09.ベルの警報とお留守番
持ってきたランチはどうにか食べてもらえた。
助けてもらったお礼が済んでないからって言ったのに、もうもらったって言うんだから。
タルト一切れじゃ気が収まらない、っていうのはただの言い訳で、一緒に食事をしたかっただけ。
それが達成できたことで私の機嫌は最高潮だ。
たとえ狼さんが安楽椅子で本を読んでいたって、同じお家に居られるだけで進歩だろう。
テーブル横の椅子に座って、お家の中を眺めてみる。
板張りの床に、太い丸太で組まれた壁。
明かり取りの天窓と、私の目線にある二つの出窓。
真四角の部屋はキッチンと書斎と寝室が全部一緒になっているらしい。
領内では目にすることのない構造は、一人で暮らすには便利そうだ。
「狼さん、普段のご飯はどうしているの?」
お肉は嫌いでお野菜は畑で取れるとしても、パンや飲み物を作るのは難しい。
木棚には保存ができるパンやワインが並んでいるから、どこかで調達しているんだろう。
一緒にお買い物に行けるかなって期待を込めて聞いてみたけど、狼さんは答えてくれなかった。
「狼さん、いつもここで本を読んでいるの?」
作り付けの本棚には、分厚くて難しそうな本がいっぱい並んでいる。
古いものが多いようで、中にはぼろぼろなものもあった。
狼さんが今読んでいるのも表紙が擦り切れている。
「狼さん、どうしてここで暮らして……」
「お前なぁ……」
質問の途中で顔を上げられ、琥珀色の目がひたりと向けられる。
お家の中でもきらきらと輝いている目は、なんだかちょっと不機嫌そうだ。
「俺の邪魔をすんな」
「だって知りたいんだもん」
一緒に居られて嬉しいけど、狼さんのことを知られたらもっと嬉しい。
だからつい聞いてしまったけど、言われてみれば読書の邪魔になるだろう。
「やっぱ帰れ」
「まだ昼過ぎだよ?」
太陽はまだまだ上のほうにあって、帰りを気にする時間じゃない。
ゆっくりゆっくり果実水を飲んでいると、狼さんは深いため息をついた。
「こんなとこに居てもつまんねーだろ」
「ううん、楽しい!」
防壁の外に来られて、魔の森を歩けて、好きな人のお家で過ごせる。
それでつまらないわけがない。
頬がぽわぽわするのを感じながら答えると、狼さんは声をつまらせた。
困ったような顔もまた素敵だ。
顔がにやけてしまいそうになるのをぎゅっと堪えていると、突然、部屋の中に轟音が響き渡った。
「ひっ!?」
ジリジリジリジリ――――。
金属がぶつかるような音は天井から聞こえていて、そこには大きなベルがぶら下がっていた。
「面倒な時に出やがって……」
低く呟いた狼さんは、壁にかけていた灰色のローブをさっと羽織る。
そして壁に立て掛けていた剣を持つと、扉を開く前にこちらを振り返った。
その表情は険しくて、心臓がぐっと苦しくなる。
「な、何が起きたの……?」
「魔獣が出ただけだ。大人しくしてろ」
「じゃ、じゃあ狼さんも……っ!」
「俺が行かないでどうする。お前は絶対にここから出るなよ、いいな」
そう言い捨て外に出ると、大きなベルの音がぴたりと止んだ。
耳に痛い音がなくなったことで、しんとした室内が余計に際立つ。
急いで出窓から外を覗いてみると、灰色のローブはもう見えなくなってしまった。
魔獣が出たって……。
初めて魔の森に来た時に出会った魔獣。
目の前まで近付いた魔獣は、とても大きくて、とても速くて、とても怖くて……。
思い出しただけで身震いしてしまうものに、狼さんはあえて向かっていく。
「どうして……」
どうして、魔獣避けをしている場所に隠れていないの?
どうして、狼さんが魔獣に近付くの?
どうして……一人で行くの?
