10.銀の鈴と名前

「……もうじき日が沈み始める。帰れ」


「えっ? あ、そっかぁ……」


 狼さんは窓の外を見て、いつものように端的に言う。

 いつもよりも遅い時間だから急がなきゃいけない。

 だけどせっかく狼さんが自分のことを教えてくれたのに、もう帰らなきゃいけないだなんて。

 離れがたい気持ちでいると、狼さんは口を歪め、するりと手から抜け出した。


「……今日は森の出口まで送ってやる」


「えっ、いいの!?」


「巡回のついでだ。さっさと準備しろ」


 狼さんは立ち上がると、まるで急かすみたいに扉を開けた。

 私は急いで軽くなった籠を持ち、赤い頭巾を深くかぶり直す。

 そして二人でお家の扉を出て、細い小道の上を進む。

 はみ出ないように近付いて、肩が触れ合いそうな距離にどきどきしてしまった。


「ねぇ、狼さん。手を繋いでもいい?」


「嫌だ」


「迷子になっちゃうかも」


「ガキか」


 子ども扱いされても、繋いでくれるならそれでいい。

 ローブの中に隠れた手を握ると、振り払われはしなかった。


「怖いなら怖いって言えよ」


 呆れたような言い方に、あたりをぐるりと見回してみる。

 日暮れに向かう魔の森は、だんだん不気味になっていく。

 遠くで聞こえる何かの声は、魔獣のものかもしれない。


「じゃあ、怖い」


「じゃあってなんだ」


 一人だったら怖いだろうけど、狼さんと一緒なら怖くない。

 そう言ったら手を離されちゃうだろうから、都合のいいことを言ってしまう。

 狼さんの手は、大きくて、ごつごつしていて、ささくれだっている。

 傷も手荒れもない自分の手と比べると、まるで違うものだろう。

 この手が、私たちを守ってくれている。そう考えたら、硬い肌すら愛おしい。


「狼の末裔のこと……誤解が解けたりしないかな」


 本当は、化け物なんかじゃなくて、人を襲うこともなくて、むしろ私たちを守ってくれている。

 それを知ったら、領地のみんなは狼さんを受け入れてくれるんじゃないか。

 期待を込めて言ってみたけど、狼さんはふんとつまらなそうに息を吐いた。


「土着の信仰はある意味狂信的なものだからな。ただでさえ、あの領は古めかしくて排他的なんだ」


 排他的……。

 その言葉に、今まで何度も感じてきた疑問や不満が頭に蘇った。

 外は危ないからって、領外から来た人を信用してくれない。

 領地の中と外で、極端に分けようとする。

 言われるまで、その考えに至らなかった。

 領内の人は仲がいいけど、外から移住してきた人たちはなかなか馴染めないって言っていた。

 その理由が、排他的な考え方なんだとしたら……。


「そこから外れた者には極度の罰が与えられるもんだ。領内では間違ってもそういうこと言うなよ」


 距離を置かれているのは狼さんだというのに、私のことを気にしてくれる。

 そんな狼さんはやっぱり優しくて、嬉しいような寂しいような気分になってしまった。


 茂った木々が減っていき、平野が広がってくる。

 魔の森はこれで終わり。狼さんがついてきてくれるのはここまでだろう。

 もっと一緒に居たいって思うけど、帰らなきゃいけないし狼さんの邪魔をしてもいけない。

 名残惜しいけど手を離し、温かさを逃さないように握りしめた。


「お前……これからも来るつもりなのか?」


 さよならを言いたくなくて黙っていたら、狼さんは眉をひそめて聞いてきた。

 狼さんは何度も魔の森には来るなって言ってきた。

 だけど私は狼さんに会いたいから、もう行かないなんて絶対言えない。


「私ね、休息日しか来られないの。だから毎日押しかけて狼さんの邪魔したりなんてしないよ!」


 七日に一度だけでいいから、好きな人に会いたいっていう我が儘を許してほしい。

 太陽の赤さが増してきて、空からも急かされている気分になる。

 だけど答えを聞かずに帰るなんてできなくて、離したばかりの手を伸ばす。


「狼さん、だから……」


「シグルド」


 ぽつりと響いた音はなんだろう?

 赤い光に照らされた狼さんが、口をへの字に曲げていた。


「森の外で狼って呼ぶな。誰かに聞かれたら面倒だろ」


 じゃあこれは、狼さんの名前?

 耳から染みこんだ名前を頭に浮かべ、動きづらい口で声にする。


「……シグルド」


 小さく唱えただけなのに、鼓動が速くなって頬がぽわぽわ熱くなってきた。

 身体の真ん中から温かい気持ちがじわじわ広がって、あふれてしまいそうな胸を手で押さえる。

 どうしよう……名前だけでこんな気持ちになるなんて。

 教えてもらえたことが嬉しくて、幸せな気分でいっぱいになってしまう。


「シグルド!」


「うるせー。あと、これ」


 突き出された手に握られているのは、革紐に結ばれた鈴。

 チリンと涼やかに鳴る鈴は、聞くと胸がすぅっとする気がした。


「魔除けの鈴だ。森に入る前に手首につけろ」


「魔除け……? この道には魔獣避けの結界があるんじゃないの?」


「結界はある程度の強さまでしか効かねーんだよ。その鈴にはもっと強い効果がある。

 ただ、敵対した魔獣に効果はないから過信すんなよ」


 差し出された鈴に触れ、革紐に指を通す。

 私の指に引っ掛けられる時に、硬い皮膚が肌をかすめた。

 さっきまで繋いでいた手なのに、もっと温かいって感じるのはどうしてだろう?


「それって、行ってもいいってことだよね?」


「来んなって言っても来るんだろ」


 ため息交じりの呆れた声は何度も聞いたものだ。

 だけど言われたことは正反対で、嬉しくて飛びついてしまった。


「やったぁ! お招きされちゃった!」


「ばっ……馬鹿、くっつくな!

 俺の行動範囲で何か起こるのが面倒なだけだ! 都合のいい勘違いすんじゃねー!」


 眉をひそめて鼻に皺を寄せ、怒った声で言われてしまう。

 だけど慌ててるような行動と、指に残った温かさを思えば、怖いだなんて思えない。


「お前の家はあの壁の中だろっ、さっさと帰れ赤ずきん!」


「はぁい!」


 力いっぱい剥がされてしまったから、もっと怒られる前にぴょんと離れる。


「また行くから! 待っててね、シグルド!」 


 追い払うように手を振られてしまったから、大人しく小道を進む。

 だけど少し歩いて振り返ったら、まだそこに居てくれた。

 夕闇に紛れる灰色のローブは、すぐに見えなくなってしまうだろう。

 だけど、また会えるんだから。

 ポケットにしまった銀の鈴を上から撫でて、スキップをしながら帰った。

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