17.魔獣の恐怖と縮まる距離
お昼時に二人で胡桃のタルトを食べていると、ふとシグルドがこっちを見つめてくる。
顔に何かついてるかな?
慌てて口元をぺたぺた触っていると、シグルドは私の頭巾を指さした。
「それ、ずっと被ってて邪魔じゃねーの?」
深く被った赤い頭巾は、慣れたとはいえ鬱陶しい時もある。
だけど……シグルドの前で外すわけにはいかない。
あの領で金髪をした人っていったら、私しか居ない。
だから、髪を見せたら私の正体が分かっちゃうかもしれない。
いつかは言わなきゃいけない。でも、今はまだ言いたくない。
心地いい関係を、壊したくないから。
「全然大丈夫。だってお気に入りだから!」
深く被り直しても、シグルドは特に反応を示さない。
ただのなんとなしの話だったんだろう。
緊張でどきどきと苦しくなる胸を押さえ、胡桃のタルトを口いっぱいに詰め込む。
美味しいはずなのに味なんて全然しなくて、頭巾の下で唇を噛みしめた。
それから、時たま話しながら本を読んだり外を眺めていたりしていると、時間はすぐに過ぎていく。
「そろそろ帰れ、赤ずきん」
「はぁい」
窓の外に目を向けたシグルドは、いつものように言ってくる。
仕方がないけど、シグルドも少しは名残惜しいとか思ってくれないかなぁ……。
軽くなった籠を手に持つと、なぜかシグルドも灰色のローブを羽織る。
そして壁に立てかけた剣を腰に付け、そのまま扉を開いた。
「シグルド、どうしたの?」
もしかして魔獣が出たのかな……。
だけど天井にあるベルはピクリとも動いていないし、外では鳥も鳴いている。
一緒に外に出ると、なぜかシグルドは口をへの字にしていた。
「巡回のついでだからな」
そう言って、長い脚ですたすた小道を進む。
巡回のついで……。
なんのことかと考えていると、前に会いに来た時のことを思い出す。
シグルドが魔獣の退治に行っちゃって、その日の帰り道は森の出口までついてきてくれた。
もしかして、今日もそうしてくれるってこと?
「えっ、送ってくれるのっ!?」
「ちげーよ、ついでって言ってんだろーが」
眉をひそめて鼻に皺を寄せているけど、全然怖くない。
ノエルさんも言っていたように、もしかしてこれって……。
「照れなくてもいいんだよ? 私、すっごく嬉しいから!」
「照れてなんてねーよ!」
あーあ、怒っちゃった。
だけど私が追いつける歩幅で歩いてくれているし、本気じゃないんだろう。
すぐに隣に並んで灰色のローブを摘まむと、ゆっくりした歩調に変わる。
チリン、リン。チリン、リン。
浮かれた気持ちを表すように、銀の鈴も軽やかだ。
「……ちゃんとつけてんだな」
「シグルドにもらったものだもん」
手首を上げて見上げると、すぐにぷいっとそっぽを向いてしまう。
露わになった首筋を見ると、ちょっとそわそわしてくるのはなんでだろう?
頬がぽわぽわ、胸がどきどき、首がそわそわ。
シグルドと一緒に居るだけで、私の身体は変になっちゃうんだ。
シグルドはそういうの、ないのかな。
聞いてみようかと思っていたら、ゆったりと進んでいた脚がぴたりと止まった。
「こっち来い」
鋭い声を出したシグルドは小道の脇にある木陰に走る。
日差しはほとんど遮られ、薄暗い木の幹に身を隠した。
「ど、どうしたの?」
「静かにしろ」
小声で短く言われ、慌てて口を手で押さえる。
木々が揺れる音だけが響く中、それは唐突に現れた。
ずしん、ずしんという重たい振動。
ばきん、ぐしゃりという大きな音。
そして……嗅いだことのある、嫌な臭い。
「ま、魔獣……?」
思わず漏れた言葉通りの存在が、木をなぎ倒しながら現れた。
前に見たのとは違う姿でも、纏う空気は同じ。
悠々と歩くその存在に、膝から力が抜けてしまう。
「おい、これくらいでこけんな」
私を木の幹に押しつけながら、シグルドは平然と言う。
すぐ近くに魔獣がいるっていうのに、なんてことのない顔して。
そもそも、どうしてここに魔獣がいるの?