心臓が強い鼓動を繰り返し、なのに身体は冷えていく。
前にマーカスが言ってた。
警備隊が大勢で相手にしても、魔獣を倒すのは大変だって。
怪我をすることだってあるって。
なのに狼さんは、たった一人で魔獣に向かっていく。
「怪我……したら、どうしよう」
ううん、怪我どころか、もっとひどいことにでもなったら……。
縁起でもないことが浮かんでしまい、慌てて頭を振った。
狼さんはとっても強い。大きな魔獣だって涼しい顔で倒しちゃう。
だから、絶対大丈夫。
そう言い聞かせようとしても、胸に響く嫌な鼓動は変わらず、手足の先が痺れてくる。
外からの音に耳を澄ませると、草木が揺れる音にさえ反応してしまう。
鳥の鳴き声すらしない外を見つめ、狼さんの言いつけだけを守った。
それからどれくらい経っただろう。
太陽がだんだんと低くなり、いつもだったら帰れって言われる頃。
じゃりっと土を踏みしめる音が聞こえたと思ったら、木の扉が開いた。
「狼さんっ!」
真っ黒な髪を少し乱した狼さんは、お家に入る前にぱんぱんとローブを叩く。
その顔に険しさはなく、少し吊り上がった目はいつもと同じに見えた。
「いい子で待ってたか、赤ずきん」
ちょっと意地悪そうな顔を見て、すぐさま玄関へと走る。
その勢いのまま飛びつくと、狼さんはびしりと固まってしまった。
「待ってた! 私、ちゃんといい子で待ってたよ!」
「まっ……馬鹿っ、待て! これのどこがいい子だ! 離れろっ!!」
「やだっ! 怖かった! 帰ってきたんだもん! 離れないっ!!」
ごわごわしたローブの上からぎゅうぎゅう力を込めると、狼さんは抵抗をやめてくれた。
到底腕を回しきれない背中に触れ、抱きつくようにしがみつく。
そのままじっとしていると、ローブの奥からゆっくりゆっくり温度が届く。
狼さんが帰ってきた。
ようやくそう実感できたら、目から涙があふれていた。
「お、おい……」
床に落ちる水音が聞こえたのか、狼さんが私の顔を覗き込んでくる。
令嬢が乱した感情を見せるのはみっともないって、タミーは言ってた。
だけど、ほっとして、安心して、よかったって思って流す涙は、みっともないものなのかな。
しがみついた手を離すことはできなくて、拭けない涙があとからあとから流れてくる。
そんな私に戸惑っているのか、狼さんはいつもより落ち着かない声をしていた。
「ここに魔獣は来ないから、泣くな」
違う。魔獣は怖いけど、それだけじゃない。
「もう退治してきたし、お前の帰り道とは違うから」
違う。狼さんのお家と小道は、安全だって知ってる。
狼さんは、どうして分かってくれないんだろう?
俯いていた顔を上げ、琥珀色の瞳を見上げた。
「狼さんに何かあったらって思うと、怖かった」
「……はぁ?」
心の底から意味が分からないという感じの反応に、なんだか悔しくなってきた。
しがみついていた手を拳にして、目の前の胸をどんどん叩く。
私の力いっぱいの攻撃は、狼さんにとっては体勢すら崩すものではないらしい。
何度叩いても僅かにしか揺れない逞しい身体は、戦う人の身体なんだろう。
でも、そうだとしても……。
「絶対大丈夫なんて、ないんだから」
自分に言い聞かせていた言葉なのに、そんなのあるわけないって分かってしまう。
どんなことにだってもしもはある。
一人で戦って何かあったら、どうにもできないのに。
でも、だったらどうすればいいかなんて思いつかなくて、叩き疲れた手で再び灰色のローブを掴む。
黙ってしまった私を前に、狼さんは小さなため息を漏らした。
「……魔の森は、これが普通なんだよ。領地で暮らすお前には信じられないだろうが」
そんなこと言ったら、領地に住む誰もが信じられないだろう。
私が今まで無事で居られたのは、狼さんのおかげなんだ。
魔獣避けの結界の中じゃなかったら、私なんてすぐにどうにかなっちゃうんだろう。
「これに懲りたら、魔の森に来るのなんてやめておけ」
薄い唇が引き結ばれ、しがみついていた身体が少し離れる。
だけどそんなのは嫌で、離れた分だけ近付いた。
「魔獣は怖いけど、狼さんに会いたい」
魔の森に来なきゃ会えないっていうなら、来ないなんてもう無理だ。
そう伝えると、狼さんは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、ゆっくり目を細めた。
「……お前、馬鹿だろ」
「馬鹿でいいもん」
狼さんは自分のローブで、流れっぱなしだった涙を拭いてくれた。
そして初めてベッドの上に座らせてくれて、狼さんは椅子を引き寄せて腰掛ける。
こんなに近い距離で座るのは初めてだ。
だけどそんな嬉しさを感じるよりも、聞きたかったことを口にした。
「狼さんは、どうして魔獣と戦うの?」
警備隊は、みんなを守るためだって。そのための剣なんだって言っていた。
だとしたら狼さんは、なんのために重たい剣を持っているんだろう?
