第53話 書籍化記念SS スキンシップの積み重ねが大事です

 アレックスと結婚して十日ほどが経過した頃のこと。


 毎朝同じ寝台で起き、一緒に朝食をとる。最近のお気に入りはとろとろの半熟卵。これにちぎったパンの欠片を浸して食べると頬っぺたが落ちそうになる。

 他にもカリカリのベーコンやはちみつをかけたヨーグルトも美味しくて、朝からつい食べすぎてしまう。


 特にアレックスはエリーゼが食べるところを見るのが好きなのか、たくさん勧めてくるからセーブするのが大変だ。


 食事を済ませたあと、アレックスは王城へ出勤する支度を整える。


 朝食時はまだ砕けた格好をしている彼が、出かける前にネクタイを結ぶ仕草が格好良くて、つい盗み見てしまう。彼は器用で簡単そうに手を動かす。

 エリーゼは鏡台の前に座り、侍女が髪の毛にりぼんを結んでくれるのを眺めながら、今朝のことを思い出す。


「ネクタイって不思議。どうやったらあんな風に結べるのかしら」

 りぼん結びなら得意なのだが、あのような複雑な結び方は真似できそうもない。

「奥様はネクタイ結びに興味がありますの?」

「え?」


 心の中で思ったことが口から出ていたらしい。今までひとり言に返事をしてくれる人はいなかったのだが、結婚して侍女をつけてもらった。エリーゼと同世代の侍女たちは優しく親しみやすい。


「あ、すみません。わたし、ついおしゃべりが過ぎてしまうんですよね」

 ぺこりと頭を下げた彼女の名前はキャロル。表情がくるくるとよく変わるのが印象的だ。


「ううん。長い紐があっという間に形を変えるからすごいなって思ったの」

「分かります。わたしも最初驚きました」

「あなたも?」

「はい。練習すると案外簡単なんですよ」

「あなたはネクタイを結べるの?」

「はい。わたし侍女なので」

 エリーゼが尊敬のまなざしを送るとキャロルが胸を張った。


「あ。奥様も練習してみますか? 世の中には、奥様が旦那様のネクタイを結んで差し上げるっていう夫婦もいらっしゃいますよ」


 仲のよい夫婦の証です、とキャロルが続けたからエリーゼは興味を持った。

 結婚してまだ日が浅いが、アレックスはとても優しくエリーゼに接してくれる。自分にできることは何でもしたいのだと思うのに、妻としてまだ未熟なエリーゼにできることは少ない。


「あ、あの。わたしにネクタイの結び方を教えてくれますか?」


 おずおずと切り出せば、キャロルは食い気味に「もちろんです!」と返事をしてくれた。




 エリーゼがアレックスに内緒でネクタイ結びの特訓を始めて数日が経過した。何度も練習してようやくきれいに形が整うようになった。

 これならきっと、人前に出ても恥ずかしくはない。キャロルからお墨付きをもらい嬉しくて舞い上がった翌日。


 エリーゼは一つ目の壁にぶち当たった。


(ううっ……。ネクタイを結びますってただ言うだけなのに、ハードルが高い)


 そう、とっても恥ずかしいのである。


 練習時はキャロルや他の侍女たちの首元を借りていて、その時はなんとも思わなかった。

 だが、アレックスを前にすると妙に照れてしまう。どうしてだろう、と首をひねって思い至る。

 きっと彼の側に寄って首筋に触れるからだ。自分から男性に触れるだなんて、と想像しただけで頬が火照ってしまう。


 だが、これも良き妻の第一歩。練習の最中、侍女たちから聞いたところによると、こういう小さなスキンシップをはかりながら世の夫婦は絆を深めていくのだという。


「だから、奥様も旦那様のために頑張ってください!」そんな風に励まされたエリーゼは、よしと意気込んだ。ここはアレックスの妻として踏ん張りどころだ。


 朝食を終えたエリーゼは彼のあとをついて行く。

 彼はいつものようにネクタイを手に取った。

 今だ、と思いエリーゼはアレックスに声をかける。意気込みすぎて少々大きな声になった。


「あの!」

「どうした?」


 アレックスの声はいつもと変わらない。穏やかで優しい声だ。

 見つめられたエリーゼはつい視線を彷徨わせてしまう。


「ええと……あの。今日はその……」

「何か気になることでもあるのか? 体調が悪いとか、どこか痛いとか」

「へっ? いえあの、いたって元気です」


 アレックスがエリーゼの額に手をやり始めたため、即座に否定する。この日のために練習したのだ。キャロルたちにも無事にやり遂げたと成果を報告したい。


「あの。アレックス様のネクタイを今日はわたしが結びたいのです」

 一気に言い終え、おずおずと彼の顔を見上げる。黒曜石の瞳の中に自分が映っているのが分かる。


「……あの、だめですか?」

 一向に返事がないため、エリーゼはしゅんと眉を下げつつ尋ねた。


「いや。だめではない。では、お願いする」

「はいっ! 任せてください」


 エリーゼは嬉しくなってとびきりの笑顔を作った。

 その笑顔に夫が悩殺されていることなど露にも思わず、エリーゼはさっそくネクタイを受け取り、彼の首にかける。それから練習通りに結んでいく。


 最初は緊張で手が震えたけれど、心の中で「練習通りに」と念じ続けたおかげで無事きれいに結ぶことができた。


「いかがでしょう?」

「……」

 アレックスはどこかぼんやりしている。


「形、お気に召しませんか?」

「いや、そんなことはない。とてもきれいに結べている」

「ほんとうですか? 実はたくさん練習したんです」


「……誰に?」


 嬉しさのあまりエリーゼはアレックスの声が若干低くなったことに気がつかない。


「キャロルやディースリーたちです。侍女の皆さんが協力してくれました」

「……そうか。てっきりリッツ達、男の首を借りたのかと思った」

「何か言いました?」

「いや」


「世の中の夫婦は、こうして仲を深めていくそうなのです。わたしたちはまだ結婚したばかりですが、これからもよろしくお願いしますね」

「こちらこそ、私の妻になってくれてありがとう」


 どちらからともなく視線を絡め、微笑み合う。

 妻としてはまだ駆け出しだけれど、一歩一歩前に進んでいけるといいな、と思った。

 それから、ネクタイ姿のアレックスは今日もとびきり素敵だとも思った。




 ちなみに、職場でにやけていたアレックスに「何かいいことでもあった?」と尋ねたブラッドリーは「今朝、エリーゼが私のネクタイを結んでくれたんだ」との返事をもらいそれはもう盛大に悔しがった。


「私だって、ブリギッタからネクタイを結んでもらったことないのに。何、新婚ラブラブシチュエーションを満喫してるの⁉」


と地団太を踏み、急いでブリギッタの元へ向かった彼が、ネクタイを結んでほしいと駄々を捏ねたのは別の話だ。

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