小道には魔獣避けの結界がしてあって、魔除けの鈴も持っているのに……。
震える手でぎゅっと握りしめると、手の中でころんと揺れた。
「それが避けるのは害意のある魔獣だけだ。
あれは攻撃的な魔獣じゃねーから、こっちから仕掛けなきゃ何もしてこない」
「じゃあ、退治、しないの……?」
「森の外に出るようなら退治するが、じゃなきゃ放置だ。見つからないようじっとしてろ」
シグルドの言葉の通り、魔獣はただ歩いているだけらしい。
のんびりとすら感じる歩みで、大きな身体は離れた場所まで振動を伝えてくる。
「い、今まで……小道で、あんなの、見たことない」
「満月が近付くと魔獣が活性化するんだよ。嫌な時期だ」
魔獣に目を向けながらも、まるで天気の話をしているかのような平然とした口調。
シグルドにとってこれは特別でもなんでもなくて、通り雨のようなものなのかもしれない。
だけど私はそうとは思えなくて、木の幹に寄りかかりながら強く目を閉じる。
震動が、音が、臭いが、近付いてくる。
身体の芯から震えが響き、手足の先は冷たく痺れる。
初めて見た時は一瞬だったから分からなかったけど、あんなのと戦えるはずがない。
なのにシグルドは、魔の森から外に出さないように、ずっと一人で戦ってくれている。
「……あんなの見たら、普通はこえーよな」
足音の合間に聞こえた声は、どこか寂しそうに聞こえた。
思わず目を開けると、シグルドがすぐ目の前に居る。
そして私の手を握ったかと思ったら、灰色のローブの中に引き寄せられた。
「し、ぐるど……?」
「お前は見なくていい。聞かなくていい。黙ってここで、大人しくしてろ」
ゆったりとしたローブは私を包み込んでくれて、視界は真っ暗だ。
そして変わらず感じる震動は、目の前から聞こえる音にかき消される。
とくん、とくんと響く鼓動は一定で、心地いい。
シャツの奥から感じる体温は、温かい。
握ったままでいてくれる手は、力強い。
「シグルド……怖い」
怖い。大切な人が、魔獣と戦うことが。
こうして触れ合えることが、当たり前なんかじゃないって思ってしまうから。
鼓動を響かせる場所に手をあてて、ゆっくり耳を押しつける。
ちゃんと生きてるって確認しなきゃいけないなんて、今まで思ったこともなかった。
「……怖けりゃしがみついてろ」
低く響いた声に誘われ、腕を背中へ回す。
到底回しきれない広い背中にしがみつき、力を込めて抱きしめた。
近付いて分かるのは、鼓動と体温だけじゃなかった。
顔を押しつけた場所からは、甘い木のような落ち着く匂いがする。
小さな息遣いは少し荒くて、擦れたようなため息が耳に届く。
鼓動が速くなっていく。それは自分か、シグルドか。
身体の震えや手足の痺れは、そっくりそのまま熱に変わる。
こんな時だっていうのに、私の身体は全身で幸せを感じていた。
「……もう行ったから大丈夫だ」
長かったのか短かったのか、魔獣は通り過ぎたらしい。
ほっとしたようなシグルドの声を聞き、私の身体がぴくんと跳ねた。
しがみついていいって言われたのは、魔獣が居たから。
魔獣が居なくなったら、その理由はなくなってしまった。
離れたくない。
そう思ってしまって、身体をぎゅっと押しつけた。
「もうちょっと……こうしてちゃ、駄目?」
魔獣が去ったっていうのに、鼓動は全然落ち着かない。
むしろもっと苦しくて、とぎれとぎれの言葉になってしまう。
こうしていたら、私の気持ちが分かっちゃうかな。
ちょっと恥ずかしいけど、知ってもらえたらいいのかもしれない。
シグルドに好意を向ける人は、ちゃんと居るんだよって分かってもらえるなら。
「……お前、俺が怖くねーの?」
低い声は、触れ合った場所から響いてきた。
握った手は少しひんやりしていて、温めたくて肌を擦る。
「怖くないよ」
この手で私を守ってくれる。
そんな人が、怖いはずないのに。
狼の末裔がなんだっていうの。
シグルドはシグルドで、とっても強くて優しい、素敵な人なんだから。
「……落ち着くまで、こうしててやる」
そう言って、シグルドは私を抱きしめた。
灰色のローブに包まれたまま、力強い腕に囲われる。
息苦しいほどの力なのに、苦しさよりも幸せな気持ちがあふれてきた。
私からじゃなくて、シグルドからしてくれたから。
負けないように強く抱きしめても、到底勝てるものじゃない。
そういえば、絵本のお話でもあったっけ。
狼に食べられてしまった主人公が、お腹の中をこう言っていた。
狼のお腹の中の、とても暗かったこと。
私の狼さんのお腹の中は、とても暗いけど、とても安心できるんだ。
シグルドのことが好き。そう言えたらどんなにいいだろう。
だけどシグルドは? 私のことを、どう思っているんだろう……?
「……お前の名前、なんだっけ」
頭の上から聞こえた質問に、喉の奥がぎゅっと絞まる。
初めて会った時はすんなり言えたのに、今は言うのが怖い。
シグルドは領内のことをどれだけ知っているんだろう?