狼さんが腰に付けたままだった剣に触れると、カチャンと擦れる音がする。
使い込まれている剣は、ずっしりと重たそう。
ローブの中に隠してから、狼さんはちょっと俯いて、すぐに顔を持ち上げる。
「狼の末裔っていうのは……国から手配された、魔獣を退治する魔術師のことだ」
淡々と始まったのは、私も、領地の誰も知らない話だった。
「こんな名称だが血の繋がりなんてない。
偶発的に生まれる、魔力が特に強い連中のことをそう呼んでいるだけだ」
魔法が使える人は決して少ないわけではない。
だけどフロンティエル領では極端に少なくて、存在を意識することはなかった。
「子どもの頃に教会で祝福を受けただろ。あの時に魔力を測られてるんだ。
異常な値が出たら狼の末裔と見なされて、訓練の後にこの見張り小屋に行かされる」
イストワール王国内では、六歳になると教会に祝福を受けに行く。
そんなのはただの慣例だと思っていたのに、そんな意味があっただなんて。
「普通の力じゃ倒せないような魔獣を退治するのが、狼の末裔の仕事だ。
そのために、異常な魔力と身体能力を持っているんだとさ」
そういえば、前に言っていたっけ。狼さんの魔法は異常なんだって。
平然と使っている魔法は、普通だったら一生懸命にやらないとできないものなのかもしれない。
「稀代の魔術師なんてもてはやされるが、ただの腫れ物扱いだ。
それも、魔の森に一番近い場所が一番ひでー扱いなんてな。
化け物扱いされてるって前任者に教えられて、笑っちまった」
小さく歯を見せての台詞は、本当にそう思っているのかもしれない。
だけど私はそう思いたくなくて、腫れぼったい目蓋をぐっと開いた。
「狼さんは化け物なんかじゃないよ!」
狼さんは、魔の森に住むとっても強い人だと思っていた。
だけどこんな話を聞いたら、それだけだなんて思えない。
ベッドから飛び降りて狼さんの前に行き、大きな手をぎゅうっと握った。
吊り目がちの目元は、上から見ると真逆に見える。
初めて見下ろす位置にいる狼さんは、私を見上げて呟いた。
「……今の話が嘘だとは思わねーのか?」
「え? 嘘なの?」
「いや、本当だけど……」
変な狼さん。せっかく話してくれたお話を嘘だなんて思うはずないのに。
握った両手を胸まで持ち上げて、抱きしめるように引き寄せた。
「狼さんは、陰でみんなを守る英雄なんだね!」
警備隊でも倒せないような魔獣を倒し、みんなの平和を守ってくれる。
それが英雄じゃなくてなんていうんだ。
なのに狼さんは琥珀色の目をまん丸にしてから、小さく吹き出してしまった。
「そんなことを言うのは、この国でお前くらいじゃないか?」
「本当のことだもん!」
もしもこの国のみんなが否定しても、私だけは違っていたい。
狼の末裔の本当の姿を、ちゃんと知っていたい。
そんな気持ちを込めて見つめていたら、狼さんはふっと息を吐いた。
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