、自分の気持ちを伝えるくらいしか思いつかなかった。
「次の領主がって言われたら、私の従兄弟が候補にいるの。
だけど領外の人だからって言われちゃって……」
「そうなると、この領の人たちの、領外に対する印象を変える必要がありますか。
せめて領主様だけでも」
言われてみると気の遠くなりそうな話だ。
領内しか知らない時は分からなかったけど、お父さんの身内びいきは昔からのものだ。
それを今すぐに、真逆に変えなきゃいけないだなんて。
到底無理な話に思えるけど、それを乗り越えないと解決はできない。
今日もしっかり結い上げられてしまった頭を振って、弱気な考えを追い出した。
「先日のタミーさんの話の後、この領地のことを僕なりに調べてみたんです」
いつから極端に排他的な風習になってしまったのか。
どうして狼の末裔に関する情報が歪んでしまったのか。
教会に古くから残る文献や、前任者の牧師の話を集めた結果、一つの推論が出たらしい。
「おそらく、百年前がきっかけと見ていいでしょう。
その頃から外交を避けるようになり、国も領外から牧師を派遣するようになったようです」
「牧師さんも関係あるの?」
「この領地の牧師は狼の末裔の補助を仕事としていますから。
領民に歪んだ情報が与えられたのも、その時期になるのではないかと」
「そういえば……家の書斎で読んだ伝承本も、狼の末裔については百年くらい前のお話だった」
「領主様のお屋敷のものとなると参考にできますね。
でしたらやっぱり、百年前に何かがあり、それが理由で今のような風習になったのでしょう」
百年といったら、私のお祖父ちゃんよりもっと上の年代だ。
話に聞いたことすらないけど、探せば肖像画くらい見つかるかもしれない。
あとで見てみようと思っていると、静まりかえった教会の扉が開く音がした。
もしかしてシグルドかな?
胸が跳ねるのを感じながら顔を向けると、そこには普段着のマーカスが立っていた。
考えてみれば、赤い頭巾をかぶらずに目立つ金髪を晒しているんだ。
今シグルドに会うわけにはいかなかった。
「こんなところに居たのか、クレア」
靴を鳴らして近付くマーカスは、今までとまるで変わらない。
焦げ茶色の短い髪に黒い瞳をした、目尻の下がった優しい顔立ち。
だけどノエルさんに向けた目は鋭く、あまりいい気はしなかった。
「どうして、ここに居るの?」
「今日は領主様と用事があって外に出ていなかったんだよ。
それで、タミーが探しているのに会って、こっちを探してほしいって言われたんだ」
抜け出したことはばれちゃったらしい。
今日やるべきことはきちんと終わらせたんだから、見逃してほしかったのに。
「あんまりお転婆をして心配をかけちゃいけないよ」
ぽんと頭に置かれた手が、きれいに結い上げた髪を撫でる。
それはやっぱりいつもと同じで、私の胸は僅かも跳ねなかった。
「マーカスは、これでいいの?」
「何がだい?」
温かい手の平から感じるのは、親しみの気持ちだ。
マーカスが私に向けているのは、私と同じ気持ちなんだろう。
「私との婚約のこと」
「領主様からのお話だからね」
目尻の下がった笑顔にはまったく覇気が感じられない。
感じられるものといえば、諦めくらいだろう。
「私、マーカスのこと好きだよ。でもそれは家族に対する好きなの」
「オレも、クレアのことは妹みたいに可愛がってきたよ」
お互い一人っ子の私たちは、お互いに隙間を埋めあっていたんだろう。
でもそれは、特別な存在だからじゃない。一番近くに居たからだ。
焦がれるような気持ちを持ったことなんて一度もない。
「ねぇ、マーカス。好きな人、いる?」
マーカスの黒い瞳をじっと見つめて言うと、視線がちらりとそれた。
すぐにこっちに戻したものの、私の目とはすれ違う。
マーカスにも、いるんだ。好きで好きでたまらない、誰にも渡したくない相手が。
なのにその気持ちを隠して、他人の命令で将来を決めるなんて。
「……この領地では、領主と警備隊は運命共同体だ。お互いの縁を繋ぐためと言われれば理解はできる」
「だからって、妹みたいに思っている私と婚約なんてできるの?
本当に好きな人と一緒になりたいって思わないの?」
揺らいだ瞳がはっと開く。マーカスだって私と一緒なんだ。
だったら私一人じゃない。一番身近な味方になるかもしれない!
「マーカスも私と一緒に考えよう? 勝手に決められた婚約なんてやめさせようよ!」
いつも触れてる手を握り、ぎゅっと力を込める。
だけど私の手はそっと外されて、マーカスは拒むように拳を握りしめた。
「……オレもクレアも、守るべき立場があるんだ。
立場にそぐわない行動をすれば、いつか痛い目を見る」
苦いものを噛んだような顔は、私に向けたことのないものだ。
それだけマーカスにとって、好きな相手は大事なんだろう。
なのにそれを押し殺して、自分の気持ちを死なせて、立場に見合った行動をするなんて言う。
私はこんなの、絶対に受け入れたくないのに!
「どうして好きな人と一緒になっちゃいけないの?
領主の娘の私は、親が勝手に決めた人と婚約するしかないのっ!?」
子どものようなだだをこねているって言われてもいい。
痛い目を見たって構わない。
私の叫びは教会中に響き渡り、ほんの少しだけ木霊した。
興奮に引っ張られてか、心臓がとんでもない早鐘を打つ。
こんな嫌な鼓動はいらない。
どうせ苦しくなるなら、シグルドを思って苦しくなりたい。
なのに私の胸は勝手に痛んで、荒い呼吸が止まらない。
正面に立つマーカスも、後ろで見ていてくれるノエルさんも、物音一つ立てない。
だけどそんな中で……ギッと、木が軋むような音が響いた。
思わず目を向けた先には少し開いた扉。
そしてその隙間からは、灰色の布が見えた気がした。
「シグルド……?」
そんな……まさか、こんな時に。
嫌な鼓動は更に速くなり、膝がかくんと落ちてしまいそうになる。
だけどそんな場合じゃないんだから。
足首を隠すスカートをたくし上げ、もつれそうになる脚を必死に走らせる。
薄く開いた扉から飛び出して、遠ざかる灰色を追いかけた。
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