私の名前を知って、すぐに結びついたりはしないかな。
そうかもしれないって分かってるけど、絶対なんてないんだから。
「赤ずきん、だよ」
そう教えてあげたら、シグルドは小さく笑った。
それからどれくらい一緒に居ただろう。
速かった鼓動が安心する速度に変わった頃、シグルドは腕の力を緩めた。
「そろそろ日が落ちる。帰るぞ」
ローブの中から出てくると、外の空気は少し冷たくなっていた。
木々の隙間から僅かに見える空は赤い。
その下にいるシグルドの顔も、射し込む夕日でほんのり赤く染まっていた。
急がないと。分かっているけど離れたくない。
なのにシグルドはすぐに身体を離してしまい、温まった場所に冷たい風が通る。
「あの、シグルド……」
動けないでいたら、握られたままの手がくいっと引っ張られた。
「門限守らねーと抜け出せなくなるんだろ」
太くて節張った逞しい指が、私の手をしっかり握ってくれている。
冷たかった手はすっかり温まっていて、同じ温度でいてくれた。
「歩けないって言うなら、担いで運んでやろーか?」
「えっ、担ぐの? 抱っことかおんぶじゃなくて?」
「なんでそんな丁寧に運ばなきゃなんねーんだよ。荷物扱いで十分だ」
「ひどい! ちゃんと歩けるよっ!」
じっとしていた脚は少し動きづらいけど、シグルドが支えるように手を引いてくれる。
口ではひどいことを言ったりするけど、やっぱりとっても優しいんだ。
繋いだ手とは反対につけている鈴は、歩くたびに軽やかに鳴り響く。
チリン、リン。チリン、リン。
ちらっと横を見てみると、シグルドもこっちを見ていた。
「……なんだよ」
「なんでもないよ?」
夕日で赤いと思っていた顔は、もしかしたらそうじゃなかったのかも。
そんな都合のいい考えをしながらの道は、あっという間に終わってしまった。
魔の森の終わりで銀の鈴を外し、大事にポケットにしまいこむ。
だけど繋いだ手を離すのはちょっと嫌で、そのまま少し歩いてみた。
「おい、ここからは一人で帰れんだろ」
「やっぱり、帰っちゃうの?」
すぐに立ち止まってしまったシグルドに振り返り、ちょっと唇を尖らせてみた。
領内には宿屋もあるし、一晩くらいこっちに居てもいいんじゃないかな。
そう言ってみると、シグルドは呆れたように中指をこめかみに押し当てた。
「お前なぁ……宿屋なんかに泊まってどうすんだ」
「そしたら私、遊びに行く! 一晩一緒に過ごせるよ?」
お部屋の中だったら周りを気にしないでいいし、帰りの時間も問題ない。
朝までずーっと一緒に居て、いっぱいお喋りできるはず。
そんな素敵な提案なのに、シグルドは眉間に深い皺を寄せていた。
「自覚ねーのが一番たち悪いんだよ、この馬鹿ずきんっ!」
怒鳴るように言ったシグルドは、握った手を思いっきり振りほどいてしまった。
「えーっ、なんで!?」
「うるせー誰が教えるか! そもそも、俺が魔の森を離れてどうすんだ」
「買い出しに来てたじゃない」
「あれは昼間だからだ。満月近くの夜なんて一番離れらんねーんだよ」
シグルドの背後にある魔の森からは、ガサガサと物音が響く。
それは茂った木々がざわめいているからなのか、それとも、他のものなのか。
小さく舌打ちをしたシグルドは、腰の剣に触れてから後ろに振り返る。
「シグルド!」
呼びかければ、止まって視線を向けてくれる。
だけどこっちに来てくれることはなくて、その場で私を見つめ返す。
「シグルドは、どうして魔獣と戦うの?」
前に聞いた時は、そういう役目だからって言ってた。
でもそれだけで、あんなに怖い存在と戦えるものなのかな。
身近な場所では化け物と言われて、英雄とは真逆の扱いをされている。
私だったら逃げ出したいし、腹が立ってしまうと思う。
だからどうしてシグルドは、魔獣を退治してくれるのか。
「魔獣を駆除するのが、狼の末裔の仕事だ」
返ってきた答えは前と同じ。だけど、今回はそれに続きがあった。
「今までは、俺がやんなきゃ人が死ぬって言われて渋々だった」
強い魔力があるからって、魔獣と戦うことを義務付けられてきた。
放棄すれば人が死んじゃうなんて、ただの脅迫だ。
「でも……お前が住んでる場所を守ってるって考えれば、悪くねーって思えるようになった」
そう言ったシグルドの口元は、うっすらと笑っているように見えた。
少し吊り上がった琥珀色の目は力強くて、自信に満ちているみたい。
そんな姿が眩しくて、落ち着いていたはずの鼓動がまた速くなってしまう。
「そんなに格好いいこと言われたら、帰りたくなくなっちゃうよ」
「馬鹿、さっさと帰れ」
シグルドはそう言って、元来た道へ走っていってしまった。
これからきっと、怖い魔獣と戦うんだ。
その理由は仕事だからってだけじゃなくて……私のためでもあるんだよね。
赤い夕日が沈む前に木の扉をくぐり、誰も居ない教会の中に入る。
大きな薔薇窓は赤い夕日を透かしていて、なんだか不安になる色合いだった。
「シグルドが、怪我しませんように」
危ない目に会いませんように。辛い目に会いませんように。
敬虔な信者でもなんでもないけど、曖昧な顔の石像にお祈りをする。
少しでいいから、報われますように……。
最後に強く願ってみても、胸の重さは晴れなかった。
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